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空海に興味を持ったきっかけは、小学校の図書館にあった学習マンガだったという話

しばらく前から『吽字義』『秘密曼荼羅十住心論』など、弘法大師 空海さんの書かれたものの周辺を読んでいる。

文庫本で読めるというのがよい

電子書籍でも良いのだが、付箋を「これでもか」と貼って、
行きつ戻りつしながら同時に複数のページを読むには
紙も便利である

空海と言えば、おかざき真里さんによる『阿・吽』という漫画もおすすめである。空海と最澄の物語を知る上でも一読の価値があるし、なにより「線」がいい。

清、濁、貴、賤、喜びも憎悪も、迷いも智も。

同じ「線」が真逆に対立するはずのふたつのことを共に描き出しつつ結び合わせていく

漫画という方法もまた理趣経の世界、曼荼羅(二次元曼荼羅?)なのだなと思わせてくれる。

この点、特に注目して欲しいのは『阿・吽』に描かれる怨霊の皆様の親しみやすい姿である。

生きている者も、生きていない者も、生きていないのに生きている者のあいだにまとわりつこうとする者も、だれしも仏と「アサンメイ チリサンメイ サンマエイ ソワカ」、同じではないが、同じであり、同じであることと同じでないことが等しいのである。

このことを「線」が説いてくれる。

ちなみに空海の漫画といえば、私が子どもの頃に学校の図書室かどこかで読んだのが下記、小学館の『人物日本の歴史 空海』である。

この漫画、監修がなんと松長有慶氏である。子どものころは何も知らずに眺めていたが、どおりでこの『空海』、人物日本の歴史シリーズの中でも特に異彩を放つインパクトがあった。

周囲の他の子どもといえば、表紙に武将が描かれた巻に人気が集中しており、彼ら彼女らからは「なんでいつもお坊さんの漫画ばかり読んでるの?つまらないやつ」などと心ない言葉を投げつけられたものであるが、そのような大変貴重なご助言にはニコニコとスマイルを返しつつ、「まだ、いしょうていようしんの子どもだからよくわからないながら、これはなにやら、すごいことがかいてあるぞ」と、ますます本に没頭したものである。

特に没頭したのは、後半、『秘密曼荼羅十住心論』が十の「心」のあり方として小学生向けに(!)漫画と言葉で解説されているくだりがあり、そのページをずっと開いて、引き込まれるように眺めていた記憶がある。

それと同時に、第七、第八、第九住心のちがいが(学習マンガの1ページを小学生の語彙力で眺めただけではさすがに)よく分からないぞ、と思い、大人になったらいつか全文読んで、この言葉の世界に自在に入り込んでみたい、と思い現在に至る。

* *

『阿・吽』の線で個人的に特に気に入っているところは、第十巻に収められた第58話「犀の角」である。

犀の角のようにただ独り歩め」は、仏教の初期から伝わる「スッタニパータ」に収められたことばである。

「水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め」

中村元 訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫p.21 「犀の角 六二」

煩悩の結び目を破りさる。

「これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め」

中村元 訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫 p.19「犀の角  五一」

一見甘美な、「欲望の対象」の恐ろしさ。

「貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め」

中村元 訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫p.20「犀の角 五六」

妄執。

妄執するのも「心」だが、妄執を解いていくのもまた「心」である。このふたつの心は別々の心であるが、しかしひとつの「心」である。このあたりから、のちに、阿頼耶識とか、心真如と心消滅はひとつのこと、無明が真如に薫習するが、真如もまた無明に薫習する、といった大乗の考えにもつながっていくらしい。

* * *

『阿・吽』第58話「犀の角」では、これらの言葉が、無数の描かれた「線」に重ねられていく。言葉では伝えようがないので、ぜひ実際に『阿・吽』を見ていただけるとよろしいかと思います。

* * * *

ちなみに、『阿・吽』では、最終巻の重要なところで、空海による「亡弟子智泉のための達嚫の文」の一節が引かれている。これは空海が、空海の甥にして最初の弟子である智泉をおくる言葉である。智泉は年長の空海よりも先に亡くなってしまうのである。

ここに空海は次のように書く。

「哀れなる哉、哀れなる哉、また哀れなる哉。悲しい哉、悲しい哉、重ねて悲しいかな…」

空海『性霊集 抄』(加藤精一 訳)角川ソフィア文庫 p.162

『阿・吽』ではこの一節が特に選ばれ、「線」に重ねて描かれている。

* * * * *

この文章の前後にも、とても心惹かれることが書かれている。

覚りの世界では夢のごとき有為転変のことは超越していなければならないのかもしれませんが、この別れには涙が止まりません。」

空海『性霊集 抄』(加藤精一 訳)角川ソフィア文庫 p.162

人が生きたり死んだりすることもまた覚りの境地からすれば「夢のごとき有為転変」である。覚りをめざす修行者であれば、生死のようなことは超越していなければならないのかもしれないが、しかし、それでも悲しい、涙が止まらない。

しかし、ここで終わらない。「悲しい哉、悲しい哉、重ねて悲しいかな…」の続きがある。

空海は智泉の「みたま」に対し「あなたは以前からこうしたことは体得していたとは思いますが、いま私はあなたのために改めてこれを解きたい」といい、次のように記す。

「あなたは真言密教の重要な教えを正確に相承しているのです[…]秘印秘字の一字一画にすべての経典の義理が含まれていますし、これを一誦一念すればあらゆる障りを取り除くことも難しいことではないのです。阿字の一字を念ずることによって本不生の理を覚り[…]。[…]妙観察智を得て、即身成仏を成就し、われすなわち曼荼羅上の大日なりと確信するのです。大日経に「われ本不生を覚る云々」といい、また真言に「ノウマクサマンダボダナン アサンメイ チリサンメイ サンマエイソワカ 云々」というのがその意味です。」

空海『性霊集 抄』(加藤精一 訳)角川ソフィア文庫 pp.163-164

こう解いた後、「どうか[…]第八織を超えた密教の覚りの宮に入って頂けますように」と呼びかける。

即身成仏義にも出てくる「アサンメイ チリサンメイ サンマエイソワカ」がここにも引かれている。人間と仏は異なるが、異ならず、異なるということと異ならないということからして平等なのである。

”有為転変のことは超越していなければならない”が、しかしあくまでも人間の心と身でもって”有為転変のこと”の「只中」で生き、そして死んでいく。

”超越”すべき有為転変の”只中”にいる。

これが人間ということになる。

この人間が、有為転変の只中にありながら、そのまま、即身ー成仏できる、「われすなわち曼荼羅上の大日なり」と識る。これを知る鍵が「アサンメイ チリサンメイ サンマエイソワカ」の論理、同一性と差異性が分節するでもなく分節しないでもない「智」なのである。

こうした智にあふれた人が、いま人間としての心身が解かれたところで、「第八織」の壁というか膜というか、そういうものを超えて、同一性と差異性を分節したりしなかったりする智そのものとひとつになっていく。

亡弟子智泉のための達嚫の文」には空海の思想の核心があるように思う。そして『阿・吽』ではこれがどのような線で描かれるのか。

レヴィ=ストロース氏の『神話論理』ではないが、『阿・吽』もまた最後から読み始めるということ”も”許される、本であることに執着しない本である、などと言ってみてもよいかもしれない。

ようはおすすめ、ということです。


ちなみに、これを書いている私は情報・コミュニケーション分野で博士(学術)号こそ取得しているものの、真言宗のお坊さんではなく、修行が足りないどころか、そもそも何もしたことがない、本を読んでいるだけの凡夫である。南海高野線にすら、未だ乗ることができていない。

ですので真言密教に興味を持たれた方は、ぜひ真言宗のお寺をたずねたり、高野山大学の通信教育などを受けられることをお勧めします。

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