僕らを縛る〝ドラクエ的能力観〟──勅使川原真衣著『人生の「成功」について誰も語ってこなかったこと』を読んで
『人生の「成功」について誰も語ってこなかったこと』という本を読んだ。
多くの人が「成功したい」と願い、失敗を恐れて悩む現状を踏まえて、改めて「成功とは何か」を考え、新たな社会のあり方を提示する本である。
著者の勅使川原真衣さんは教育社会学の研究実績や、組織改善を目的とした人事系のコンサルタントとして働いた経験を持つ。そのため、今日の「成功」とは切って離せない「能力主義」についても詳しく書かれている。
読んで思ったことを書いてみたい。
新語・流行語大賞に選ばれたりはしないけれど、ここ10年くらいで定着したなと思う言葉に「上位互換」「下位互換」がある。
一応意味を説明しておくと、2つのものを比べて優れた機能や性能を持っているものを「上位互換」、その反対を「下位互換」と呼ぶ。特に「この車のほうが馬力も高いし燃費もいい」のようにトレードオフがない場合を指す。
「上位互換」「下位互換」は製品だけでなく、人間に対しても使われる。プロ野球ファンが「○○は△△の上位互換だから今回のトレードは上出来」なんて言っていたりするし、アイドルグループの新メンバーに対して「□□の下位互換だろ」なんて辛辣な評価がされていたりもする。
製品と同じように人間に対して上位互換や下位互換と言い切れるのは、人間の能力は数値化できるという前提があるからだ。野球選手であれば打率や球速などの指標があるわけだが、それ以外の分野でもさまざまな指標を使って人間の能力が数値化されている。
簡単な例で言えば、頭の良さは出身校の偏差値やIQで、仕事ができるかどうかは年収で、人気はSNSのフォロワー数で示される。残業時間が長ければ、会社への忠誠心が高いとみなされることもある。今月1万ポイントを貯めた? おお、あなたは「賢い」消費者だ。
なにもかもを数値化したい欲望は成功そのものにすら及んでいる。
この本によれば、どの職業がどれくらいすごいのかを数値化した「職業威信スコア」なるものがあるという。スコアがもっとも高いのは医師で、裁判官、国会議員と続くらしい。裁判官になれればその人の人生は成功で、医師ならもっと成功だということだ。そして「頭が良い」「努力ができる」といった、その成功に近づくための特性を持った人間が「能力が高い」とみなされるのが現在の社会である。
あらゆる要素が数値化された世界。僕はここから、ドラクエなどのゲームを連想する。ドラクエでは主人公や仲間たちの能力は「ちから」や「みのまもり」など、すべて数値化されている。だからプレイヤーは簡単にキャラクターを比較することができ、「○○は△△の上位互換」といった言い方も可能になる。
現役世代の多くは労働に先立ってなんらかのゲームをプレーした経験があるから、仕事をするうえでの能力を考えるときに、ドラクエのステータスのような数値を想像してしまう。最近「体力を上げること」を目的とした自己啓発系の本が増えているが、そのときにHPのような数値がイメージされていることは明らかだ。
ゲーム的な能力表現を社会にそのまま適用する見方を、僕は「ドラクエ的能力観」と呼びたいと思う。僕にとって馴染みのあるゲームがドラクエというだけなので、ドラクエの部分はポケモンでもいいし、ソシャゲのタイトルを入れても構わない。
勅使川原さんは今の大学生にコンサル業界が人気の理由を、フィードバックが盛んで「成長実感」があるからと説明する。
考えてみれば、ドラクエは成長実感をもたらすフィードバックの宝庫である。ひとつの戦闘が終われば獲得した経験値が数字で示される。あとどれくらい経験値を貯めればレベルが上がるのかはもちろんのこと、レベルが上がれば「HP+3」「ちから+2」など、どれだけ成長したかを明確に教えてくれる。
現実の労働では厄介なクレーマーに対処してもストレスが溜まるだけかもしれないが、RPGなら強いモンスターほど経験値は高い。努力や苦労の度合いに応じて成長がもたらされる、公平でバランスの取れた世界。努力が無駄になることを嫌い、この仕事を続けていてなんの意味があるのだろうかと悩む人々にとっては、とても魅力的である。
ゲームと現実のもうひとつの違いは、ゲームでは各キャラクターの適性が明示化されていることだ。
キャラクターには戦士タイプ、魔法使いタイプなどがおり、そのタイプに従って能力が偏って成長し、新たな特技や呪文を覚える。
いまMBTIが大人気なのは、ゲームの世界のように自分の適性や属性を示してくれる(ように見える)からだろう。本当の自分は「水属性の魔法使いタイプ」なのに、剣を装備して武術の鍛錬に打ち込んでいては努力が無駄になる。誰もが口にする「自分らしい仕事がしたい」とは、「自分の属性に合った仕事をすることで無駄を省きたい」「成長実感を効率よく味わいたい」と言い換えてもよさそうだ。
僕たちはいつの間にか、能力を数値で把握し、成長を実感し、自分の適性に合った場所で効率よくレベルアップすることを「良い生き方」だと思うようになっている。そしてその先に、誰もが羨む成功があるに違いないと考えている。
だがここで重要なのは、本書でも指摘されているとおり、成功と希少性は分かちがたく結びついており、本質的にこの世界は全員が成功できるように作られていないことだ。
ドラクエの世界ではラスボスは主人公と出会うまで生きていてくれるが、現実では往々にして、自分たちより先に誰かがラスボスを倒してしまっている。誰もいないラストダンジョンで、僕たちはこれまでの努力が無駄だったと後悔するしかない。
お金持ちの家に生まれたおかげで最初から装備が充実している人もいるし、生まれた村の周りのモンスターが強すぎてレベルを上げるチャンスがない人もいる。その意味で「人生はクソゲーだ」という常套句は、確かに現実を言い当てている。
それでも僕たちが成功や幸福を願わずにいられないならば、このどん詰まり感からどうすれば抜け出せるのか。
その解決策をあえてドラクエの世界の中で示すとしたら、「登場人物全員がラスボスを倒すために生きているわけではない」という端的な事実に目を向けることだと思う。
主人公たちがハッピーなエンディングを味わえるのは、ラスボスを倒すことを目標としてデザインされた世界で、彼らがラスボスを倒す能力と運に恵まれていたからにほかならない。
その一方で、平和な世界が訪れ、エンドロールが流れる裏で去年より美味しい野菜を作ってご近所に喜ばれる村人や、カジノで大穴を当てて興奮する荒くれ者がきっといる。彼らも主人公たちと同じく、成功者であり幸せ者である。成功や幸福を渇望して苦しむ僕らにとっての処方せんは、その想像力を携えて毎日を歩むことしかないのではないか。
これは「凡人は凡人なりに小さな成功を生きがいにしよう」というありがちな人生訓ではない。そもそも成功に大小なんてない。大小という概念をあてはめてしまう時点で、なにもかもを数値化できる、序列化できるという幻想にとらわれている。誰かが定めたパラメータだけが能力であることを疑い、誰かが作った「成功の定義」に反抗し、ゲームの設計者の意図を超えて楽しくたくましく生きていけばいい。
勅使川原さんは「弱き者同士の連帯こそ紛れもない『成功』なのだ」「いろとりどりの個人をどうかおもしろがってほしい」と書いているが、この提言も「定義された成功への反抗」のひとつのように思う。
そして、どのように反抗するかが「自由」であり、僕たちが自由を大切にすべき理由もここにある。
最終的に話は大きくなってしまったが、本なんて大きなことを考えるために読むものだから、気になった人はぜひ読んでみてもらえたらと思う。
