Open Green:東京を“見る”のではなく“感知する”――ウィリアム・リンスコットと「近傍で語る」実験としてのレジデンス制作
口上:東京・用賀から「近傍で語る」へ
ニュージーランドから来日し、6週間の滞在を通じて東京で作品制作を行った写真家・ウィリアム・リンスコットは、「日本という新しい文脈(主題)」を、知識と理解の名のもとに“分かりやすく透明化”するのではなく、その不可解さや不確実性を保持したまま、**隣接した場所から関わる(speaking nearby)**ことを目指しました。
その成果として、渋谷・ギャラリーコンシールで開催されたのが個展 「Open Green」。
本展は、オークランド写真フェスティバルと一般社団法人Tokyo Institute of Photographyが共同で実施する 「2025年コウハイ・レジデンシー in Tokyo(Creator Kōwhai Residency)」 の一環として実現した展示です。(Gallery Conceal)
ウィリアム・リンスコットは、タマキ・マカウラウ(ニュージーランド・オークランド)を拠点とするアーティスト/教育者で、オークランド大学エラム美術学校(Elam School of Fine Arts)で博士号を取得し、2024年にはその集大成として George Fraser Gallery で展覧会「For better and for worse」を開催しています。(Gallery Conceal)
現在は、Auckland Festival of Photography と 一般社団法人 TOKYO INSTITUTE of PHOTOGRAPHY の支援による Creator Kōwhai Residency 2025 の受賞者として東京・用賀に滞在し、写真を通じて太平洋をまたぐ文化・環境の接続を模索しています。(photographyfestival.org.nz)
ユーザーである保坂さんは、会期最終日の 2025年12月13日(土)18:00〜 に行われたクロージングパーティー&アーティストトークに参加し、その模様を録音・書き起こししました。本ノートは、その書き起こしを一次資料として優先しつつ、ところどころの欠損や聴き取りにくい箇所を補いながら、トーク全体の流れと論点を、令和人文主義者に向けて整理したものです。
書誌と作者紹介
展覧会情報
展覧会名:Open Green(ウィリアム・リンスコット)
会期:2025年12月11日(木)〜13日(土)11:00–20:00
会場:ギャラリーコンシール渋谷(Gallery Conceal Shibuya, Gallery B)
イベント:クロージングパーティー&アーティストトーク:12月13日(土)18:00〜 (Gallery Conceal)
位置づけ:
Auckland Festival of Photography と Tokyo Institute of Photography による
「2025 Creator Kōwhai Residency in Yōga, Tokyo」 の成果展として開催。(Gallery Conceal)
作者:ウィリアム・リンスコット(William Linscott)
拠点:タマキ・マカウラウ(オークランド、ニュージーランド)在住のアーティスト/教育者。(Gallery Conceal)
学歴・活動:
エラム美術学校にて博士号取得。博士制作は George Fraser Gallery での展覧会「For better and for worse」(2024)として結実。(Gallery Conceal)
博士課程終了後、Elam で Professional Teaching Fellow として教鞭をとる一方、
フランス・パリの Centre des Récollets および パリ第1大学(パンテオン=ソルボンヌ)と連携した Saas-Fee Summer Institute of Art 2025 プログラムに参加。(Gallery Conceal)2023年には Lisbon(リスボン)で Maumaus Independent Study Programme および Hangar, Centro de Investigação Artística のレジデンシーに参加。(Gallery Conceal)
それ以前から Samoa House Library の設立・運営など、複数のアートスペースや団体に関わる。(Gallery Conceal)
現在:
Auckland Festival of Photography と Tokyo Institute of Photography による Creator Kōwhai Residency 第6回目のアーティストとして、東京・用賀に1.5ヶ月ほど滞在し、本展「Open Green」の制作・発表に至る。(Instagram)

トークの要約(6週間レジデンスから「Open Green」へ)
※以下は、書き起こしが部分的に乱れている箇所を、文脈から補いながら再構成したものです。
1. 短期レジデンスとしての「6週間」と、不確実性を抱えたプロジェクト
冒頭、リンスコットは今回のレジデンスが**約6週間という「比較的短い期間」**であったことを強調します。
この短さゆえに、
制作環境として特有の制約(土地への不慣れ・言語・時間的制限)があった一方で、
そうした制約がむしろ 新しい制作方法を模索するための触媒 になった、と振り返ります。
彼は、レジデンスの成果としての「作品」そのもの以上に、
「個人的な芸術的成長のための内省の時間を得られたこと」
を重視し、
未解決な不確実性や葛藤そのものを、生産的な問いとして場に提示したい、と語ります。
2. 最初のコンセプト:プラットフォーム時代の「テクノロジーと社会的想像力」
当初、彼がレジデンスの企画書で掲げたテーマは、
「テクノロジーを通して生み出される社会的想像力(social imagination)を探求する」
という、かなり抽象的な命題でした。
ここでいう「テクノロジー」は、
「テクノロジーは良い/悪い」といった道徳的評価や、
抽象的な「技術進歩」一般ではなく、
SNS を代表とする巨大民間プラットフォーム企業が支配する活動領域、
つまり、アルゴリズムにより組織化された日常生活の場としてのテクノロジーを指していました。
さらに、日本という場所は、西洋から見ると長らく
「技術革新と未来性の象徴」(“Japan is so high-tech” 的イメージ)
として消費されてきた。(facebook.com)
その日本で、実際にテクノロジーがどのようなかたちで日常に立ち現れているのか
──広告、サイネージ、街のインフラ、SNS上の東京イメージ──
を観察し、その中から「社会的想像力」を読み解こうとしたのがスタート地点です。
3. 「街を長時間さまよう」から、「方法の転換」へ
最初の数週間、彼は
長時間街を歩き回る/走り回ること、
そこで出会う看板やサイネージ、ファウンド・マテリアル(偶然見つけた画像やオブジェ)を収集すること
を中心にリサーチを進めます。
しかし、すぐに二つの問題に気づきます。
時間的制約:
6週間で、東京という超高密度で複雑な視覚環境の「深部」にまで入るのは無理がある。図解的(イラストレーティブ)になってしまう危険:
「テクノロジーと未来イメージ」というテーマに対して、
分かりやすい図解(=広告やネオンサインを“それっぽく”コラージュする作品)に落ちかねない。
そこで彼は、
「見つけた素材の統合(コラージュ)にあまり依存しない方法」
「この土地への自分の『馴染みの無さ』を、むしろ自己反省的に抱きかかえる方法」
へと、アプローチの転換を図ります。
4. トリン・T・ミンハとグリッサン:speaking nearby と opacity
この転換を支える参照枠として、彼は二人の理論家を挙げます。
トリン・T・ミンハの「近傍で語る(speaking nearby)」
民族誌的ドキュメンタリーの慣習(外部の観察者が「対象について語る」スタイル)に対し、
対象を客体化せず、対象が不在であるかのような語りを避け、
自分も巻き込まれている「近接した位置」から語ることを提案する。(jackie-inhalt.net)
エドゥアール・グリッサンの「不透明性(opacity)」
西洋啓蒙主義が理想とする「完全な透明性=すべてが理解され、計算可能である状態」に対し、
被植民地化された人びとの側から 「理解され尽くさない権利(right to opacity)」 を擁護する思想。(ウィキペディア)
リンスコットは、この二つの概念を、東京という場所に対する自らの振る舞いに重ねます。
東京/日本を「完全に理解し、代表して語る」ことを拒否する。
むしろ、わからなさや不透明さを残したまま、その周辺で作業し続ける。
作品自体も、「きれいにまとまった結論」ではなく、
次の展開への通過点として開いた状態に留める。
5. カメラ選択と「プラットフォームの視線」への気づき
機材の選択も、この思考の一部として語られます。
日本は、中古カメラやレンズが異様に豊富で、画質フェティシズムが強い場所でもある。
そうした「高性能機材/高画質主義」が、むしろ彼を**反対方向(ローファイでよい、別のやり方を探したい)**へ押しやった。
最初はミラーレス一眼を借りて撮影していたものの、
最終的には スマートフォンで撮影する 方針へ。
そこで意識に上ってきたのが、
スマホでカメラを検索したり、
東京の情報を調べたりしているうちに、
アルゴリズムが彼の欲望を推測し、カメラ広告や旅行情報、
「東京で絶対に行くべき10の場所」といったテンプレ的コンテンツでフィードを埋め尽くしていくという体験でした。
これは、
「ユーザーの欲望を鎮静化し、広告収入を最大化するためだけに最適化された超個人化フィード」
として、テクノロジーと資本が作り出す貧弱でステレオタイプな東京像を象徴するものでもあります。
彼は、
そのあまりの凡庸さに呆れつつ、
同時に、「このアルゴリズムの指示にあえて従ってみる」という
アイロニカルな制作方針を思いつきます。
6. ランニングと「センシング」:身体とセンサーの共同制作
ここから、作品の核となる方法が立ち上がります。
リンスコットは滞在中、用賀のレジデンスから近い「砧公園(元ゴルフコース)」周辺を毎日走る習慣を持ちました。(Gallery Conceal)
ランニングは、彼にとって
瞑想的な状態に入るための行為であり、
身体の単純な運動と、思考の“空白”が両立する時間でもある。
スマホを手に走っていると、
ポケットの中で意図せずシャッターが切れてしまう「失敗写真」や、
指が入り込んだ写真が撮れてしまうことがあります。
彼はそこに、
「何が映っているか」ではなく、
「カメラとユーザーの物理的な関係性が映り込んでいる」
という面白さを見ます。
この「偶然の写真」こそが、
従来の point and shoot(狙って撮る) とは逆の、
sense and record(感知して記録される)
というあり方を示しているのではないか、と。
さらに彼は、アーティスト・コレクティヴ Metahaven が提案する
「ways of seeing(見る方法)」ではなく 「ways of sensing(感知する方法)」 という考え方に触発されたと語ります。(テクニックジャーナル)
カメラを「外部から監視する装置」としてではなく、
環境の中に住みつき、変化とともにあるセンサーとして扱う。
スマホに組み込まれた各種センサー(ジャイロ、加速度など)を、
画像生成と結びつけることで、「撮影」という行為の意味をずらす。
最終的に彼は、
毎日5kmほど公園の周りを走りながら撮影し、
同時に計測されたモーションデータを、
後の映像生成(フレームの動きや揺れ)のパラメータとして用いる、
というシステムを構築します。
重要なのは、
撮影中は画面を見ない/構図を「決めない」
→ 後から、身体とデバイスがつくった素材を見つめ直す
という時間差の構造です。
これにより、「撮る」という意識的なキャプチャ行為から、
「身体+センサーが、ともに環境をスキャンした痕跡を後から読む」
という センシング的な写真行為 へと、意味がシフトしていきます。
7. ディディ=ユベルマンの「グリンプス(glimpses)」:一瞬の光としてのイメージ
リンスコットは、このプロセスを支える理論的な参照として、
美術史家 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン(Georges Didi-Huberman) の
「グリンプス(glimpses)」や「ホタルのイメージ(firefly-images)」の議論にも触れます。(BLACKOUT ((poetry & politics)))
ディディ=ユベルマンにとって、
グリンプスとは、「現れては消える世界の断片」であり、
完全に把握されることのない、出現と消失のあいだの一瞬の光です。
彼はこれを、
「知っていること(knowledge)」と「まだ知られていないこと」の関係
は、単なる光と闇の対立ではなく、
ほたるの微光が暗闇のなかで点滅するような関係だ
と表現します。(BLACKOUT ((poetry & politics)))
リンスコットは、自身のランニング撮影で得られた映像を、
東京という環境の中で、
自分の身体とスマホが残していった**小さな光の痕跡(グリンプス)**として捉え直します。
それは、
完全なドキュメンタリーでも、
自分の視点を押しつける映像でもない、
「出現しつつ消えつつある」痕跡のアーカイブとして、
不透明な都市体験を提示する試みです。
8. インスタレーション形式:「Open Green」とは何か
インスタレーションの形式について、彼はいくつか特徴的なポイントを説明します。
モニターサイズと映像サイズのギャップ
50インチほどの大型モニターを使用しつつ、
映像自体は L版プリントに近い 6×4インチ程度の小さなサイズで表示している。16:9の画面をフルに使わず、
余白(黒い部分)を残したインターフェースとして提示することで、
観客との距離感や「見えにくさ」をあえてつくり出している。
タイトル「Open Green」の由来
目黒の別の公園で見かけた「公開緑地の使い方(Open Green)」という看板から着想。
「Open(開かれている)」と「Green(グリーン/エコ)」は、
現代の政治的・環境的な文脈で非常に政治性を帯びた言葉でもある。用賀の公園自体が元ゴルフコースであり、
そのレイアウトの名残が現在の公園の地形に残っていることにも興味を持つ。
Artist-run / Artist runner のダジャレ
アーティスト主導のスペースを artist-run space と呼ぶ慣習をもじり、
自身が「走って制作するアーティスト」であることから
artist runner という言葉遊びも交えて紹介。
最後にリンスコットは、
「センセーショナルな“東京像”を提供するのではなく、
ささいなイメージの揺らぎから、観客それぞれが何かを読み取れる
控えめなインスタレーションにしたかった」
と述べ、トークを締めくくりました。
論点整理(令和人文主義的に見た「Open Green」の6つの軸)
1. レジデンス=作品よりも「思考の場」であること
6週間という短さの中で、「完成した大作をつくる」よりも、
不確実性や葛藤をそのまま抱えた思考のプロセスが前景化。
これは、作品を「成果物」ではなく、
思考を続けるための媒介として捉える態度。
→ 令和人文主義的には、「アウトプットの生産性」よりも、
思考や対話の継続可能性を重視する姿勢として読めます。
2. プラットフォーム資本主義と「凡庸な東京イメージ」
カメラ検索や位置情報から導かれるアルゴリズムによる観光&消費のテンプレが、
「東京」という都市のイメージをあまりに凡庸に均質化している。
作品は、その凡庸なイメージに安易に乗らず、
**あえて別の感知の経路(ランニング+センシング)**を模索する試み。
→ 「AI時代のアウラ」や「SNS的東京」をどう相対化するかという問題に直結。
3. 「speaking nearby」と「right to opacity」の実践としての撮影
完全に理解して代表して語ることへの拒否(Minh-ha)。(jackie-inhalt.net)
**理解され尽くさない権利=不透明性(Glissant)**への配慮。(ウィキペディア)
これらを、
被写体や土地に対する「語り方」だけでなく、
撮影方法・編集方法・インスタレーション形式にまで落とし込んでいる点が重要。
→ これはまさに、「近傍で語る」を制作実践レベルで翻訳したケーススタディと言えます。
4. Seeing から Sensing へ:写真行為の再定義
point and shoot ではなく、sense and record へ。
カメラ/スマホを、視覚だけでなく、
身体運動とセンサーを通じて環境をスキャンする装置として使う。
Metahaven などが論じる「ways of sensing」との接続。(テクニックジャーナル)
→ 「写真=見ること」という近代的枠組みから、
「写真=環境の変化を感知し、その痕跡を残すこと」への移行。
5. 偶然/失敗と「制御された分発性」
ポケットショットや指入り写真のような「失敗」を、
単なるノイズではなく 身体とデバイスの関係が可視化された痕跡として評価。ランダム性や偶然性を、**制御された条件設定(毎日のランニング、センサー連動)**の中に導入することで、
作家の意図を少し手放し、
それでもなお作品として受け止める、というバランスを模索。
→ 「作者のコントロール」を少し緩めつつ、「何を受け入れるか」の判断は残す、
ポスト作者主義的な態度として読めます。
6. インスタレーションとタイトルの政治性
画面をフルに使わず、小さな映像を提示することで、
スペクタクル的な画像消費に対するささやかな抵抗線を引く。
「Open」「Green」という今日的に政治性を帯びた語を、
公開緑地/元ゴルフコース/環境政策/アートスペースの開放性
などと半ばアイロニカルに重ねる。
→ 都市計画・環境政策・アートワールドの言語が、
いかに「良さそうな言葉」で空間を塗り替えていくのか、
その違和感を軽いユーモアで示すポリティカルなジェスチャーとして読めます。
用語解説(初学者向けミニ辞典)
■ コウハイ・レジデンシー(Kōwhai Residency)
オークランド写真フェスティバルが中心となって運営する、
ニュージーランドの写真家向け東京レジデンスプログラム。東京・用賀での滞在制作、スタジオ付き宿泊施設、渡航支援、週次の生活費などが提供される。(photographyfestival.org.nz)
■ Creator Kōwhai Residency 2025
コウハイ・レジデンシーの「クリエイター枠」としてのプログラム。
2025年の受賞者がウィリアム・リンスコットであり、
本展「Open Green」は、この第6回目のレジデンス成果として位置づけられる。(Instagram)
■ speaking nearby(近傍で語る)
トリン・T・ミンハが提示した、民族誌的語りへの批判的概念。
対象の「外側」から一方的に説明するのではなく、
対象と近接しつつ、完全に理解したふりをしない語り方。「〜について語る(speaking about)」との対比で語られる。(jackie-inhalt.net)
■ 不透明性(opacity)/right to opacity
詩人・思想家エドゥアール・グリッサンの概念。
西洋近代が理想とする「透明性=完全に理解し把握すること」に抗して、
他者が「理解され尽くさない権利」を主張するもの。多文化世界のなかで、差異を平板化せずに共存するための倫理として議論される。(ウィキペディア)
■ ways of sensing(感知の方法)
アーティスト・コレクティヴ Metahaven などが用いる概念。
映像や都市空間を「見る対象」としてではなく、
センサーやインターフェースを通じた感覚のネットワークとして捉える視点。(テクニックジャーナル)
■ glimpses(グリンプス)
ディディ=ユベルマンが用いる、
「現れては消える世界の断片」を指す言葉。(MediaRep)ほんの一瞬だけ見えるイメージ、
消えかかるホタルの光のような「出現と消失のあいだ」にある像。完全な知識でも、単なる無知でもない、
部分的な理解の残像として重視される。
■ スペクタクル(spectacle)
ドゥボールなどが批判した、
資本主義社会における「見せ物」としてのイメージの支配。ここでは、ネオン・広告・SNS映え写真など、
「視覚的に過剰な都市イメージ」の総体を指している。
■ Artist-run / Artist runner
artist-run space:アーティスト自身が企画・運営するギャラリーやスペース。
リンスコットは、自分が**走る(run)**ことで作品をつくることから、
「artist runner」という言葉遊びで、
運営と身体運動を重ね合わせた自己紹介をしている。
批判分析:このトーク/作品から何を引き継ぐか
1. 「近傍で語る」を、きちんと身体レベルに落とし込んでいる点
トリン・T・ミンハやグリッサンを参照しながら、
単にテキストの引用にとどまらず、
カメラ選択、
撮影方法(ランニング+センサー)、
編集方針(ほぼ無編集で受け止める)、
インスタレーション(小さな画面、余白を残す)
といった具体的なレベルで、
「透明化せず、近傍から関わる」
という態度を実装している点は、とても誠実で評価できます。
令和人文主義的に言えば、
「他者を撮る/他者の都市を撮る」という行為において、
理解しすぎないことを引き受ける
そのための「撮影の作法」を考えた作品、と言えるでしょう。
2. 一方で:抽象性と「どこまで届くか」の問題
ただし、いくつか気になる点も浮かびます。
理論参照の多さと鑑賞のハードル
Minh-ha、Glissant、Metahaven、Didi-Huberman…と、
引用される理論家・概念はかなり高度。トークを聞けば筋は通るものの、
展示空間だけでそれらの背景を読み解くのは、
一般の観客にはかなり難しい。
東京の社会的文脈への踏み込みの浅さ
レジデンス期間や言語の問題もあり、
東京の具体的な政治経済的文脈(不動産、労働、移民など)には、
あまり踏み込めていません。その代わりに、「アルゴリズム」「観光的東京イメージ」という
比較的抽象度の高いレベルで批判が行われています。
偶然性の「制度化」と、作家のコントロール
偶然写真やセンサーの揺らぎを重視する一方で、
条件設定や編集方針の決定は、最終的に作家が握っています。つまり、「コントロールを手放したふう」をしながらも、
作品として成立させるために、
かなり戦略的な取捨選択が行われている。
3. 令和人文主義者として、このトークから持ち帰れること
保坂さん/読者が、このトークから自分の実践に持ち帰れそうなポイントを3つだけ抽出すると:
「撮る前」のリサーチを、身体化させること
調べる/考えるだけでなく、
自分の身体のルーティーン(歩く・走る・通勤する)を制作条件に組み込む。その上で、そこで集まった素材を後から「読む」時間を確保する。
アルゴリズムの凡庸さを、“素材”として扱うこと
SNSが提示してくる「東京/日本」のテンプレ像に、
ただ反発するだけでなく、
それをあえて受け入れ、その凡庸さを可視化する方法を考える。
「近傍で語る」ための、自分なりのルール作り
たとえば:
被写体や場所の説明を「しすぎない」こと。
わからない部分をわからないまま残す編集。
作品テキストに「未完・途中」の感触を残す。
こうしたルールを、プロジェクトごとに書き出してみることで、
自分版の「speaking nearby の作法」が立ち上がるかもしれません。
参考文献・参考サイト(参考文献リスト形式)
Gallery Conceal Shibuya, “comingsoon・『Open Green』 ウィリアム・リンスコット” 展覧会情報ページ(2025年).
Auckland Festival of Photography, “2025 Creator Kōwhai Residency update / Open Green” ニュース・告知ページ(2025年).(Gallery Conceal)
Auckland Festival of Photography, “Kōwhai Residency in Yōga, Tokyo” プログラム概要.(photographyfestival.org.nz)
New Zealand Embassy Japan, Facebook 投稿 “今週、オークランド写真フェスティバルと一般社団法人 TOKYO INSTITUTE of PHOTOGRAPHYは2025年度コウハイレジデンスプログラム in Tokyo の一環として…”(2025年).(facebook.com)
Édouard Glissant, Poetics of Relation. University of Michigan Press, 2010(特に “The Right to Opacity” 章).(ウィキペディア)
Édouard Glissant, “The Right to Opacity” に関する紹介・解説記事各種.(Critical Legal Thinking)
Georges Didi-Huberman, “Glimpses. Between Appearance and Disappearance,” ZMK 7(1), 2016.(MediaRep)
Georges Didi-Huberman, Survivance des lucioles(『ホタルのサバイバル』)および関連解説.(BLACKOUT ((poetry & politics)))
Metahaven ほかによる、インフラ/インターフェース/センシングに関する論考(例:Dark Infrastructure, The Metainterface など).(テクニックジャーナル)
(一次資料)2025年12月13日「Open Green」クロージングパーティー&アーティストトーク録音・書き起こし(保坂による、個人的資料)。
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