【マンダラ夢分析】微妙に「変」な世界で登ったり降りたり。ピンク色の泡が浮かぶ廃水を避けながら、食事会場にたたずむ夢
はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界というのは、心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束に投射されたときに、そこに浮かび上がるパターンである。
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じところ脈動から立ち昇る振動のパターンが、表層意識の一番底に、その底面の平面に写像されたパターンである。意識化できない深層の動きのパターンが意識が自覚的な相に浮かび上がってきた最初の姿こそ「マンダラ」である、と考えてみたい。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。
正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
このマンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる曼荼羅として直接ビジュアル化される(視覚的なイメージなる)場合もあれば、夢の中での自/他の距離感が伸び縮みするような経験として現れる場合もある。
例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。
夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)で繰り広げる分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。

神話論理と夢分析
マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語化されることもある。
神話の場合は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

神話の語りはじめには、まだΔはない。
端的にない。存在しない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
そこに野生の思考の神話論理が動く。
経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
神話の語りは、まず図1で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験敵に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)するのである。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを「夢」のビジョンにもみることができる。
主語たちの述語的様相にフォーカスする
「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる
Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これはどちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相である。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
そしてさらに、この「動き」は、どうやら「分離する動き」と「結合する動き」の多様な複合として動いているらしい。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
分離したり結合したり伸縮する述語
この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
<<分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、結合しようと動くが、うまく結合できない>>
あるいは
<<結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、分離しようと動くが、うまく分離できない>>
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する。
夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(「意識」と「無意識」も)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。
今回は私自身の夢を分析対象としてみよう。

私は都会の下町のようなところにいる。時刻は日没間近、いわゆる「逢魔時(おうまがとき)」である。空は澄んでいて、夕日に赤く染まっている。実に美しい。
道が「碁盤の目」状をなしており、整然と東西南北が画されている。
しかし、どちらを向いても直線の道がどこまでも伸びているので、自分が一体、東西南北どちらに向かっているのか、方向を見失いそうである。
小ぶりのビルや戦前からあるような雰囲気の建物が並んでいる。
ところどころ時間貸の駐車場になっている区画もあり、少し寂れた、草臥れた感じの場所である。人の気配はあまりない。
*
私は、そのうちのひとつの建物に入り、その地下へと降りる。
地下室は倉庫のような広い空間である。
壁一面、ペンキでまっ白に塗られている。
蛍光灯だかLEDだかの照明がたくさん設置され白色光を放っており、夕暮れの地上よりも、この地下室のほうがはるかに明るく眩しい。
古い建物を現代風にリノベして明るい雰囲気にしました、という感じで有る。
**
この日、このスペースでは、企業組合の展示会が開催されされている。
各社が持ち寄った商品や技術紹介の展示が並んでいる。
しだいに訪れる人も増えてきた。
わたしが展示を見て回っていると、知り合いの会社も展示品を出しているのを発見する。彼らがここに来ているとは知らなかったので、わたしは驚く。
しかし一瞥すると、その知り合いの会社のブースには、販促用ノベルティグッズのティッシュボックスがひとつ、長机の上に無造作に置いてあるだけで、スタッフも誰もいない。もちろん、私の知人の姿もそこにはない。
ティッシュボックスには大きく会社のロゴが印刷されている。
私はその光景をみて「他の会社がちゃんとした商品見本や、技術紹介のパネルを掲示し、説明員を配置して、商談までしているのに、それに比べて、この体たらくではあまりに見劣りするなあ」と思う。
* *
これでは展示会出展の宣伝効果がないどころか、かえって信頼感を落として逆効果なのではないか、とおもいつつ、私は知り合いに会う前に退散しようと急いで会場を離れる。
もし、顔を合わせたら、お世辞を言って褒めようにも褒める要素がゼロである。この展示の見窄らしさを指摘しないわけにはいかなくなる。さりとて本人たちが、万一これでも立派な展示だと思っていたりしたら、私の指摘で恥を感じさせることになるだろう。そうするとこちらは良かれと思ってやっていることが、裏目に出てしまう。
とはいえ、嘘をついて褒めるのも良心が咎める。
本音もダメだし、嘘もダメ。
どちらも選べない!
こういう時は何かをしゃべる羽目になる前に、逃げるが勝ちである。
*
わたしは顔を隠し気味に、足早に会場を出る。
地上に上がると、街はすっかり日暮れの感じだ。
太陽が見えず、東西南北がいまいち読めない。
歩いている人はあまりいない。
わたしは急いで鉄道の駅に向かう。
駅の方向はよくわからないが、おそらくこっちだろう、という気がする方向を目指す。
すぐに鉄道の高架橋がみえてくる。
よかった、間違っていなかった。
が、思っていのと90度ズレた方向に線路が走っていたので、あやうく迷子にならなくてよかったと思う。私は、実際には間違っていたのである。間違った方向に進んでいたけれども、結果的には別のルートを通って駅には辿り着いて、間違っていなかったことになった、ということになる。
間違っているが間違っていない。
+ +
駅には、私が乗らなければならない列車がもうすぐ到着する。
その駅は、地下鉄の看板を掲げているが、高架になった区間である。
地下のものはずが空に持ち上げられている。
わたしは急いで駅に入る。
駅は広大で、改札を通り、高架上のホームへと急ぐ。
もう列車が到着している音が聞こえる。
人はほとんどいない。がらんとしている。
ホームについてみると、予想していた地下鉄の会社の車両ではなく、国鉄の車両がドアを開けて待っている。
これも細かいが「思っていたのと違う」である。
たくさんの人が乗り降りしている。
これがほんとうにわたしの乗る予定の列車かな?違うのでは?と疑問に思うが、予定の発車時刻でホームにいるのはこの列車以外にない。多分これだろうと、乗り込む。
+
最後尾の車両に入り、空いている席に着く。
車内は、混んでいないが、座席は満席である。
列車が発車すると、わたしの左右の男性二人が、わたしを挟んで会話を始める。大きな声でわたしの耳元で、わたしの方に向けて声を出しているが、わたしに言ってるわけではない。
落ち着かないので、わたしから右側の人に席をかわりましょうと申し出ようとすると、私が言うより先に、右側の男性の方から「席を変わって欲しい」と頼まれる。
列車は高速で走っている。
席を変わってふとみるとら何やら足元が水浸しである。
よく見れば、ティッシュペーパーを水に溶かしたようなものとピンク色の泡が混じり合った謎の液体が1センチくらい、車両の床を覆っている。
工場排水のようだ。
そしてわたしは、自分が右側の靴だけ踵を外してスリッパのようにして履いていることに気づく。
足の片方で、靴が外れかかっている。β的である。
このままだと、この変な廃液が靴下に染み込んで濡れるぞ、と、思う。
靴自体は防水なので、ちゃんと履けば問題なさそうだ。
私は慎重に右足の靴を履き直す。
周り見ると、車内の天井に、何やら仮設のビニール袋がたくさん貼ってあり、その中に水が溜まったり、流れたりしている。
どうやらエアコンの排水かなにかを下に流そうとルートをつけようと苦労しているらしい。なるほど、この廃液は、エアコンが故障して、天井から車内に流れ落ちているものだ。
原因はわかったが、気分が良いものではない。
わたしは席を立つ。
そして下階に向かう階段を見つける。
この車両は二階建て構造だったらしい。
下に降りていくと、鉄道車両の中とは思えないほど大きな空間が広がっている。大きなホテルの地下にある式場、宴会場がいくつも並んだ空間のようだ。
どうやら空間の広い/狭いの分別もぐにゃぐにゃになっているらしい。
= = =
そのうちのひとつの部屋、宴会場に入ると、料理人風の人が、面倒くさそうにバイキングの片付けをしている。
会場にはまだ食事中の人が、まばらにいる。
*
私はその中に友人親子を見つける。食事中である。
向こうも私に気づき、挨拶をする。
この友人には子供が二人いるはずなのに、食事をしている子は一人しかいない。もう一人は?と私が聞くと、一人でお手洗いに行っているという。
こういうあまりひとけのないところで子どもが一人でうろうろするのは危ない、と私は思う。
友人も同じ考えだが、下の子がまだ小さく、その食事のお世話に手を取られて、どうにも身動きが取れずに困っているようだ。
そして、代わりにわたしに、子どもの様子を見てきて欲しいという。
わたしは快諾するが、しかし、ひとつ問題がある。
私は男性で、友人の子供は女の子なのである。
見に行かなければならないが、見に行ってはいけない。
しかも、当の友人の子ども本人はわたしが来ていることを知らないわけで、下手に後を追いかけたらかえって驚かせてしまい、恐怖を感じさせてしまうのではないか、と思う。そもそも私はその子を知っているが、子どもの方が私の顔をはっきりと覚えているかどうかはあやしい。
知り合いのような、知り合いでないような。
さて、どうしたものかと私は慎重に、広い宴会場がいくつも並んだ空間を移動する。人はほとんどいない。
ちょうど宴会場の従業員がいたので、お手洗いの場所を教えてもらう。
そしてわたしは、お手洗いの出入り口が見える位置にある宴会場の席についておく。ここなら中で何か異変があれば、声くらい聞こえるだろうし、いつまでも出てこないようならスタッフを呼ぶこともできる。
そうしていると、ちょうど友人の子供が到着して、お手洗いの中に入っていった。
どうやら私の方が先まわしていたらしい。
しばらくすると友人の子が出てきて、駆け足で自分の家族がいる方に帰っていく。わたしが見守っていることには全く気づいていない。
何事もなく一安心だ。
よくみると例のエアコンの排水が、このバイキングレストランのフロアにまで流れ込んでいる。
「食事会場の床に、こういう液体が流れているのはよろしくないなあ」とおもう。
言葉には出さないが、たまたま近くにいた宴会場のスタッフもうんざりした顔をしている。わたしと同じことを思っているのだ、と確信する。
どうしようもないので、わたしはそのドロドロが靴につかないように席をずらしつつ、佇んでいる。
次々と場面が変わる楽しい夢である。
経験的感覚的に、結合しているはずのもの同士が分離していたり、分離しているはずのもの同士が結合していたり、といったことが続々と出てくるところに注目しよう。
*
冒頭「道が「碁盤の目」状をなして」いる、というところからしてすでに「四角」を特徴とする場に夢見者「わたし」が入り込んでいる。
入曼荼羅。
しかし、私は「四角」の中に入り込みつつ、少々迷子になっている。道に迷っている、自分がどこにいるのか、わかるようなわからないような微妙な感じになっている。

とはいえ私は、ちゃんと、当座の目的地、訪問先にたどり着く。そうして「地下室」へと「降りて」いく。
この地表、表層から、「地下へ降りる」という動きは、意識の表層から深層へと入り込むことを示唆しているようであるが、この地下室は明るく開放的で、余計なものもほとんど置いていないひろびろとした空間であり、むしろ先ほどまでいた地上の方が、少々ごちゃごちゃしている感じである。

さて、その妙に明るい地下空間では、企業の展示会、商談会のようなものが開催されている。
*
そしてそこで私は、私の知り合いの会社も出展をしているのを発見する。予期せぬ不意の遭遇である。分離していると思っていたものが実は結合していたのだと突然気づく。これも分離と結合の伸縮である。
*
ところが、その知り合いの会社の展示ブースは無人で、ちょっとしたものが置いてあるだけであった。展示会に出展している割にはかなりお粗末で、場所に不釣り合いな印象を受ける。
知り合いの会社は、この展示会の場に、うまく結合できていない。結合していながら分離している。なんといっても、展示ブースに誰も居ないのであるから。これでは商談どころではないだろう。
私はこのありさまをみて、速やかにこの地下室の展示会場から逃げ出す、分離する。知人たちに会う前に、速く逃げ出そうとする。
もし会って仕舞えば、さすがに「いい展示ですね〜」などとお世辞を言う訳にもいかず(どこをどう探しても褒める要素がない)、かといって「こんなことでは信頼されませんよ」などと今この場で正直に指摘しても、恥をかかせてしまうことになるだろう。彼らを褒めて「結合」することもできず、非難して「分離」することもできず。こう言う時は、この場そのものから分離するのがエレガントである。
鉄道の駅にたどり着くが、わずかにずれる
光溢れる地下空間を後にしたわたしは、夕暮れの、薄暗くなった地上を歩く。地下が明るく、地上が暗い。
私は鉄道の駅を目標に移動する。移動しながら、向かっている方角は間違っていないと確信しているが、一抹の不安がある。そうして無事に駅に到着する、目的地との間の「分離」していた距離を「結合」に転じることはできるが、しかし、線路の引かれている向きが、私が思い描いていたのと90度ずれている。ここはなんとも、マンダラがぐるぐると回転しているようでおもしろい。

地上を走る地下鉄
さて、この駅を通るのは「地下鉄」の路線である。
しかし、この駅自体は高架橋の上にあり、つまり地下とは真逆の位置にある。このあたりも微妙に、経験的に対立する二極を逆にひっくり返してくる。
駅に入った私は、自分の乗る列車がすでに入線しているらしいと知り、大急ぎでホームに上がる。乗り遅れたら大変だ。乗るはずの列車に乗り遅れるということは、もともと分離していた自分と列車とを、ようやく結合(私が列車の中に入る)できるかと思ったところで結合できず、私を残したまま列車が行ってしまう、私から列車が分離していく、という事態である。分離→結合→分離の伸縮が見事である。
今回の夢では、わたしは列車に乗り遅れずに間に合う。
分離の相がなく、すぐに結合して終わってしまってはおもしろくないではないかと思われるが、細かいところで、分離の感じがある。すなわち、わたしは一瞬、目の前の車両を見て「これがほんとうにわたしの乗る予定の列車かな?違うのでは?」と思う。
乗り遅れと同様に、乗る列車を間違えるというのも、結合するはずのところと分離してしまい、分離するはずのところと結合してしまう、という分離と結合があべこべに伸縮する事態である。
わたしは乗り間違えることに不安を感じつつ(分離すべきところと結合してしまって、結合すべきところと分離してしまう不安)、この不安は杞憂であること、つまりこの列車が私の乗るべき、結合すべき列車であることに賭けて乗り込む。

激しく伸縮する車内空間
そして列車は発車する。
しかし、この列車の車体自体が、「動く四角」、おそろしいほどに激しく分離と結合を伸縮させるβマンダラ列車であったのである。
私は最後尾の車両に乗る。
長い編成の列車の両極、両端のうちの片方と私は結合する。長く伸びた「線」の、分離された両端の一方の端の位置に「私」がいる。私は残り一つの最後の座席を見つけて座る。
私は座席と分離したままになるところを、かろうじて結合する。私の左/右の人が私を挟んで会話している。
私のことは完全に無視している。彼らの間で「私」はいるけれどもいないようである。私から先に彼らに話しかけようとするが、彼らの方が先に私に話しかける。前/後、話しかける/話しかけられる、この順番、二極の間がくるくると回転する。
車内の上から下へ、水が流れている。
天井と床、上下がはっきりと分離されているべきところで、上と下が、天井と床が、水流によって一つに結合されている。左/右の靴の不釣り合い。
右足だけ靴を半分脱ぎかけている。両足ではなく右足だけという「半分」、完全に脱いでいるのではなく踵を外しているだけという「半分」、二重の宙ぶらりん。靴は「防水」であること。
つまり水と私の足を結合しながらも分離することができるということ。列車が二階建てであること。
上/下の二重、二つが一つに重なり合っている。
細かいところで、経験的感覚的な対立関係の両極が、逆に入れ替わったり、過度に分離したり、過度に結合したり、分離したかと思えば結合し、結合したかと思えば分離し、という振幅を描く動き方をする。

二階建て車両の下階に広がる広大な空間
さて、ここでわたしは、せっかく確保した(結合した)座席から立ち上がって(分離して)、車両の下階へと降りていく。ところがこの下階、列車の中のはずだが、妙に広大な、冒頭の展示会の会場とよく似た、いや、それよりも広い空間であった。そこは、大きなホテルの地下にある式場、宴会場がいくつも並んだ空間そのもので、実際にバイキング形式の料理が提供されており、お客さんがまばらに入って、給仕のひともいる。

この地下宴会場、あまり活気はなく、働いている人は面倒臭そうである。お客をあまり歓迎している風ではないというところで、結合しながら分離している様相といえるだろうか。
*
この空間で、私は友人の家族が食事をしているのを見つける。この友人はいわゆる子どもの学校を通じた「ママ友」であり、現実にもしばしばそれぞれの子どもたちを連れてファミレスなどに行っている人である。
友人親子は三人連れだった。
お母さんと、女の子と男の子。
そこに私を加えると「四」である。
男/女、大人/子ども、親子/非-親子
いくつかの対立関係が重なり合って、四極の付かず離れずの構造をなしている。
しかし、私がその姿を見つけた時には、男の子の方とお母さんの二人だけである。女の子の方の姿が見えない。そして女の子だけ席を離れている(分離している)と知る。
聞くと、子ども一人でお手洗いに行っているという。そしてどうにも心配なので、私に様子を見てきてほしいと、お母さんの方がおっしゃる。私は友人の頼みを快諾して、女の子の方の様子を見にいくことにする。
ここで四人が二と二に分かれて伸びる形になる。
この分離を引き離すために、食べることと排泄することという経験的に対立する述語的様相が用いられていることも興味深い。
β β ーーーーー β β
|| ||
食べること ←/→ 排泄すること
* *
ところが、ここで一つ大きな問題がある。
夢の中でも私は男性である。
そしていま探している相手は女性である。
いくら子供の安全確保のために見守りにいくとはいえ、男性が、女性用のお手洗いに入り込んで様子をうかがう訳にはいかない。男性は女性用のお手洗いからははっきりと「分離」されている必要がある。
男 / 女
とはいえ、子どもが心配である。
子どもの安全を、子どもが安全である様子を目視で確かめないといけない。そのために私は友人の子どもの姿を確認する必要がある。
さて、どうしたものか。
ここで私は、分離しなければならないところと結合しなければならないが、結合してはならない、という、矛盾した状況にある。
どうにかして、分離しながら結合する、結合しながら分離する、ということをしなければならない。
そこでわたしは、お手洗いの出入り口が離れたところに見える位置のテーブルに席を確保する。ここなら、もし悲鳴でも聴こえればすぐにわかるだろうし、あまりにも長時間出てこないようなら、スタッフに確認を頼むこともできる。「付かず離れず」の良い位置どりである。
女・大人 β ーーーーー β 男・大人
(食事会場) / / (お手洗い)
男・子供 β ーーーーー β 女・子供
するとそこに、友人の子がやってくる。
この子は私よりも時間的に先行して、母親たちとの食事テーブルを離れて、お手洗いに向かったはずである。が、しかし、どこでどう追い越したのか、私の方が先にお手洗いの方に到着している。先が後に、後が先に、時間的な前後関係があべこべになっているのが分離と結合の伸縮感を高めている。
*
そして友人の子は、私に気づかないままお手洗いに入っていき、そして何事もなく出てきて、家族のところに戻っていく。結合→分離→結合、の綺麗な動きである。私もその様子をはっきりと分離されたところから見守ることができる。
入る/出る
気づいている/気づいていない
親子が分離し、また結合する
これらも分離と結合の伸縮である。
このとき私は、その子の安全を確認できれば十分なので、声をかけたり、こちらの存在に気づかせるようなアピールはしない。友人の子は私には気づかないまま、私の近くに近づき、そしてまた遠ざかっていく。私は見守るという形で「結合」しているが、しかし相手はこちらに気づいていないという点で「分離」したままになっている。結合しながらの分離、分離しながらの結合。うまいぐあいに「つかずはなれず」のバランスが取れている。
こうして私は、完全に分離するでもなく、完全に結合するでももない、という微妙なミッションに成功し、満足する。
*
さて、そこで改めて、わたしは今いる階下の宴会場フロアの床にも、例の車両の天井から流れてきていた排水が溜まっていることに気づく。

食事の会場と、機械からの廃液。
食べ物 / 機械からの廃液
分離されていることが望ましいものが、極めて近くに接近している。
私は閉口するが、とはいえ、よく考えてみれば、防水の靴を履いているし、また食べ物の上に直接排水が滴り落ちているわけでもない。
足 /(防水の靴) / 機械廃液
機械廃液と食べ物は、ごく近くに隣接してはいるが、結合はしておらず、いちおうなんとか分離している。いちおう、ちゃんと、分離が確定している。
私は「嫌だな〜」と思いつつ、「まあこんなものか」と半ば諦めて、食事の会場に佇んでいる。
ここで夢は終わりである。
ここには分別しながらこだわらず、その分別されつつある様をわずかに高所から眺める、といったちょっとした覚りの境地が開かれているが、必ずしもそれがキラキラしたハッピーな感じでもない、というところがおもしろい夢である。
・・・
まとめ
この夢は、夢見者の自我と、その他のものたちとの関係を付かず離れずに分けつつつなぎ、つなぎつつ分けておくように動いている。

この付かず離れずを実演するために、夢の中の私(自我)は、行ったり帰ってきたり、登ったり降りたり、何かに近づいたり離れたり、といった空間的な距離の伸縮を引き起こす様に動き回る。なかなか忙しい夢である。
そして自我と対峙する非-自我たち(展示会会場にいるはずの仕事の仲間だったり、列車で隣に座った人たちであったり、友人の子であったり、謎の泡であったり)もまた、あちらに「いるはずなのにいない」「姿が見えているのに見えていないかのようにふるまう」「行ったり来たり」といった空間的な距離を伸縮させる述語的様相を呈する。
よく見せようとしているはずが、悪く見えている。
間違っているが間違っていない。
本音もダメだし、嘘もダメ。
地下のものはずが空に持ち上げられている。
私が居るのに居ないように扱われる。
狭いはずなのに広い。
見なければいけないのに、見てはならない。
後から出発したはずなのに、先に到着する。
このような、経験的にはっきりと分かれて対立しているはずの二極が、くるくると逆転したり、二極のどちらも選ぶことができなかったり、という事態。経験的に意味ある世界の分節システムの安定性が定まる手前の、Δ四項関係が安定する前の、β脈動の様相をよくあらわしている。
このようなところから、経験的な対立二極の関係を分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターンが、それを表現する「述語」の様相において現れてくる。そして、その述語を引き受ける主語にあたるものが、必要に応じて呼び出されてくる。
その主語たちは、どうしてもそれでなければならないといったものではなく、分離と結合の伸縮を体現することができる「軽さ」があれば、どのようなものでも構わないのである。泡のようなものである。
そしてもしかすると「私」「自我」といったものも、そうした「軽さ」そのものとして、振幅を描きながら躍り出てくる存在者なのかもしれない。
その時、私の感覚や感情は、なんとも淡々とした、それまた泡のような感じになる。
おわり
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「自分で自分の夢も分析できるように訓練を受けたい!」
「無意識からのメッセージ(夢)と向き合い、ストレスフルな意思決定の連鎖を軽やかに乗り切りたい」という方がいらっしゃいましたら、お気軽に門を叩いてみてください。
筆者らが開発している「動的マンダラ伸縮モデル(β-Δモデル)」を夢分析用にアレンジした分析シートを活用し、意識が自覚的に知らずとも無意識は知っていて、夢を通じてその消息を意識へと知らせつつある課題を明らかにします。もちろん、ご自身でご自身の夢を分析できるようになる方法も、惜しみなく伝授します。

お申し込み、お問い合わせは下記メールアドレスにお願いします。
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2)夢分析セッション希望!と書いていただければOKです。
3)ご希望のセッション開始時期(近日中とか、半年後から、とか)
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