アリ、巨大カワウソ、変身。禁忌が切り出される手前の伸縮自在 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(85_『神話論理3 食卓作法の起源』-36)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第85回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第六部「均衡」を読みます。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
はじめに
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。
神話論理のアルゴリズム(動き方)
即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。
両義的媒介項たちを遠ざけたり近づけたりする
β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
私たち一人一人にとっての世界の意味は対立関係の組み合わせとして分節されたものである
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
このような神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

意味分節の論理としての神話論理
これに関して、井筒俊彦氏の次の一節が示唆に富んでいる。
いわゆる外界に我々が認知する様々な事物、それに促されて我々が考え感じるもの、我々が為すことすべて、どんな些細なものでありましょうとも、全部、なんらかの形で我々の心的機構の深層領域に取りこまれて、意味や意味可能体となり、そういう形でそこに把持される性質をもっている。しかも、それが幼少時代からずっと続いて、我々の深層意識を微妙にダイナミックな意味的構造体に作り上げているのです。ですから、外界のある対象を知覚するというような一見単純な行動でも、ただ外界からやって来る刺激にたいして我々の側の感覚器官が直接反応するのではない。その対象をどんなものとして認識するかは、その時その時に我々の意識の深層から働き出してくるコトバの意味構造の、外界を分節する力の介入によって決まるのであります。
外界、客観的世界、つまり目に見えたり音に聞こえたりして、「あれがある」「これがある」と私たちが感じたり考えたりしているところの自分ではない=自分の外側のあれこれの物事は「心的機構の深層領域に取りこまれて」「意味や意味可能体」になる、という。
どういうことかというと、一見、例えば目の前にリンゴが一つ置いてあるとして、このリンゴは、私がいてもいなくてもそれ自体として今ここに存在し、私たちの内部とは全く無関係に、リンゴ自身で自ずから私たちの外部に存在している、というように感じられる。
しかし、実は私たちが自分の目の前に「リンゴがある」と感じるとき、その「外界のある対象を知覚するというような一見単純な行動」においてさえ、「心的機構の深層領域に取りこまれ」た「意味や意味可能体」と、身体外部の物質的に捉えられる過程によって刺激された感覚器官の反応とが、おたがいに反射しあい共鳴を起こしている。私たちは「外界からやって来る刺激」をただ受動的に直接受け取っているのではなくて、「我々の深層意識」の「微妙にダイナミックな意味的構造体」と共鳴させて、その共鳴から浮かび上がるパターンを経験された世界として構築している。「対象をどんなものとして認識するか」ということは「コトバの意味構造」の「外界を分節する力」によって「介入」されている。
そういうわけで、私たち自身が、どのような事物やどのような他者たちと、どのような状況にあるのかを感じたり思考しようとしたりする瞬間に、この心の深層の意味構造体・意味分節システムがその感じ方や、自分自身にとって意味があることと意味がないことの分別、自分自身にとって価値が高いことと価値が低いことの分別を決定的に左右しているのである。
*
レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話群を21世紀の今、ここで、この私が、じっくりと精読することに関心を持ちつつづけるのは、自分自身が知らず知らずに依拠している心の深層の「微妙にダイナミックな意味的構造体」の姿を観察する力を鍛えることができるからである。
縮んでいたところが伸びて、伸びていたところが縮む
『神話論理3 食卓作法の起源』から「M485 「クロー 赤い頭」」という神話を見てみよう。
ある娘が求婚者を受け入れる条件として、「赤い頭」の髪を持ってくることを要求する。
主人公は旅に出て、 超自然的保護者たちに出会い、さまざまな種類のシカ(または先住民独特の分類法によってシカと見なされる動物)を捧げることによって保護者たちの助けを得る。オオツノヒツジ)、牡ジカ、シカ、アメリカ羚羊 〔カツクはれが〕である。
オジロジカ女とアリ女が、彼が娘に変装するのを助ける。
クズリが変身を完成させる。
主人公はさらに、アリに変身する。そしてアリの姿で赤い頭の見張りたちを欺いて、赤い頭の家へと潜入する。見張りはツル、コヨーテ、複数のイヌ、オオカミ、ヘビの順であった。
赤い頭のところまで辿り着いた主人公はアリの姿から女の姿に戻り、赤い頭に結婚しようと言う。
赤い頭の兄弟たちは赤い頭に対し「この腕に傷痕のある男臭い自称女には用心するように」と警告する。しかし、赤い頭は兄弟の忠告を聞かず、結婚する。
女装した男は眠っているすきに夫を倒して、髪を切り、禿げ頭にしてしまう。それから男の姿に戻り逃げる。
赤い頭の兄弟たちは主人公を追うが、主人公は道筋にそって待ちうけている保護者たちのおかげで逃げ切ることができる。
彼はいいなずけに赤い頭の頭髪を与え、皆はふたりの結婚を祝う。
M485 「クロー 赤い頭」を一部変更

この神話、「赤い頭」にしてみると、迷惑は話である。
どこかの娘のわがまま(?)のせいで、知らない若者に髪の毛を奪われるのである。
とはいえこれは神話である。表層の主語たち、名詞たちが織りなす様相、「それが何であるか」という話は一旦脇に置いておいて、主語と主語の間をくっつけようとしたり、引き離そうとしたりする述語に注目して、述語を拾いながら読んでみよう。
最初の伸び縮み
まず冒頭、「ある娘」と「求婚者」の男女二名が主語として登場する。
問題は、この二人の間にどういう伸び縮みが動くかである。
まず求婚というくらいだから、男の方が女に接近する・近づいていく。
しかし、女の方は男を遠ざけようとする。
近づく動きが分離する動きへと転じる、このそのものずばりの伸び縮みを覚えておこう。
さて、この娘はかぐや姫と同じで「蓬莱の玉の枝」に相当するものとして「赤い頭の髪」という、極めて得難いものを取りに行き、持って帰ってくることを結婚の条件にする。主人公の男と、「赤い頭」が遠く遠く、過度に分離されていることに注目しよう。
主人公の男は遠くへ旅に出る。
つまり求婚した相手の女性から離れて離れて過度に分離する。縮まっていた距離が伸びたのである。
そして旅先で、もともとは遠く分離されていた超自然的なサポーターたち、オジロジカ女やアリ女、グズリたちと出会う。現世には存在しないような者たちとの過度に分離していたところから接触・結合への逆転である。伸びていたところが縮まったのである。あちらで分離したと思えばこちらで結合する。β項たちが繰り広げる脈動の典型的な典型的なパターンである。
変身、変身、変身
さて、この超自然のサポーターたちの術によって、主人公の男は変身自在なものとなる。男性から女性に変身したり、人間からアリに変身したりする。そしてアリから女性の姿へまた変身し、そして最後はまた男性に変身して元に戻る。
男 / 女
人間 / 昆虫
これら対立する融即は経験的感覚的にははっきりと異なるものとして区別される物である。これらの二極の間で一方から他方へ、他方から一方へと自由自在に変身することは困難である。
しかし、この神話の主人公は、伸び縮みする動き、あちらで伸びたらこちらで縮み、こちらで伸びたらあちらで縮むという動きを経て、経験的に鋭く対立する二極の間の距離を自在の伸ばしたり縮めたりすることができる状態に励起されている。
ここでおもしろいのは、この変身がどうやら完璧ではないということである。「赤い頭」の兄弟たち、突然現れた求婚者の「女」が実は女性ではなく男性なのではないか、と疑っている、というかバレているようである。
つまりこの男から女に変身した状態の主人公は、男か女か、どちらか?!という、はっきり分けられた両極の間を一方から他方へとデジタル・二者択一的に反転したのではなくて、男でもなく女でもなく、という曖昧な、男女の区別に対してどちらか不可得な姿になっている、ということである。
神話における変身のモチーフは、表層の固まった分別のΔ二項の間で一方から他方に切り替わるということではなくて、Δ二項のどちらでもないような曖昧な状態になる、というあり方をする。神話における変身は、しばしば見抜かれ、バレるのである。
さてここで赤い頭と結婚した主人公は、寝ている赤い男の髪を奪い、逃げる。逃げる主人公を赤い頭の兄弟たちが追いかける。逃げる者と追う者の間で距離が伸び縮みする鬼ごっこ。近づいたかと思えば引き離され、引き離したかと思えば近づかれる、という伸び縮みの動きに注目しよう。
この鬼ごっこを経て、主人公は赤い頭の世界から分離することに成功し、そして帰ってきたところで神話の冒頭で求婚を断られた娘と今度は結婚することに成功する。
* *
このように、経験的に対立する二極の間を距離の伸び縮みに注目すると、神話が分節システムを未分節の領域から発生させる様を観察しやすくなる。

禁忌の始まる手前
レヴィ=ストロース氏は、別の部族に伝わるこの神話とよく似た異文も紹介する。
オグララ・ダコタ族では、つれない娘が、自分に恋する若者に結婚を承諾する条件として試練にあわせる話が、同時に頭皮を剝ぐためのナイフの起源の話になっている。 プテヒニャパ/ptehiniyapa/という何かわからないものを探しにゆくようにと愛する娘に言われた若者は、太陽と月というふたりの老婆のおかげでそれを見つける。けれども若者がトロフィーとともに帰って来ると、娘は森の シカ(wood-deer)に変身してしまい、彼から逃げる。ここからこの獲物を食べてはいけないという禁忌が生まれる(M、Beckwith 2, p. 401-405, また Wissler 1, p. 128-131 参照)。
この神話では、語りの最後に「禁忌」が生まれる。禁忌というのは例えば、「親子で結婚をしてはならない」といったことである。ここでは分別が設定される。禁忌において重要なことは、例えば「親子で結婚をしてはならない」でいえば、結婚ということ自体を禁止しているわけではなくて(結婚ということをしてはならない)、親と子の間で結婚を禁止している。近所の幼馴染とは結婚しても良いが、親とは結婚してはならない。
同じように、ある特定の神域の木を切ってはならない、というタブーがある。これは樹木全般を切ってはならないということではない。むしろ日常的によろずのことに使うために木を切っているからこそ、「あの森では」切ってはいけない、という。
木を切っていい / 木を切ってはいけない
|| ||
非-聖地(日常) / 聖地
つまり「〜してはいけない」式の禁忌(タブー)が畏れられ共有されるとき、そのタブーに従わなければならないと信じる人々の間に共有される意味的に分節された現実の時空が生じるのである。
そのタブーがある世界の手前が神話の語りの世界である。
神話は、人間にとっての意味あるものとして生きられる世界を生成する意味分節体系を、ゼロから区切り出してくる動きである。逆に言えばそれは神話の語りが閉じられるまでは分別が定まっていないということであり、つまり神話は最初から最後の手前まで、ずっと分別以前の世界の話をしているのである。
分別と無分別の分別も分別
しかし分別以前と言っても、単に分別がない、ということではない。
神話は、無分別な連中の話に聞こえるかもしれないが、しかし分別がないのではない。分別はあると言えばある。
分別があるか/ないか、というのは分別である。
分別がある、またはない。そのどちらか一方を選ぶことができるためには、先に分別と無分別の分別がはっきりと分けられて定まっていないといけない。
神話の語りの最初から終わりの手前まではまだそういう分別は一切きいていないので、そこは分別と無分別のどちらであるか不可得な、分かれているわけではないが分かれていないわけでもないものたちが、あちらで分かれたと思ったらこちらで繋がり、こちらで分かれたかと思ったらあちらでつながる、と言った動き方をする。

神話も言語で持って語られる以上、表面的な姿としては、主語と述語の結合を起点とする互いに分節された要素の線形配列の姿をとらざるを得ない。
しかし神話は、この語たちの線形配列を流用転用して(ブリコラージュ)、分別が固まる手前の分かれているわけではないが分かれていないわけでもないものたちの様相を語ろうとする。この様相を垣間見る上で、神話の語りにおける述語、主語たちの間の距離を伸び縮みさせる述語に注目するとよい。
結婚の条件として遥か彼方へ旅に出る(場合によっては帰って来られない)ことを要求する。結合していないところを結合させると言いながら分離する。
それを得ようと目指している目標物でありながら「何かわからないもの」。結合していないところを結合する。
人体とその頭皮のように通常、不可分に一体化しているところを無理に引き離し、遠く持ち去る。結合しているところを分離する。
変身、すなわち、分離しているところを結合する。
結婚の条件を満たしたのに、異種に変身して逃げる。分離していたところが結合しかけたところを決定的に分離。
上の短い引用の中だけで、これだけの種類の分離と結合の間の様々な様相が展開している。分離か、結合か、どちらか、ではなく、分離しているでもなく分離していないでもない、という局面を、言語を道具として描き出す。
言語は予め分別された二項対立関係の重ね合わせである四項関係を最小単位として、それらのうちの一項だけを選んでは、次の次の四項関係のうちの一項に結合し、この結合で線形配列を編んでいく。そういう分別の道具である言語の中で、述語を振動させて主語たちの間を伸び縮みさせていくことで、神話は分別以前、分別と無分別のどちらか不可得な領域をシミュレートしようとする。
これを言い換えると、分別心である人間の心を使って、分別の手前に共鳴しようということであもる。

言葉の日常の意味分節をブリコラージュ
分離しているでもなく分離していないでもない。
このことを言語でシミュレートするためには、何かと何かが離れたり結びついたりする、という言い方を行う必要がある。
このため神話は、当然のように「何か」と「何か」の間の物語として展開される。そしてその「何か」と「何か」の間で、両者の間の距離が伸びたり縮んだりする動きが色々な述語を用いて語られる。

神話に出てくる奇妙で意味深な「何か」たちの姿に、私たち読み手は興味を惹かれるが、その「何か」の主語たちの謎めいた姿の向こうに隠れた、一見地味な、動き方、述語で語られる動き方に注目をしてみよう。
昔、幼いころ遊んでいて火の中に落ちたインディアンがいた。彼は自分の顔のやけどをした半分が大嫌いで、 あてのない旅に出た。
超自然的保護者たちは彼にたいへん遠いところに棲んでいるワシを頼るように勧めた。ワシは、自分の雛たちをつぎつぎ襲って食べてしまう水に棲む精霊たちから守ってくれるならば助けてやろうと約束した。
主人公が承知すると、ワシは彼を太陽に紹介し、太陽の子供たちが魔法の鏡を使って主人公の顔のやけどの痕を治した。
彼は太陽の子供たちに感謝していろいろな賭け事を教えてやった。
二〇日経つと、太陽は客である主人公に今後は太陽を見るときしかめっ面をしないことを約束させて、彼をワシのもとに帰した。
ワシはやがて霧が立ちこめるであろうと言った。霧は水に棲む精霊たちの襲撃を予告するものであった。
一匹の怪物が水の中から現われた。
主人公はその口の中に火で赤く熟した石をいくつも投げ入れて倒した。その怪物は 「長いカワウソ」で、クローの悪魔学では角のある、あるいは毛むくじゃらのヘビにあたる神話上の生き物である。
カミナリが怪物の死骸を持ち去った。
ワシの雛たちが大きくなると、太陽はワシに向かって、息子に主人公を連れ帰させるようにと命じた。
初雪が降ると、ワシは主人公の男を背に乗せて村に連れ帰った。
村で主人公は美しい娘と結婚した。
もし顔の半分にやけどがなかったらいいのにと言っていた娘だった。
主人公はこのときから、天気の変化を予言する力を得た。
「M486 クロー 傷痕のある男」を一部編集
この神話の主人公は子供の頃に「火の中に落ちて」いる。
火の中に落ちるという述語の様相。人間は通常は、自分からわざわざ火の中に飛び込むなどということは遠慮したいと思うようにできている。火傷は痛むからである。人間と火は通常、分離されている。しかしこの主人公はこの分離の距離を短絡して、火と結合してしまう。
火という通常は分離されているところと結合した主人公は、通常結合しているはずの自分の故郷、自分の部族の村から分離して、遠くへ「あてのない旅」に出る。こちらでは分離を結合に転じ、あちらでは結合を分離に転じる。
冒頭のわずか一文「昔、幼いころ遊んでいて火の中に落ちたインディアンがいた。彼は自分の顔のやけどをした半分が大嫌いで、 あてのない旅に出た。」というだけのところで、神話の論理はこれだけの情報処理を実行しているのであるからおもしろい。
*
結合しすぎたところを分離する
主人公は旅を続け、通常ならば出会うことがないような「超自然」の存在たちと出会う。そして「たいへん遠いところに棲んでいるワシ」の元へ、次に「太陽」の元へと訪れ、最後に水に棲む怪物と対決する。
まずワシは、水に棲む怪物がワシの雛たちを食べてしまうので困っている。怪物に次々と食べられる、というのは八岐大蛇もそうであるが、過度な分離からの過度な結合への規則的な転換の一つの典型的な表現である。
主人公は、まさに素戔嗚尊のように、この水に棲む怪物(これは巨大な蛇のようなものでもある)を退治する、ワシに約束する。
主人公とワシの間に契約、約束が設定される。
約束というのは現在と過去の分離を短絡する結合でもある。
*
ワシと約束をした主人公は、信用を得て、ワシの仲間である「太陽」に紹介される。この太陽はどうやら人間というものをよくは思っていなかったようだが、太陽の子供達が主人公の火傷の傷を消す。敵対的でありながらも助けてくれるという、敵味方どちらか不可得な太陽。
火傷の傷が無くなったことで、主人公は当初に生じた火との過度な結合から、引き剥がされ、分離された、と言える。この時に「魔法の鏡」という媒体が登場しているところが興味深い。鏡は鏡に映っている本人とその鏡像との間に非同非異、異なるが同じ、同じだが異なるという曖昧で柔らかく振動する脈動を引き起こす。
* *
そして主人公は、太陽とも約束をかわして(顰めっ面で太陽を見ない)、太陽の元から離れる、分離する。人間と太陽は通常は分離している。もし太陽と人間が近づきすぎると大火傷することだろう。しかしこの主人公は太陽と結合し、しかも、経験的に予測されることとは逆向きに、火傷をするのではなく、火傷を直してもらうのである。真逆に、あべこべに、ひっくり返っているのが神話の論理のβ脈動の真骨頂である。

ーー*ーー
太陽の元を離れ、ワシのもとへと戻ってきた主人公は、いよいよワシとの約束通り「水に棲む怪物」と勝負することになる。
主人公は、出現した水棲怪物の「口の中」に焼石(まるでミニ太陽のような)をいくつも放り込む。まるで主人公が小さな小さな太陽になっているかような戦いぶりである。
そしてそこで起こる火と水、経験的に真逆に対立する二項の短絡(内外の境界を超えて、口の中に入り込む)。
火と水を短絡したところで、水棲怪物は倒れ、ワシたちの元から決定的に永久に分離される。
ある対立軸上での過度な短絡の様相が、別の対立軸上での分離の確定した様相を引き起こす。伸び縮みの急展開がここにも見られる。
*
人間にとって意味ある世界と、そうでない世界との分別の確定
主人公のおかげで怪物に食べられず無事に成長したワシの子供達は、主人公を連れて(おそらく空を飛んで。人間がワシたちに運ばれて空を飛ぶ!)主人公の生まれ故郷へと送り返す。
そうして主人公は、自分の生まれ故郷で美しい娘と結婚する。
この娘、なんともともとは主人公の火傷の傷痕を理由に結婚を拒んでいたものである。結婚=結合できなかったところが、結合できるように逆転、ひっくりかえっている。
そしておまけのように、この主人公は人間の世界に帰った後も、天候の変化を予測するという、未だ目に見えない未来のことを予見する力を保った。この予測の力は見えないほどに分離されたところを見る=結びつける叡智である。
分別が確定する手前へと入り込み、諸々の二項対立関係の間の距離が縮んでいたと思えば伸び、伸びたと思えば縮むという動きと完全に共振した状態に入った主人公は、人間世界へと戻った後も、このしなやかな精神の振動状態を保ち続けたのである。

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