「近傍で語る」とは何か――Trinh T. Minh-ha「Speaking Nearby」読書ノート+ウィリアム・リンスコット展の下準備
結論のざっくり要約(先に)
トリン・T・ミンハの「近傍で語る(speaking nearby)」は、対象を支配的に「語り尽くす」のではなく、対象のすぐそばに身を置きながら、その不可解さや余白を残したまま語る倫理的・美学的な実践です。
彼女は、人類学・ドキュメンタリー・フェミニズム・ポストコロニアル批判を横断しつつ、「真実」はカメラを向ければ撮れるようなものではなく、**詩的な言語・多声性・ヴォイド(空白)を通じて“間接的にしか近づけない”**と主張します。
令和人文主義&写真/映像実践に引きつけるなら、「近傍で語る」は、他者理解の“わかりやすさ”をあえて減速させる編集・展示・トークの態度として、ウィリアム・リンスコット《Open Green》やあなたのトークでも強力な参照軸になります。
口上:なぜいま「Speaking Nearby」か
ベトナム出身の映画作家・理論家トリン・T・ミンハが提唱した「近傍で語る(speaking nearby)」は、ドキュメンタリーやエスノグラフィーにおける**「語る側/語られる側」「撮る人/撮られる人」**の関係を根本から問い直すキーワードです。
従来のドキュメンタリーでは、語り手(写真家・映画作家・研究者)と対象(被写体・現地の人びと)がはっきり分かれ、対象は「外部にある客体」として、説明され、理解され、可視化されてしまうことが多い。そこでは「よくわかる」代わりに、対象の複雑さや矛盾は均質化され、透明化され、制度に回収される危険を抱えています。
ミンハの「近傍で語る」は、この暴力性への反省から生まれたアプローチです。
作り手は主題の**“中”に同一化して溶けるのでもなく、遠くから“上から目線で”語るのでもなく、きわめて近い場所に身を置きながらも、「完全に理解した/言い尽くした」という位置を拒否する**。むしろ、対象のわからなさ・不透明さ・沈黙を尊重し、それを残したまま作品を構成する態度です。
この考え方は、「他者を理解する」という行為そのものが孕む危うさ――理解=差異の平板化という暴力――を見据えています。だからこそミンハは、「真の共存」は相手を透明化して「わかった気になる」ことではなく、理解しきれない部分を含めて他者の複雑さを引き受けることから始まると考えます。
いま、ニュージーランドから来日し、6週間前後の滞在制作を経て東京で展示を行うウィリアム・リンスコットは、日本という新しい文脈を前に、まさにこの「speaking nearby」を意識したアプローチをとろうとしています。彼は、日本を「知識と理解の名のもとに透明化」するのではなく、その不可解さや不確実性を保持したまま、隣接した場所から関わる展示を構成しようとしている。
渋谷・ギャラリーコンシールで開催される個展「Open Green」は、ニュージーランド・オークランド発の写真祭 Auckland Festival of Photography が運営する写真家向けレジデンス・プログラム Kōwhai Residency in Yōga, Tokyo(コウハイ・レジデンシー) の一環として実現した、Creator Kōwhai Residency 2025 の成果展です。ギャラリーの告知では、Auckland Festival of Photography と Tokyo Institute of Photographyが共同で 2025 Kōwhai Residency exhibition を開催すると明記されています。(Gallery Conceal, Kōwhai Residency) (Gallery Conceal)
ユーザーである保坂さんは、この展示のクロージングトーク(13日土曜18:00〜)で、作家とともに**「どう近傍から語るか」**という制作プロセスを掘り下げることになります。その下準備として、本稿はミンハのインタビュー「Speaking Nearby」を精読し、令和人文主義と当代の写真・映像実践に引きつけて整理しておきます。
書誌情報と作者紹介
テキスト
Trinh T. Minh-ha, interviewed by Nancy N. Chen, “Speaking Nearby: A Conversation with Trinh T. Minh-ha,” Visual Anthropology Review 8(1), 1992, pp. 82–91.
※本ノートは上記PDFテキストを最優先の一次資料として読解しています。
トリン・T・ミンハ(Trinh T. Minh-ha)
1952年ハノイ生まれ、サイゴン育ち。1970年代初頭に渡米し、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で比較文学などを学ぶ。(ウィキペディア)
映画作家、作曲家、理論家として活動。**『Reassemblage』(1982)、『Surname Viet, Given Name Nam』(1989)、『Shoot for the Contents』(1991)**などのエッセイ・フィルムで知られる。(Women Make Movies)
長年カリフォルニア大学バークレー校でジェンダー&女性学・レトリックの教授を務め、ポストコロニアル理論、フェミニズム、サードシネマ、映像表現などを横断する教育と制作を行ってきた。(ウィキペディア)
ナンシー・N・チェン(Nancy N. Chen)
医療人類学者。カリフォルニア大学サンタクルーズ校の人類学教授として、中国の医療制度、精神医療、食と健康、癒しの実践などを研究。(キャンパスディレクトリ)
エスノグラフィー映画や中国医学をめぐる研究を通じて、身体・医療・国家・市場の交差点を探求している。
ウィリアム・リンスコット(William Linscott)
タマキ・マカウラウ(ニュージーランド、オークランド)を拠点とするアーティスト/教育者。Elam School of Fine Arts(オークランド大学芸術学部)で博士号を取得し、その集大成として George Fraser Gallery で個展「For better and for worse」(2024年)を開催。(Gallery Conceal)
その後、Elam の Professional Teaching Fellow を務め、パリの Centre des Récollets とパリ第1大学パンテオン=ソルボンヌの美術・ヴィジョン修士課程が主催する Saas-Fee Summer Institute of Art 2025 プログラムに参加。2023年にはリスボンの Maumaus Independent Study Programme 参加や、Hangar, Centro de Investigação Artística でのレジデンスを経験するなど、国際的な活動を展開している。(Gallery Conceal)
現在は、Auckland Festival of Photography と Tokyo Institute of Photography の支援による Creator Kōwhai Residency 2025(コウハイ・レジデンシー) の受賞者として東京・用賀に滞在しており、渋谷・ギャラリーコンシールでの個展「Open Green」(2025年12月11〜13日)は、その成果発表となる。(Gallery Conceal, Kōwhai Residency) (Gallery Conceal)
要約:インタビューの主要な流れ
1. 「個人的なもの/政治的なもの」のあいだ
冒頭でチェンは、ミンハの最新作『Shoot for the Contents』に登場する人物たち――「残余階級(residual class)」と自己規定するクレアモントや、「ここ」と「そこ」のあいだに引き裂かれる感覚を語る Dewi――を手がかりに、彼女の家族史・個人的経験が作品にどう影響しているかを尋ねます。
ミンハはこれに対し、
「個人的なものが自動的に政治的になるわけではない」
「『内側から世界を知る』こと――自分の内面を掘り下げるほど社会へと開かれていくような知り方が重要だ」
と答えます。
彼女は、自らの家族が**三つの異なる政治的立場(北ベトナムに残った家族、サイゴンへ移った家族、南部解放戦線に関わった家族)**に分断されつつも、「互いを深く愛していた」という経験を語り、ベトナムの現実は冷戦的な「親米/親ソ」「反共/親共」といった二分法では捉えきれないと強調します。
ここから、「個人史を語ること」は、単なる自分語りに閉じるのでも、政治的レッテルに還元されるのでもなく、個人と社会のあいだを往復する試みとして慎重に構成されるべきだというスタンスが示されます。
2. ハイブリッドな位置取りと教育歴
ミンハは、自身がアフリカについて撮る/書くことをめぐる「第三世界内部のまなざし」の違和感にも触れます。アジア人であり第三世界の出身者である自分が、西洋ではなくアフリカについて語ることに対して、「自分たちのことだけをやっていればいいのに」という居心地の悪さや批判が生じる、と。
また、彼女は教育歴を振り返ります。
ベトナム戦争期に米国オハイオ州の小さな大学へ留学
アフリカ系アメリカ人作家や国際学生コミュニティとの出会いから、アフリカ文化への関心を深める
イリノイ大学でフランス文学・音楽・比較文学を学び、その後フランスへ渡り、パリでベトナム人音楽学者トラン・ヴァン・ケーから民族音楽学を学ぶ
彼女は、自身の教育経験が**「出自の文化でも、米国メインストリームでもない“第三の場”での遭遇から成り立っている」**ことを強調し、それが作品における「内/外」「第三世界/第一世界」という単純な区分を崩す基盤になっていると語ります。
3. 人類学批判と「境界で仕事をする」こと
チェンが、ポスト構造主義的な人類学者たちの自己反省(reflexivity)や多声性(multivocality)への関心をどう見ているか尋ねると、ミンハは「人類学はあくまで議論の場のひとつにすぎない」と前置きしたうえで、次のように述べます。
自身の批判は、人類学者だけでなく、宣教師・平和部隊ボランティア・観光客・そして自分自身のまなざしにも向けられている(『Reassemblage』を例に)。
重要なのは、「学問としての人類学をよりよいものにする」ための自己批判に終わるのではなく、「人類学という制度そのものが成り立たなくなる境界」で仕事をすることだ。
多声性(multivocality)についても、ただ異なる声を並列するだけでは、「多文化主義」と同様、結果的に**「誰の声でもない」溶けた均質性**を生んでしまう危険があると警告します。
彼女が目指すのは、境界を固定せず、つねに組み替えられる場所としての多声性――つまり、「ここからあそこへ行き、また戻って来られる」ような運動としての実践です。
4. 詩的言語と映画:ステレオタイプから逃れるために
ミンハは自身の映画の制作プロセスを、音楽の作曲や詩作に近いものとして語ります。
画像・音声・沈黙は単なる「メッセージを運ぶ器」ではなく、それぞれ固有のリズムと意味を持つ要素であり、**映画内の世界を構成する「生きた存在」**である。
彼女が言う「詩的言語」とは、感傷的な「ポエム」ではなく、意味が一義的に固定されることを拒み、話し手の主体性や合理化のフィクションを揺るがす言語である。
ここで参照されるのがローラン・バルトの「詩的の反対は『散文的』ではなく『ステレオタイプ』だ」という言葉です。ステレオタイプとは「間違い」ではなく、変化し続ける現実を一時停止させてしまう表象であり、ドキュメンタリーや写真が陥りやすい罠とされます。
『Surname Viet, Given Name Nam』では、インタビューの言葉が翻訳・再演・歌唱などとして反復され、「何が本当の声なのか」が揺らぐ構造をとることで、言語の支配性と、女性たちの発話の困難さを可視化しようとします。
5. 「近傍で語る(speaking nearby)」とヴォイド(Void)
チェンが「about ではなく nearby に語る」とはどういうことかと問うと、ミンハはこう説明します。
「近傍で語る」とは、対象を客体化して“あそこにあるもの”として語らない声。
それは対象に非常に近づきながらも、それを完全に掴み取ったり、所有したりしない。
作品のなかで、言葉・イメージ・音楽・沈黙のすべてのレベルで実践される**「生の態度」**である。
この姿勢と関わるのが、「ヴォイド(Void/空)」の概念です。
「ヴォイド」が単なる「欠如」「空っぽ」として理解されると、人々は不安にかられ、空白を埋めようと“情報”や“物語”で隙間なく埋め尽くそうとする。
しかし彼女が重視するのは、「否定」とは異なる**「ラディカルな否定性(radical negativity)」としてのヴォイド**であり、そこでは意味づけが一時停止されることで、現実が再び立ち上がる余地が生まれる。
『Shoot for the Contents』では、中国という主題をめぐり、以下のような構造が組まれます。
冒頭で「中国を眺めるあらゆる視線はすでに問いで満ちている」と述べつつ、すぐに「それは本当だろうか?」と自ら問い返す。
毛沢東の「百花斉放」を導入部として、中国各地の異なる風景を連続させ、多様性とヘテロ性を示しつつ、後半では地域ごとの差異を政治的・感覚的に浮かび上がらせる。
二人の女性ナレーターが、詩的・比喩的な声と、論理的・政治的な声を交差させ、そのあいだをインタビューや歌が縫い直していく。
ここでの「ヴォイド」は、「中国は謎めいた、理解不能な他者」というステレオタイプを再生産するための「神秘」ではなく、固定化されたイメージを揺るがし続けるための余白として構想されています。
6. 観客を「つくる」こととインディペンデント映画
終盤で話題は「観客(audience)」へ移ります。
ミンハは、マーケティング用語としての「マスオーディエンス」を批判し、それが人々を「考えない大衆」として前提し、その前提に合わせて作品を均質化していく構図を問題視します。
1960年代の「誰のために書くか?」という問いは重要だったが、いまやそれがマーケティングとターゲティングの言語に吸収されてしまっているとも指摘。
そのうえで、インディペンデント映画(独立映画)の条件として、
映画は完成した瞬間に終わるのではなく、上映と観客との対話を通じて「第二の制作過程」が始まること
作り手は資金調達・配給・トークなどにも主体的に関わり、観客と「互いの前提を揺さぶりあう」必要があること
を挙げます。
彼女にとって映画は、「自分の意図を伝える装置」ではなく、観客に「自分自身の映画を編み直させる」ためのボトルメールであり、その意味で作り手もまた観客によって変わり続ける存在なのです。
論点整理(令和人文主義的に読んだ6つの軸)
1. 個人的なものは自動的には政治的ではない
「個人的な経験=そのまま政治的」と短絡しない。
自分の内面から社会を理解する「内側から世界を知る」実践を通じて、個人と政治の関係を都度問い直す必要がある。
→ 令和人文主義の文脈では、「当事者性」や「自分語り」と政治性を安易に結びつける言説への批判として、重要な線になります。
2. ハイブリディティと「第三世界内部のまなざし」
アジア人/第三世界出身者が、別の第三世界(アフリカ、中国)を撮ることの気まずさ。
「自分の文化だけを扱え」という暗黙の規範=周縁にいる者を“自分の場所”に閉じ込める装置への批判。
→ グローバルなレジデンスや国際写真祭における「誰が誰を撮るのか」という問題に直結。
3. 境界で仕事をする人類学/映像実践
人類学を内部から改善するための反省にとどまらず、人類学という枠組み自体を外側から揺るがすこと。
多声性は「声をたくさん並べる」ことではなく、境界を引き直し続ける動きとしての多声性が重要。
4. 詩的言語 vs ステレオタイプ
詩的言語=美しい言葉ではなく、意味を開きっぱなしにする言葉の運用。
ステレオタイプは「誤り」ではなく、「変化する現実を止める固定化」であり、ドキュメンタリー表象における最大の敵。
5. 「近傍で語る」とヴォイドの倫理
近づきすぎて対象と同一化せず、遠ざかって支配的に語ることも避ける、あいだのポジション。
ヴォイド=「意味がまだ決まりきっていない空白」として保持することにこそ、倫理と創造性がある。
6. 観客を「つくる」ことと独立映画の責任
観客は既に決まっているターゲットではなく、作品ごとに変わり続ける“まだ決まっていない他者”。
インディペンデントとは「低予算」以上に、制作〜上映〜対話まで全工程を自分の責任で引き受ける態度を指す。
用語解説(初学者向け)
「近傍で語る(speaking nearby)」
about ではなく nearby で語る、というミンハのキーワード。
対象を外在化して「彼らは〜だ」と語るのではなく、
対象のすぐそばに立ち、
自分もその場の一部として巻き込まれつつ、
しかし「自分は全てを理解して代表している」という位置を拒む
という語りの態度。
映像でいえば、説明ナレーションで“まとめない”こと、編集でわからなさや矛盾を残すことなどを含む。
「speaking about」
何か/誰かについて「語ってしまう」スタイル。
ドキュメンタリーや民族誌でよくある、「研究者/監督が、対象について権威的に解説する」語り方。
「ヴォイド(Void/空)」
西洋的二元論では「空=欠如・欠落」として恐れられ、すぐに情報や物語で埋められてしまう。
ミンハが重視するのは、意味づけがまだ確定していない開かれた空間としてのヴォイドであり、そこから新しい関係や読みが生まれる。
「ラディカルな否定性(radical negativity)」
何かを単純に否定(〜ではない)するだけでなく、すべての固定化された表象を疑い続ける態度。
中国表象や「アジア」をめぐるステレオタイプを、そのまま肯定も否定もせず、ずらし続けるための姿勢。
「多声性(multivocality)」
複数の声を作品内に並存させること。
ただ「いろんな人の声を入れました」では、「多文化主義」的な**“にぎやかなステレオタイプの寄せ集め”**に終わる危険がある。
ミンハにとっては、境界を引き直し続ける動きとしての多声性が重要。
「サード・シネマ(Third Cinema)」
1960年代以降、ラテンアメリカを中心に展開した、反植民地・反資本主義的な映画運動。
ハリウッド(第一の映画)、ヨーロッパ作家主義映画(第二の映画)に対し、第三世界の視点から権力構造を批判する。
「インディペンデント映画」
ここでは単に「商業映画の外で低予算で制作された映画」ではなく、
資金調達
制作
配給・上映
観客との対話
を包括した総体的な実践のスタイルを指す。
「unsutured(縫い閉じられていない)プロセス」
映画理論でいう「suture(縫合)」は、観客を物語に没入させる装置。
ミンハはこれに対し、編集の継ぎ目や撮影の位置を見せることで、「この映画がどうつくられているか」を観客が気づける状態を重視する。
批判分析:ミンハの強みと限界、そしてウィリアム・リンスコットへ
1. 強み:他者表象の倫理と創造性を両立させる枠組み
「近傍で語る」は、**表象の倫理(他者をどう扱うか)と表現の創造性(どう見せるか)**を同時に扱える概念です。
彼女は「透明な理解」や「客観的ドキュメント」という近代的理想を疑い、「わからなさ」「余白」「詩的言語」を通じてしか接近できない真実があると主張します。
それは、写真・映像・エスノグラフィーを「データ収集の道具」から解放し、関係をつくるパフォーマティブな行為として再定義する試みとも言えます。
令和人文主義の言葉で言い換えると、「近傍で語る」は、
他者の〈行為主体性〉を、理解で吸い尽くさずに認めるための装置
として読めます。撮る/撮られる/撮らされる/撮れてしまう――その全部が入り混じる現場で、誰がいつ語り、誰が沈黙し、何が残されるのかを丁寧にデザインする指針になります。
2. 限界・懸念点:ヴォイドのロマン化とアクセスの問題
一方で、いくつかの批判的な問いも立てられます。
難解さ・排除性
彼女自身の言語は非常に理論的・詩的で、初学者にはとっつきにくい。
「詩的言語がステレオタイプに抗する」としても、それが新たなエリート言語になってしまう危険もある。
ヴォイドのロマン化のリスク
ヴォイドを強調するあまり、具体的な歴史的暴力や制度的抑圧が相対化されてしまう可能性。
チェンが指摘したように、「アジア=謎めいた他者」というステレオタイプに再び絡め取られる危険もゼロではない。
「近傍」から見えなくなるもの
近すぎるがゆえに、構造的な視点(資本・国家・軍事・インフラなど)が見えにくくなる場面もある。
その意味で、「speaking nearby」は、マクロな分析(統計・政治経済)とどう接続されるのか、という宿題を残しています。
しかし、これらの懸念はむしろ、令和人文主義的な実践者にとっては自分の位置取りを再考する良い問いでもあります。
「わかりやすい批評」だけに寄りすぎるとステレオタイプに飲み込まれ、「難解な詩」だけに逃げると現実から浮いてしまう。そのあいだで、どのように「近傍から語るか」を模索すること自体が、このテキストの読後課題です。
3. ウィリアム・リンスコット《Open Green》を見るための3つの問い
クロージングトークに向けて、「Speaking Nearby」を踏まえた問いを3つだけ抽出すると…
あなたはどこから語っていますか?
ニュージーランド人アーティストとして、日本/東京/渋谷を撮るとき、自分をどう位置づけているか。
「観光客」「レジデンス滞在者」「環境の証人」…どんなレイヤーが重なっているか。
何を“わからないまま残そう”としましたか?
撮影・編集・展示の中で、あえて説明しなかったもの、解説しないことにした要素は何か。
それは「ヴォイド」としての余白なのか、それともまだ掘れていない課題なのか。
観客をどのように“つくる”つもりですか?
展示空間の動線や写真の配置、テキストの量によって、観客にどんな読みの自由度を渡しているのか。
観客が自分の経験/土地の記憶を持ち寄って「自分の展示」を再構成できるようにしているか。
これらの問いを「近傍で語る」というレンズと重ねることで、トークが**「作品の説明会」ではなく、「近傍から語るとは何か?」を共同で考える場**へとひらかれていくはずです。
参考文献(参考文献リスト形式)
Trinh T. Minh-ha, interviewed by Nancy N. Chen, “Speaking Nearby: A Conversation with Trinh T. Minh-ha,” Visual Anthropology Review 8(1), 1992, pp. 82–91.
Trinh T. Minh-ha, Woman, Native, Other: Writing Postcoloniality and Feminism, Indiana University Press, 1989.(ダッチアートインスティチュート)
Trinh T. Minh-ha, When the Moon Waxes Red: Representation, Gender and Cultural Politics, Routledge, 1991.(Monoskop)
Trinh T. Minh-ha, filmography: Reassemblage (1982), Surname Viet, Given Name Nam (1989), Shoot for the Contents (1991), What About China? (2021) ほか。(Women Make Movies)
“Trinh T. Minh-ha,” University of California, Berkeley / Moongift Films インタビュー。(Berkeley News)
Nancy N. Chen, Food, Medicine, and the Quest for Good Health, Columbia University Press, 2009.(Fable)
Nancy N. Chen, Faculty profile, Department of Anthropology, University of California, Santa Cruz.(キャンパスディレクトリ)
ギャラリーコンシール渋谷「Open Green ウィリアム・リンスコット」展覧会情報(バイオ・レジデンシー情報を含む)。(Gallery Conceal)
Auckland Festival of Photography, Kōwhai Residency in Yōga, Tokyo 紹介ページ(NZ 写真家向けレジデンス・プログラムの概要)。(Kōwhai Residency)
