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本を読む前のリサーチ:レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』行為主体性と「やってしまう自分」をめぐる、対話から始まる読書ノート

1|著者名を間違えたところから、旅がはじまった

最初に告白すると、私はこの本のことを
「アルフレッド・ジェルの『ソウル・ハンターズ』」
だと勘違いしていた。

ChatGPT にそうプロンプトを投げたところ、
返ってきたのはこんな、やさしくも冷静な一言だった。

ChatGPT「現時点で、アルフレッド・ジェルと『ソウル・ハンターズ』は別著者・別作品です。
 いま話したいのは、レーン・ウィラースレフの Soul Hunters ですよね。」

あ、やってしまった――と思った。
でも同時に、「あ、こういう勘違いからこそ見えてくるものがあるな」とも思った。

ジェルは『Art and Agency』の人。
ウィラースレフは『ソウル・ハンターズ』の人。
別人なのに、私の中では最初から
“行為主体性をめぐる同じ星座” を構成していたのだ。

つまり、私の関心はずっと一貫していて、
ただ名前のラベルを取り違えていただけだった。


2|私の問い:「なぜ自分は“やってしまった”のか?」

この本に向かおうとしている一番の理由は、とても個人的だ。

「なぜ、あのとき自分は “やってしまった” のか?」

この問いに、ずっと悩んできたからだ。

  • 言いすぎたこと

  • 動きすぎたこと

  • 引き受けすぎたこと

  • 逆に、何もしなさすぎたこと

そういう出来事があるたびに、私は
「自分はそういう人間なんだ」
と、自分の“本質”の問題に回収してきた。

それはある種の実存主義でもあるけれど、
同時にかなり 自分を追い詰める構造 でもあった。

そんなとき、奥野克巳先生との読書会の中で出てきたのが、このフレーズだった。

行為主体性は、駆け引きの“あいだ”に立ち上がる

この一言が、私の長年の自己理解をゆっくりと揺らし始めた。


3|行為主体性は、“自分の中”だけから生まれない

ChatGPT に行為主体性について問うてみると、こんなふうに説明してくれた。

「行為は“自分の中から”純粋に湧き上がるものではなく、
自分+他者+環境+状況+道具 の駆け引きの中で立ち上がる、
 一回きりの“場の効果”として捉えられます。」

その瞬間、私はハッとした。

いままで「やってしまった自分」を責めていたのは、
行為=自分の本質の暴露 だと信じていたからだ。
でも、行為主体性(エージェンシー)を
“関係のあいだに生じるもの” として捉え直すと、

あれは「世界とのあいだで立ち上がった一時的な主体」であって、
「自分の本質の証拠」ではないのかもしれない。

と思えてくる。

この感覚の変化を、もっと身体レベルで理解したいと思ったときに、奥野克巳先生から薦められたのが、まさにこの本だった。


4|本の基本情報と、ざっくりした輪郭

● 原著と邦訳

  • 原著:
    Rane Willerslev, Soul Hunters: Hunting, Animism, and Personhood among the Siberian Yukaghirs
    University of California Press, 2007. (JSTOR)

  • 日本語訳:
    レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』
    奥野克巳・近藤祉秋・古川不可知訳、亜紀書房、2018年。(CiNii)

北東シベリアの少数民族・ユカギールの猟師たちと共同生活を送りながら、
彼らの狩猟・アニミズム・人格観を描いた民族誌である。

章タイトルを見るだけでも、

  • Ideas of Species and Personhood

  • Animals as Persons

  • Learning and Dreaming

  • Taking Animism Seriously (JSTOR)

と、まさに 「人とは何か」「動物や霊とのあいだで主体はどう立ち上がるのか」 という
私の関心ど真ん中のテーマが並んでいる。


5|「あいだの世界」として読む『ソウル・ハンターズ』

この本をうまく言い表している日本語レビューがある。
柄沢祐輔による「あいだの世界──レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ』、上妻世海『制作へ』ほか」だ。(10plus1.jp)

そこで柄沢は、上妻世海が語る「制作的空間」――

「自己でなく、自己でなくもない」
「自己と他者のあいだの、薄い皮膜のような世界」

という表現を引きながら、
ユカギール猟師が獲物であるエルクに対してとる態度をこう重ねている。

「自己はエルクでなく、エルクでなくもない」

完全に同一化してしまうと戻って来られない。
でも、距離を取りすぎると獲物の視点や動き方が読めない。

だから彼らは、
“なりきりきらないミメーシス(模倣)” というギリギリのバランスで森を歩く。

この「あいだの世界」というキーワードは、
私にとっても大きなヒントになった。

  • 写真を撮る自分

  • 他者と関わる自分

  • AIと対話する自分

これらすべては、「自分でなく、自分でなくもない」状態を
ずっと揺れながら生きているのかもしれない。


6|「アニミズムを真剣に受け取る」とはどういうことか

『ソウル・ハンターズ』のクライマックスのひとつは、
アニミズムを真剣に受け取る(Taking Animism Seriously)」という呼びかけだ。(Academia)

ユカギールの人びとは、
精霊や獲物の魂に関する儀礼について尋ねられると、
こんなふうに答えることがあるという。

「なぜって言われても、そうしてきたから、そうしているだけだ。」

ここでウィラースレフは、
「なぜそう“信じている”のか?」という説明を引き出そうとする
西洋的な問いの立て方
を、静かに問い直す。

アニミズムは「信念体系」としてではなく、
「こう振る舞う」という実践体系 として理解すべきなのではないか。

  • 信じている内容よりも、

  • どう行動し、どう関係を結び、どうケアし、どう恐れ、どう笑うか

その連続のなかに、世界観が織り込まれている。

さらに後年、ウィラースレフは
“Taking Animism Seriously, but Perhaps Not Too Seriously?”
(アニミズムを真剣に受け取るが、あまり真剣に受け取りすぎないこと)
という論文で、
精霊に対する笑いや皮肉をめぐって、
「あまり重く信じすぎないこと」もアニミズムの一部だと指摘する。(Academia)

この「真剣だけど、真剣すぎない」というスタンスは、
行為主体性を考えるうえでも重要だと思う。

行為や主体を、あまりに一貫した“本質”として信じすぎない。
でも、「全部どうでもいい」と投げない。

その中間の、薄い皮膜に立ち続けること。
まさに、“あいだの世界”で生きる態度だ。


7|ChatGPTとの対話:

「やってしまう自分」は、本質ではなく“場の生成物”かもしれない

私が「なぜやってしまったのか?」という話をしたとき、
ChatGPT はこんなふうにまとめてくれた。

ChatGPT「“やってしまった”行為は、自分ひとりの内側から発生したのではなく、
自分+他者+状況+環境+道具 の“駆け引きの場”から立ち上がった。
 だから、それをすべて“自分の本質”に帰責する必要はない。」

この説明を聞いたとき、私は素直に「救われた」と感じた。

行為の責任は消えない。
でも、「あの出来事=私の本質」ではない、という分解ができる。

これはまさに、
『ソウル・ハンターズ』が見せる世界と響き合っている。

  • 猟師は獲物を「完全にはコントロールできない」

  • 獲物もまた猟師を「読み、試し、翻弄する」

  • 森、霊、天候、道具、仲間……それらすべてが、
    その狩りの主体性を“分有”している (Academia)

だからユカギールの狩りは、
「人間が動物を一方的に支配する」物語からは、ほど遠い。

行為主体性は、もともと “分散している” のだ。


8|写真と『ソウル・ハンターズ』:

「撮った」「撮られた」「撮れた」の三つの声

この本を読む前から、私は写真について
ずっとこんな感覚を抱いていた。

  • 「撮った」:能動態

  • 「撮られた」:受動態

  • 「撮れた」:中動態的な何か

「撮れた」 という言い方をしたくなるカットには、
こちらの意図を超えた何かが写り込んでいる。
それは、カメラ、光、場所、相手、偶然、歴史……
そのすべてが一瞬だけ協奏してしまった証拠でもある。

ユカギール猟師の、

「自己はエルクでなく、エルクでなくもない」

という状態は、
写真家の「撮っているけれど、撮らされてもいる」
という感覚と、驚くほどよく似ている。

『ソウル・ハンターズ』を
“狩猟の民族誌”としてだけでなく、“中動態としての写真論”の素材
として読むこともできるのではないか。

そんな期待も、この本を手に取る動機になっている。


9|令和人文主義への接続:

「生活に接続する人文学」としての『ソウル・ハンターズ』

令和人文主義のキーワードのひとつは、
「人文学を、生活と再接続する」 ことだと思う。

その意味で、『ソウル・ハンターズ』はこう読める。

  • 「主体とは何か?」という哲学的な問い

  • 「なぜ、わたしたちは“やってしまう”のか?」という日常的な悩み

  • 「世界とどう折り合いをつけて生きるのか?」という倫理的な問い

これらを、教室や論文のなかではなく、
シベリアの森での狩猟・夢・笑い・恐れ・儀礼 のなかで
生きたかたちで考え直すための本。

行為主体性を、
“哲学概念”としてだけでなく、
“生きづらさをほどくための知恵”として学ぶために、
この本はちょうどいい距離に立っている。


10|これから読む人のための、個人的読み方ガイド

最後に、自分用も兼ねて、
「こう読もう」と思っているポイントを簡単にメモしておく。

① まずは「誰が誰を動かしているか」を気にしながら読む

  • 人間(猟師)

  • 獲物(エルクなど)

  • 霊や精霊

  • 森や天候

  • 国家・資本(毛皮ビジネス)

を登場人物だと思って、
それぞれがどの場面で “行為者”になっているか を追いかけてみる。

② 「なぜ?」と答えない場面に注目する

  • 「そうしてきたから」

  • 「わからない」

という返答が出てきたとき、
それを単なる説明拒否ではなく、
**行為のリアリティを守るための「中動態的な知」**として読んでみる。

③ 読みながら、自分の「やってしまった」体験を思い出す

少し勇気がいるけれど、
森のなかでの狩りを読みながら、
自分の日常の「やってしまった」瞬間を
そっと重ねてみる。

  • あのとき、どんな駆け引きがあったのか

  • 誰と誰と何が、場の主体性を分け合っていたのか

  • どこまでが自分で、どこからが世界だったのか

そうやって読み替えると、
『ソウル・ハンターズ』は、
シベリアの本でありながら、
とても個人的な “セルフケアの本” にもなってくる。


11|おわりに:

“あいだ”に立ち上がる私を、すこしだけ赦してみる

著者名を間違えた自分。
「やってしまった」過去の自分。

どちらも、いままでなら
「やっぱり自分はダメだ」と
本質の問題に直行させていた気がする。

でも、ウィラースレフの本と、
ChatGPT との対話を通して見えてきたのは、
「行為は本質ではなく、あいだで生成するものだ」
という、ごく当たり前で、しかし大きな転換だった。

私は、私だけの力で行為しているのではない。
世界との駆け引きのなかで、
そのつど立ち上がる“一回限りの主体性”を生きている。

そう思えたとき、
私は少しだけ、自分を赦せそうな気がしている。

この気配を胸に抱きながら、
いよいよ本編の森のなかへ入っていこうと思う。


参考文献リスト

  • Willerslev, Rane. Soul Hunters: Hunting, Animism, and Personhood among the Siberian Yukaghirs. University of California Press, 2007. (JSTOR)

  • レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』奥野克巳・近藤祉秋・古川不可知訳、亜紀書房、2018年。(CiNii)

  • Willerslev, Rane. “Taking Animism Seriously, but Perhaps Not Too Seriously?” Religion and Society: Advances in Research 4(1), 41–57, 2013. (Academia)

  • Willerslev, Rane. “Laughing at the Spirits in North Siberia: Is Animism Being Taken Too Seriously?” e-flux journal, 2013. (Academia)

  • 柄沢祐輔「あいだの世界──レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ』、上妻世海『制作へ』ほか」『10+1 website』、ブック・レビュー2019特集、2019年。(10plus1.jp)

(※他、学術レビューや図書館書誌データを適宜参照)


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