大奥妖かし捕物帖|第十二話|月光惑心
第一章:その門の先
中務省陰陽寮。江戸城築城の昔より続くその門は、人智を超えた怪異を鎮める最後の砦として、重々しく、そしてどこか不気味な威圧感を放っていた。
お染の目の前で門が開く。
まさかこの門を潜る日が来るとは…お染は複雑な気持ちだった。
憧れていた時は決して開くことのない門だったのに…。
中に入った今は、一歩一歩が鉛のように重い。
「女人に急な入寮を命じるなど異例中の異例だ。何か良くない事に違いない。分かっておるのか?」
脳裏を掠めるのは、御年寄・滝川の厳しい声だ。お染と宗四郎が正体不明の鴉の式神に襲われた直後、間を置かずに届いた入寮の下命。これが敵側の誘いであることは明白だった。
しかし、お染に迷いはない。「虎穴に入らずんば、虎子を得ず……」敵の懐に入れば、自ずと真実は見えてくる。
何よりも、これ以上、宗四郎様を危険に晒したくない…。
この先は私一人で戦う。
「おい、新入り。女が陰陽寮とは、世も末だな」
突然、静寂を切り裂くような無遠慮な声が飛んできた。振り返ると、そこには豪奢な狩衣を崩して着た若い男が立っていた。その瞳には隠しようのない傲慢さが宿っている。彼は、お染を値踏みするように上から下までジロジロと眺め、鼻で笑った。
「女に何ができる。呪符の書き方でも教わってから来るんだな。ここは遊び場じゃないんだよ」
男は嘲笑いながら、指先で小さな紙の鳥を弄んだ。それは彼が放った式神だった。紙の鳥は生きているかのように羽ばたき、嫌がらせにお染の頬を掠めようと急降下する。
お染の瞳が、冷たく細められた。彼女は動じることなく、指先をわずかに弾く。それだけで、空気を切り裂いて飛んできた紙の鳥は、お染の顔に触れる直前で青白い炎に包まれた。一瞬の閃光。灰すら残さず、式神は霧散した。
「……なっ!?」
男が絶句する。お染は涼しげな表情のまま、静かに口を開いた。
「失礼。羽虫が飛んでいたもので」
「貴様……!」
男の顔が怒りで赤く染まる。彼は激昂し、懐から呪符を取り出そうとした。だが、お染の動きはさらに速かった。彼女が瞬時に印を結ぶと、男の足元に目に見えぬ「縛」の理が展開される。
「……っ、動けん! 貴様、一体何を……!」
男は金縛りにあったように、一歩も動けない。お染は彼に歩み寄り微笑んだ。それは、術師にしては、あまりにも愛らしい笑みだった。
「お染です。これからよろしくお願いします」
その瞬間、男の顔から怒りが消えた。代わりに浮かんだのは、驚愕、そして……陶酔に近い色だった。屈辱を通り越し、自分を圧倒したその鮮やかさと強さ、そして可憐さに、彼の心は一瞬で射抜かれてしまったのだ。
呆然と立ち尽くす彼を放置し、お染が奥へ進もうとすると、男は必死に声を張り上げた。
「俺の名は石川紫苑だ! 」
お染は振り返り、もう一度微笑んで歩き出した。
その様子を、柱の影からじっと見つめる者がいた。
「大丈夫でしたか? 凄い腕前ですね」
おっとりと声をかけてきたのは、坂巻大吾と名乗る男だった。お染より少し前に入ったという新米陰陽師だ。
「いやー、私なんていつも失敗ばかりして先輩に叱られてて」
彼は頭を掻きながら恥ずかしそうに笑う。だが、お染の目は誤魔化せなかった。
(坂巻大吾……決して言葉通りの実力ではない。この男、歩き方に一切の無駄がなく、呼吸の乱れも微塵もない。そして時折見せる、獲物を見定めるような鋭すぎる視線……しかし、何故これほどの力を隠しているのか?)
お染は内心で警戒を強めつつ、人懐っこい笑みを浮かべている坂巻に尋ねた。
「陰陽寮の長・土御門様にご挨拶したいのですが、お部屋まで案内をお願いしてもよろしいですか?」
「もちろ……」
坂巻が答えようとしたその時、横から風のように割り込んできた影があった。
「俺が案内しよう!」
石川紫苑である。彼はいつの間にか「縛」を解き(実はお染が密かに緩めていたのだが)、彼女の荷物をひったくるように奪い取った。
「……え」
「ささ、お染さん、参りましょう! この紫苑が直々に、寮内の案内も兼ねてお連れする!」
先ほどまでの傲岸不遜な態度はどこへやら、紫苑は尻尾を振る犬のような勢いで先に立って歩き出した。お染は困惑しながらも、その後を追う。背後で坂巻が「あはは、先を越されちゃいましたね」と、のんびりとした声で笑っていた。
長い廊下を進み、重厚な漆塗りの扉の前で紫苑が足を止めた。
「ここです。……失礼します! 新入りのお染殿をお連れしました!」
紫苑が声を張り上げると、中から
「入れ」
という低く、落ち着いた声が響いた。
紫苑が「また後で」と小さく囁いて立ち去り、お染は大きく息を吸う。
もう後には退けない。
意を決して扉を開き、足を踏み入れる。
「本日より、こちらでお世話になりますお染と申します」
部屋の奥、文机に向かって若い男が書き物を続けている。
陰陽寮の長・土御門忠明。
彼は顔を上げず、筆を動かし続ける。
「よく来たな、表使のお染」
陰陽寮の長というには、かなり若い人物だったことに、お染は少し驚いていた。
男がゆっくりと顔を上げた。あまりにも整った美しい顔に、氷のような冷たい瞳。彼は机に頬杖をつき、何とも言えない、しかし微かに愉悦を孕んだ笑みを浮かべてお染を見つめる。
「…待ってたよ」
第二章:陰陽寮での日々
こうして、お染の陰陽寮での日々が始まった。
「お染さん! 今日の昼餉は奮発して、日本橋の仕出しを取り寄せたぞ! 一緒にどうだ?」
書庫の扉を勢いよく開けて入ってきたのは、石川紫苑だ。彼はあの日以来、お染に完全に心酔しており、何かと理由をつけては彼女の傍を離れようとしない。
紫苑はどことなく宗四郎に似ていた。
ふとした瞬間に、その姿を重ね合わせ、お染の心が疼く。
「石川様、私はまだこの古文書の整理が……」
「そんなカビ臭い紙切れなど後回しだ! ほら、坂巻も呼んであるぞ」
紫苑の後ろから、坂巻大吾が申し訳なさそうに顔を出した。
「すみません、お染さん。石川殿がどうしてもって聞かなくて」
三人で中庭の縁側に座り、弁当を広げる。
「しかし、お染さんの呪符の扱いは見事だな。あの『縛』の解き方、後で教えてくれ。……いや、教えてください、師匠!」
「師匠だなんて、やめてください。石川様の方が経験は上でしょう?」
「いやいや、実力の世界だ。な、坂巻?」
「ええ、本当にお染さんは凄いです。私なんて、昨日も結界の維持に失敗して、忠明様に冷たい目で見られちゃいましたよ」
坂巻は苦笑いしながら、お茶を啜る。その仕草はどこまでも隙だらけに見えたが、彼の目が常に周囲に気を配っていることにお染を気付いていた。
坂巻様……あなたは何を隠しているの?
敵の放った刺客とは、とても思えない。
そんな疑念を抱きつつも、彼らと過ごす時間は、お染にとって数少ない安らぎとなっていた。
ある時は、歴博士のもと三人で徹夜して、宮中に配る具注暦を作成し、またある時は、呪符の材料となる薬草の選別をしながら、紫苑が語る故郷の昔話に耳を傾けた。紫苑が夜の天体観測の当番の際は、お染と坂巻が交代で紫苑が眠らないように見張っていたり…
彼らとの何気ないやり取りの中で、お染は昔、陰陽寮に入ることを夢見ていた自分を思い出していた。こんな状況で無ければ、どれ程嬉しかったか…。
山のような書物を抱え、お染が薄暗い廊下を急いでいた時。不意に足元がもつれ、視界が大きく傾いた。
「あ……っ」
荷崩れを覚悟して目を閉じた瞬間、強い力で手首を掴まれ、同時に抱えていた重みがふわりと消えた。
「それでは前が見えないではないか」
書物を片手に、彼女の手を掴んだのは、土御門忠明だった。
「あ、ありがとうございます」
見上げたお染の瞳を、彼は眩しそうに見つめる。
彼は繋いだ手を一瞬だけ強く握りしめた。すぐに我に返ったように手を離すと、彼女の荷を半分奪うようにして持ち、黙って隣を歩き出した。書庫に辿り着くまで、彼は一度も口を開かなかった。
彼女は、時々自分に注がれる視線を感じていた。視線の先には、必ず忠明がいる。意図が読めない彼の表情に、お染は戸惑っていた。
監視されているのか、それとも…。
そして日ごと強くなる、宗四郎に会えない寂寥感。
これほど寂しく苦しいとは、思ってなかった。
傷は治ったのだろうか…。
私が去った事を知っただろうか…。
お染は無意識に指で唇に触れた。
一目でいい。あなたに会いたい…。
第三章:星の下で
雲のない月の綺麗な夜。お染は一人、観星台で星の動きを記録していた。城内を一望できるこの場所は、お染が最も好む場所でもあった。窓から大奥の方へ目をやる。
今頃どうしているだろう。
黙って去った私に怒っているだろうか…。
「まだ起きていたのか」
背後から聞こえた声に、お染の肩が僅かに跳ねる。振り返ると、そこには月光を浴びて立つ忠明の姿があった。物思いに耽っていたとは言え、全く気配を感じることができなかった。
「土御門様」
お染は頭を下げ、さり気なく忠明との距離をとる。
月明かりに照らされた彼女は、白い肌が透き通るようで、黒髪が艶やかに煌めいていた。その潤んだような瞳に吸い込まれそうになる感覚を覚え、忠明はお染に背を向けた。
窓の外の月を見上げながら、独り言のように呟いた。
「先日、実に美しい白銀の月を見たのだ。暗闇を打ち消す、あまりに高潔で美しい月光……。それを見た時、壊してしまいたいと思った」
忠明の声は低く、冷たい。そして、狂気を滲ませていた。
「白銀の……月……」
「壊してしまおうと思ったが、惜しくなったのだよ。手元に置いて、その光を眺めるのも一興かと思ってな」
忠明がゆっくりと振り返る。月明かりに照らされた彼の横顔は、神々しいほどに美しく、そして死神のように冷徹だった。
「お主が『白狐』であろう、お染」
その言葉は、お染の正体を射抜くものであると同時に、彼こそが、彼女が探していた術者の正体であると示していた。
上様に呪詛をかけ、城の結界を弱め、宗四郎様に式神を放った『鴉』
お染は反射的に懐から呪符を抜き放った。指先から放たれた霊力の塊が忠明を襲う。だが、その呪符は忠明の目の前で、見えない壁に阻まれたかのように激しく燃え落ちた。
「無駄だ。ここは私の領分。陰陽寮全体に、私の命に従う結界を張り巡らせている。お前は、私には勝てんぞ、お染」
「くっ……」
呪符を握り締めた。圧倒的な力の差。この空間そのものが、忠明の意志に従っている。忠明は冷笑を浮かべ、お染に歩み寄った。
「何故私をここに呼んだのです!? 殺すおつもりなら、いくらでも機会はあったはず」
「言ったであろう?『惜しくなった』と。お前が私とともにあるなら、松風宗四郎には手を出さぬと約束しよう」
「!」
お染の顔色が変わる。
「お前は強いが、致命的な弱みがある。彼がいる限り、お前は私には勝てん。賢い選択をするんだな」
『情に流されると、己の身を滅ぼすぞ』
かつて滝川に言われた言葉が、呪いのように耳の奥で響く。お染は唇を噛んで、ゆっくりと呪符を懐に仕舞った。
「賢明な判断だ」
忠明は満足げに頷くと、踵を返して出て行こうとした。
ふと立ち止まり、振り返ることなく呟く。
「お前は私のものになる」
第四章 坂巻大吾
翌朝。お染が重い足取りで歩いていると、廊下で紫苑が大きな声を上げていた。
「お染さん! 大変だ、坂巻の奴がまた居眠りをしていて、大事な星図に茶をこぼしやがった!」
「あはは……すみません、石川殿。昨夜、星の動きが気になって、つい夜更かししてしまって」
坂巻がいつものように頭を掻きながら笑っている。
星の動き…?
では、坂巻様は観星台に?
お染と坂巻の視線がぶつかった。坂巻の瞳の奥に、一瞬だけ、鋭い光が宿る。
「お染さんこそ、顔色が悪いですよ? 夜更かししたんじゃないですか?」
坂巻がさりげなくお染の隣に並び、声を落として囁いた。
「一人で背負いすぎないでください。ここには、あなたの味方もいますから」
お染は驚いて坂巻を見た。
彼はすぐにいつもの「冴えない新米」の表情に戻っていた。
屈託なく明るい紫苑と、未だ正体の掴めぬ坂巻。
その二人に挟まれながら、お染は陰陽寮での職務を全うし続けた。
表向きは平穏な日々。しかし、お染は陰陽寮の結界を壊すために、密か動き始めていた。
(完)
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