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黒羽遊園地の秘密|第2話|霧の中の怪異

 サインを終えた大翔がペンを置くと、デスクの向こう側で森田園長が口角を吊り上げた。サングラスの奥の瞳は見えないが、蛇に睨まれたような不快な湿り気が肌を刺す。
「これで、いいんですか」
「ああ。賢明な判断だよ、小森谷君。君は必ず戻ってくると思っていた」
森田の声は、まるで使い古されたレコードのように、ざらついていて粘りつく。部屋の冷房は設定温度を無視しているかのように異常に低く、大翔の吐く息が白く濁った。
大翔は、胸の鼓動を抑えながら、どうしても聞かなければならないことを口にした。
「彼女は…長い黒髪のスタッフの女性は…どこにいるんですか?」
森田は一瞬、動きを止めた。サングラスの奥で目を細めた気配がする。
「長い黒髪……。君、彼女に会ったのか?」
「はい」
ずっと変わらず不気味な笑顔を浮かべていた森田に、微かに動揺の色が見えた。
「…そうか、会ったのか…一ノ瀬早紀に。彼女は…熱心な従業員でね。ここにいる誰よりも遊園地の事を熟知している。探さなくても、またすぐに会えるよ」
意味ありげな言葉を残し、森田は長い指で大翔を外へと促した。
「早紀さん…」
大翔は小さく彼女の名前を反芻した。

 事務所の扉を開けると、そこには嬉しそうな海斗と、退屈そうに待っていた他の三人の姿があった。
「お前、結局やることにしたんだな! 一緒に稼ぎまくろうぜ!」
海斗が大翔の肩に手を回す。その屈託のない笑顔につられて大翔も笑ってしまう。小林、河合、宮里の三人も、それぞれの表情で大翔の合流を歓迎した。
だが、大翔の心にある「早紀に会いたい」という純粋な願いと、森田への「本能的な不快感」は、矛盾したまま胸の奥に沈殿していた。

「さて、諸君。早速だが業務を割り当てます」
再び現れた森田園長が五人を整列させると、古びた真鍮製の懐中電灯を配った。
「小林俊哉君。君はモニター室で園内の監視と簡単なメンテナンスをお願いするよ。制御盤は古いので、下手にいじらないように。河合康太君は大型アトラクションの点検。力仕事だが、そう難しい事はない。整備士の佐藤さんに指示を仰いでくれ。宮里加奈さんは売店の在庫管理。乾海斗君と小森谷大翔君は園内のゴミ拾いと見回り。それぞれ昼番の従業員から引継ぎしてもらうように」

説明し終わった森田の視線が、五人を一巡し大翔で止まると、ふっと肩の力を抜くように笑った。
「君たちも聞いてるだろう? この遊園地には怪奇な噂がある。夜になると、昼間には見えなかったものが現れるかもしれません……」
五人の顔が強張る。
「ククク、冗談ですよ。ただの噂です。ただ設備が古いだけなので、怖がらずに励んで下さい」
「脅かさないでくださいよ、園長!」
河合が豪快に笑い、宮里も
「もう、びっくりした」
と胸をなでおろす。
だが、大翔だけは笑えなかった。森田の冗談は、まるで「これから起こる事実」を事前に宣告しているように聞こえたからだ。

園内に閉園を告げる物悲しいメロディが流れ始めた。スピーカーのノイズが混じったその音色は、まるで誰かのすすり泣きのようだった。気がつくと、足元にはいつの間にか紫色の霧が立ち込め、仲間たちの足首を覆い隠そうとしていた。

 各自が持ち場へと散っていく。
昼間の担当から引継ぎされ、小林俊哉は薄暗いモニター室に一人になった。
「変な物が見えても気にするなよ」
昼番のアルバイトが、帰りしな呟いた言葉を思い出す。
「変な物って?」
「ここ、噂じゃなくて本当に出るらしくてさ、夜番のバイトが怖がって、すぐ辞めるんだよ」
「俺、霊感ないし、そういうの信じないタイプなんで大丈夫ですよ」
「だったらいいけど…まあ、くれぐれも気をつけろよ」
理系の小林は、非科学的な事象を信じない。
(もし何かモニターに映ったのだとしたら、原因があるはずだ。それを解明するのも面白そうだな)
彼は最初のうち、園内の監視カメラから送られる映像をじっくり見ていたが、変わり映えしない画面にいつしか睡魔に襲われた。
彼の瞼が閉じた瞬間、モニターの一つに砂嵐のようなノイズが走った。そのノイズの向こうに白い人影が現れる。影は左右に揺れながら徐々にカメラに近付く。やがて画面は真っ白になり、真っ赤な両目が大写しになると、居眠りする小林を見つめた。

少しして小林が目を覚まし、慌てて頭を上げた時には、モニターは異常なく、静まり返った園内を映し出していた…。

 売店では宮里加奈が、昼間の担当者から軽く業務の説明を受けた後、棚に並んだぬいぐるみの整理をしていた。
「昼間だから働けるけど、夜シフトに入るなんて勇気あるね」
昼番のおばさんが、体を震わせるフリをして笑った。
「時給に釣られちゃいました」
加奈も笑った。おばさんは「気をつけなよ」と言って帰っていった。
「可愛いけど、夜に見るとちょっと不気味よね……」
彼女はぬいぐるみをマジマジと見つめて呟いた。
「次はレジの点検か」
背を向け、レジを開ける。カシャカシャと小銭を数える音が静かな店内に響く。その背後で、棚に並んだ数十体のクマやウサギのぬいぐるみが、ゆっくりと音も立てず一斉に加奈の方を向いた。
だが、彼女が振り返った時には、ぬいぐるみたちは元の位置で、虚無的なボタンの瞳を輝かせているだけだった。

 メリーゴーランドの点検をしていた河合康太は、油差しを手に馬の脚を調べていた。
「ヒヒーン……」
不意に、耳元で馬の嘶きが聞こえた。
「うおっ!?」
飛び退いて周囲を見渡すが、当然、生きている馬などどこにもいない
…いや、メリーゴランドの中心の柱に半分隠れている、河合から見て一番遠くにいる馬が、他と少し違っているように見える。まるで生きているかのように。それにたてがみが風に靡いてないか? 河合は目を擦って、もう一度馬に目をやった。そこには普通の木馬が佇んでいるだけだった。
「……園長があんな事言うから、幻聴が聞こえちまったよ」
河合は自分の臆病さを笑い飛ばそうとしたが、うまくいかなかった。
そんな彼を、少し離れた暗がりの影から、古参の整備士・佐藤じいさんが不安気に見つめていることに、彼は気づかなかった。

 大翔はゴミ袋とトングを手に、早紀の姿を求めて園内を彷徨っていた。霧はますます深くなり、懐中電灯の光は数メートル先で霧に吸い込まれてしまう。
「おい大翔。お前、全然ゴミ拾ってないじゃん」
懐中電灯片手にゴミ拾いをしていた海斗が、大翔を見つけて呆れ顔で声をかけた。
「霧のせいで足元が見えなくてさ」
「霧…?霧なんか出てたか?」
海斗が怪訝な顔をする。
(…海斗には霧が見えない?この霧も霊的なものなのか?)
大翔は慌てて話題を変えた。
「海斗、長い黒髪の綺麗な女の人見なかったか? 俺たちと同じスタッフの……」
「女の人? お前、もうここのスタッフをチェックしてるのか?昼番じゃないのか?夜番は俺達だけだろ?」
「…そうかな」
「バイト初日からサボりはマズイぜ。俺、あっち見てくるけど、お前もちゃんと働けよ」
海斗は笑いながら去って行った。

 園内の霧は、もはや視界を完全に奪うほどに濃くなっている。
大翔は自分がどこを歩いているのかさえ分からなくなってきた。いつの間にか古びた売店の前に立っていた。ガラス窓は汚れ、中には埃を被った古い玩具が並んでいる。
(こんなところあったか?)
ふと、ガラス窓に自分の姿が映った。
大翔は息を呑んだ。窓に映る自分の顔が、一瞬だけ、苦悶に満ちた「見知らぬ男」の顔に変わったのだ。
「……っ!」
後ずさりし、転びそうになったその時。
「……アルバイト、断ったはずでしょ?」
背後から呆れた声が聞こえた。
振り返ると、そこには早紀が立っていた。
月光を浴びた彼女の肌は、透き通るように白く、この世のものとは思えないほど美しい。
大翔の顔に、安堵と喜びが混じった笑顔が広がる。
「君に……君にもう一度会いたくて、戻ってきたんだ」
その言葉に、早紀は大仰にため息をついた。
「馬鹿ね。せっかく助けてあげたのに……。ここは、あなたが足を踏み入れていい場所じゃないの」
彼女の視線が、大翔の背後の暗闇へと向けられる。霧の向こうで、何かが蠢くような湿った音が聞こえた。
「いい? よく聞いて。今この場所は、あなた達の住む世界じゃない、彼らの場所よ。決して光を絶やさないで。この霧を払わないと、あなたもあっち側へ連れて行かれるわ」
早紀は切迫した表情で大翔に歩み寄ると、彼の持つ古い真鍮の懐中電灯を指差した。
「君、手伝って。その懐中電灯の光を、周りの鏡や窓、金属部分、できるだけ多くの箇所に当てて!」
大翔は戸惑いながらも、彼女の指示通りに懐中電灯を振り回し、あちこちに光を反射させた。反射させる度に光の線が連鎖されていく。売店の窓ガラス、園内の鏡や水たまり、アトラクションの装飾に次々とリフレクションしていき、光の網がクモの巣のように遊園地全体を覆い尽くしていった。そのまばゆい輝きに焼かれるようにして、逃げ場を失った不気味な霧が、音もなく浄化されて消えていった。
「……すごい」
幻想的な眺めに大翔が息を呑む。横に立つ早紀が、大翔の素直な反応を可笑しそうに見つめた。彼女に見つめられている事に気付いて、大翔は恥ずかしそうに俯く。光の網が消え、視界がクリアになった時、そこには古びた遊園地の夜景が戻っていた。
「……早紀さん?」
大翔が顔を上げた時、そこにはもう、彼女の姿はなかった。

 更衣室に戻ると、他のメンバーはすでに着替えていた。
「あっという間に終了時間だな。結局、何も起きなかったじゃん」
「園長の言う通り、ちょっと古いってだけだな」
「楽なバイトでラッキー」
彼らが楽しそうに話しながら帰り支度するのを横目で見ながら、大翔だけが、現実感のないままロッカーの前に立ち尽くしていた。
あれはすべて、深い霧が見せた夢だったのだろうか。
ポケットに違和感を覚えて手を入れると、指先に硬い紙の感触が触れた。
取り出したのは、一枚の古びた遊園地のチケットだった。
インクは褪せ、端はボロボロになっている。そこには、今から十五年も前の日付が刻まれていた。
「大翔、早く帰ろうぜ!」
海斗に促され、大翔は急いで着替え始めた。チケットは作業着のポケットに戻した。

 正門へと向かう彼らの背後、遠く離れた事務棟の二階。暗い窓から、大きなサングラスをかけた森田園長が、微動だにせず彼らを見下ろしていた。
「いい人材が集まったな……」
森田の口元が、歪な形に吊り上がる。

静まり返った遊園地に、どこからか「ヒヒーン」という、木馬のいななきのような音が小さく響き渡った。

黒羽遊園地の秘密|第3話|処刑場へ続くメリーゴーランド|sugar


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