見出し画像

鈴木大拙の”霊性”について -鈴木大拙著『仏教の大意』を読む(1)

鈴木大拙 著『仏教の大意を読む。

大拙のキータームである”霊性”がダイナミックに動く姿を捉えることのできる一冊である。

霊性の世界と感性・知性の世界

霊性とは、感性・知性対立しつつペアになる事柄である。

霊性/感性・知性

対立しつつペアになっているというのは、霊性と感性知性、二つの事柄が互いに異なる二つのものとして区別されながらも、しかし一つであるということである。二即一、一即二こそが霊性ということにふれるための鍵である。

普通われらの生活で気のつかぬことがあります。それはわれらの世界は一つではなく、二つの世界だということです。そうしてこの二つがそのままに一つだということです。」

鈴木大拙 『仏教の大意』p.8

この節でいう第一の世界が「感性と知性の世界」であり、第二の世界が「霊性の世界」である。二つの世界のあいだにはどのような違いがあり、どのように対立するのか、そして対立しつつ一つであるのかが敷衍されていく。

感性と知性の世界

感性と知性の世界「分別と差別でできている」と大拙は書く(『仏教の大意』p.13)。感性と知性は「分別」し、分け、分節する作用をする。そこから「差別の世界」が構成される。

白か黒か
安いか高いか
敵か味方か
食べられるか食べられないか
好きか嫌いか
快か不快か

このような区別、切り分けを、わたしたちは日々身体と意識のある限り(あるいは夢の中でさえ)絶え間なく実行しつづけている。雑なことを言えば自覚的意識というものの正体はほぼこの区別の束の間の痕跡ではないだろうか。

知性と感性に映る世界では、ものごとはその輪郭をしっかりと固められ、たがいにはっきりと分かれ、混じり合うことのなく、整然と並ぶ。静的な固まりがならぶ世界。この「差別の世界」(分節された世界)は「合理性で支配され」る(『仏教の大意』pp.13-14)。

○ / □

霊性の世界「とは」・・?

感性と知性の世界が分別と差別の世界であるのに対して、霊性の世界は無差別・無分別の世界である。

ここで無差別の世界とは…と書いてしまいたくなる所であるがしばし踏みとどまろう。

AとはBである!
A→B

Aの真実とは、実はXであった!!
A→X

とは…」で、ある言葉を他の何かの言葉や名に言い換えてみたところで、それは大拙の言葉を借りるなら「単なる理知」で説明し=敷衍し=他の言葉に言い換えてかりやすくしてみようということであり、その営みはたがいにはっきりと分たれた個物と個物を並べておいていくという、感性と知性による分別と差別の所業である。AをBに、BをCに、CをXに、と繰り返し置き換えていったとしても、どこまでいってもAとかXとか、何らかの固まった輪郭を持った個物が目の前に置かれるだけである。

”だけ”などと書くと、なにか貶めているように読めてしまうかもしれないがそういうことはない。輪郭が固まった静的な個物を作り出せることこそ、人間の、というか生命体の、感性と知性の素晴らしい性能なのである。雑な言い方になるが、この能力分けて固める感性と知性があるからこそ、人も、動物も植物も、うまい具合にダイナミックに変化する環境に組み込まれつつ、同一性を保って生きていくことができる。

ただし、こと「無分別」のようなことを考え、論じようというときに、「とは」式の静的な固まりをとっかえひっかえ持ってくる思考・記述のやり方は通用しない。なぜなら感性と知性による「とは」式の思考は、無分別を離れて、分別が済んだあとの切り分け済みの輪郭が固まったピースが散らばっている箱の中で行われることだからである。

「相対性の世界(分節された感性と知性の世界)は霊性的世界に没入することによってその真実性を獲得するが、それだからといって、相対性そのものは無くなるのではありません、無分別の渾沌に還るという意味ではありません。」

鈴木大拙 『仏教の大意』 p.12

大拙の論のポイントは、切り分け済みの感性と知性”だけ”があるのではなく、この感性と知性と表裏一体に、切り分け済みでない=未分節〜無分別のまま動き続けることがある、と考えることにある。この後者を仮に呼ぶ名前が「霊性」ということになる。

霊性の世界 即 感性と知性の世界

大拙によれば、感性と知性の世界は、霊性の世界と表裏一体のものとして存立している。感性と知性の分節作用が構成する「千差万別」の世界が「そのままで霊性的世界の消息である」ということになる(『仏教の大意』p.11)。

差別または分別の世界は、無分別・無差別の世界で、徹底して穿貫せられているのです」

鈴木大拙 『仏教の大意』p.14

霊性の世界が動いているからこそ、知性と感性の捉える静的な世界がその輪郭を保つことができる。霊性の世界が動いていないところで、知性と感性の世界だけがそれ自体として転がっているようなことはできない。

感性と知性の世界と霊性の世界は、二つのことではなく、しかし一つのことでもない、という関係にある。感性・知性と霊性、分節と無分節は二即一、一即二である

無分別は分別の中に入り分別は無分別の中に入って初めて、照用自在働きがあるのです。」

鈴木大拙 『仏教の大意』p.18

分別は無分別の中には入ってこそ「照用自在」に働」くという、ここがポイントである。分別と無分別の違いとは、仮に言い換えると”切り分け済みのものたち”と”切り分けること”の違いでもある。

ここで”分別”の世界、知性と感性の世界は、切り分け済みの、それぞれ輪郭が固まったものたちの世界である。

それに対して”無分別”は分けつつあるる動き、分けようとする動きである。ここでいう”無分別”というのは、つるんとした殻を剥いた茹で卵の表面のような整った単一の領域のことではない。霊性=無分別は分けつつあるということ、分けようとしつつ、分け終わってはいないということである。この動きにおいて分けられつつある二者は半分繋がったまま半分別れている

○  << / >> ●

分別は”無分別ー霊性”が動くことによって生じつつある動きの影なのだ。

無分別は分別に対する無分別であり、分別は無分別に対する分別である。

”無分別なるもの”がそれ自体として単独孤独に転がっているわけではないということであり、また別のところに”分別なるものが”が端的に転がっているわけでもない、ということである。分別のことを忘れて「無分別とは」を語ることはできないし、無分別のことを忘れて「分別とは」を記述することもできない。

霊性の世界について、ことばでもって何かを言おうとするならば、「とは」による静的な個物から静的な個物への移行とは違った記述の仕方(論理)が必要になる。それが即ち、霊性即感性・知性、分別即無分別、静態即動態といった、対立する二項が二即一にして一即二であるとする記述である。分別の静的な分節体系と、無分別ー霊性(分別しつつあるが永遠に分別し終わらないこと)の動的な分節アルゴリズムとが二つにして一つ、一つにして二つである。前者は後者の影である。

『仏教の大意』がおもしろいのは、分別と無分別、知性感性と霊性の二者を対立させ、差異を際立たせるよう記述すること=敷衍すること=言葉から言葉への言い換えを重ねていくことで、”分節済みのもの”たちの静的配列を透して、その静的配列の中に、”切り分ける動き”が動く気配(消息)を浮かび上がらせることにある。

◇ ◇

世界は二つである。

そして二つの世界は互いに異なる”二つ”でありながら、”一つ”である。

これは、「一つ」が後からもののはずみで「二つ」に分かれている(つまり”本当は”一つ)ということではない

また「二つ」がたまたま「一つ」につながっている(つまり本当は”二つ”だったものがなにかのはずみで一つに連結した)ということでもない

二こそががそのまま一であり、一こそがそのまま二である。

世界は二でもあるような一でもあるような。

世界は二でもなく、一でもなく。

* *

* *

さて、この一でもなく二でもない世界を構成する”分けるでもなく分けないでもない「分節する」動きが動く所が「人間」である。あるいは人間の「心」と言っても良いかもしれない。

「霊性的世界というと、多くの人々は何かそのようなものがこの世界のほかにあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実は一世界だけなのです。二つと思われるのは、一つの世界の、人間に対する現れ方だと言って良いのです。すなわち人間が一つを二つに見るのです。」

鈴木大拙 『仏教の大意』 p.12

人間に対して、人間の「心」において、いや「心」として、分節の世界と、無分節の世界が現れる。

人間のにおいて、世界は分節された姿で描かれることもあれば、無分節のままにうごめきつづけることもある。

ここでいう人間とそのを、例えば主体と客体の対立(区別・差別)における「主体」の側に属する何かとして記述=分節してしまってはならない。

分節し、区別し、対立させられた二項のうちのどちらを選ぶか?!

という問いの問い方こそが感性・知性・分別知の所業であったのだ。

そういうわけでこの場合の「人間」とそのは、一個の肉体の中の中枢神経とか感覚器官やその集まりということを超えて、宇宙とか生命とか呼ばれるような区別する線が刻み込まれて切り分けられる前の全体異なるような異ならないようななにかである

ここでいう「人間」は、その心は、分節しつつある無分節であり、無分節の分節であり、分節の無分節である。しかもその分節の分節され方といえば単一のものではなく、いくつものパターンがある。「人間」にもその無分節の分節システムとしての構成のされ方の違いによっていろいろ居り、心にもその無分節の分節システムとしてのあり方にもいろいろある。

ちょうど弘法大師空海の『秘密曼荼羅十住心論の十住心、十の心というのはまさにこれ、無分節の分節システムの多様なパターンのうち、仏教が論じてきた十個のパターンについて論じるのである。

おわりに

差別または分別の世界は、無分別・無差別の世界で、徹底して穿貫せられている」という大拙の論は、深層意味論の観点から言えば、意味分節システムの表層深層は別々に分かれながらもあくまでも表裏一体である、という話になる。

意味分節システムの表層は、それぞれしっかりと固まった輪郭をもつ固まりたちが二項の対立関係の対立関係からなる四項関係を最小単位としてずらりと並んでいる。しかしそのずらりと並ぶようなことが可能になるのは、その表層直下の深層で、四項を分けつつつなぐ動きが動いているからである。

そしてこの四項を分けつつつなぐ動きが、表層にその動きの影を投げかける時、そこに両義的な項が(つまり表層で整然と対立する二項の、どちらでもあってどちらでもないような矛盾した項が)躍り出るわけである。

対立する二項のどちらでもあってどちらでもない両義的な項は、たとえば実際の物語の中で言えば、猿かに合戦の「猿」や「蟹」のような者だったり、「臼」や「水桶」や「蜂」のようなものとして現れる。

もちろん猿や蟹や臼や水桶や蜂は”それ自体”としてはなにも両義的ではない。それらが両義的な項としての意味を際立たせるのは、その項の見えない両辺の先にある二つの項の対立が浮かび上がるときだけである。

しかもそこで両義的ならなんでもいいというわけにもいかない。猿や蟹ではダメで、蜂や臼でなければならない、ということもある。

そこには即ち、二項対立関係の対立関係の対立関係としての最小で八つの項からなる関係が、精妙に動きつつ、すべての項目がたがいに自らを挟む二つの項に対して相対的に両義的であるという関係が発生していないといけない。

この八項の関係について、下記の記事にくわしく書いていますのでご参考にどうぞ。

* * * *

つづきはこちら

関連記事


いいなと思ったら応援しよう!

way_finding 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。

この記事が参加している募集