見出し画像

今週やったこと 2026/06/13——〈緩み〉という前提を遡る

スーパーエルニーニョのせいなのか、平成のような過ごしやすい陽気が続いている。皆さまいかがお過ごしでしょうか。僕は相変わらず過集中・過緊張気味だが、気分はあげあげだ。これはひとえにClaudeさまさまなのだが、正直に言うと、この危うい上機嫌はちょっと居心地が悪い。

宮台真司ふうに言えば——上機嫌とは、システムに最適化されきった状態のことかもしれない。歯車が完璧に噛み合っているときほど、人は「いま・ここ」を感じなくなる。昨年暮れから小難しい本ばかりぶっ飛ばして読んできたが、いい加減ゆるめなくてはいけない。だから今週、自分に課した構えは一つだ。緩める。──だが後で書くように、緩みは自分で選べるとは限らなかった。

マンガ/スランプの装置が、スランプなしで作動するとき

まずはマンガ。『空挺ドラゴンズ』22巻を読了した。内容とは無関係に、今回はちょっと読後感が違う。

というのも、僕にとって『空挺ドラゴンズ』は、たいてい気持ちがスランプに落ちているときに読むマンガだった。何をやっても面白くなく、読みたい本が見つからない——そういう谷に降りるための装置。ところが今回は、谷にいないのに読んだ。気分があげあげの状態で、いつもの装置を回した。装置はちゃんと作動するのに、前提(スランプ)のほうが抜けている。その差分が、あの妙な読後感の正体だと思う。これは今週ずっと付きまとう「変異(variability)」の、いちばん小さな単位だった。

エッセイ/言葉の自動機械から降りて、詩人の言葉へ

全く畑が違うところで、エッセイ。写真を撮っている人間として最近、詩人の言葉にひかれている。いい機会なので、穂村弘に手を出すことにした。キャラ被りというか、勝手に親近感を覚えていたわりに、ちゃんと読んだことがなかったのだ。説明し尽くす言葉=「言葉の自動機械」から一度降りて、言い切らない言葉のほうへ。緩めるとは、たぶんそういうことでもある。

衝動買い/〈絵と文字の両輪〉という前提を遡る

穂村弘と一緒に、また小難しい本を買ってしまった。本の読み過ぎという業の深さは、どうか許してください。

ただ、これはスルーできなかった。書店での衝動買いだったが、目利きに間違いはなかった。山本美希『その絵本にはなぜ文字がないのか 文字のない絵本の物語表現』(フィルムアート社、2026)。一読して確信した。これは写真集に応用できる。

試し読み(「はじめに」)を要約すると、論旨はこうだ。絵本は「絵」と「文字」という両輪で成り立つ——という前提自体を、この本は疑う。片方の輪(文字)を外したとき、絵だけで物語をどう立ち上げるのか。読者の「文字で正確に読みたい」という欲望(石井光恵のいう日本人の「文字信仰」)を一度括弧に入れ、文字を使わない表現が何をもたらすかを問い直す。まさに前提を遡る本だ。

そして決定的なのが註6で、本書の言う「絵」は写真を含む——写真で画面を構成する作品も「絵本」として扱う、と明記してある。つまり「絵が主体となって物語を伝える仕組み」という枠組みは、そのまま「写真が連なって物語を立ち上げる」写真集の問題系に流用できる。〈撮る/撮られる/撮らされる/撮れちゃう〉や縫合の議論と接続するなら、部分的に文字が抜ける効果を扱う第4章、同種の素材から対照的な物語が立つ第5章あたりが噛みそうだ。

撤去/システムによる、強制的な〈変異〉

同じ頃、駐輪していた自転車を、放置自転車として撤去された。そんなこんなで鷺ノ宮まで取りに行く羽目になった。全く知らない街に連れて行かれて、自転車と共に帰ってきた。

これも宮台式に言えば、なかなか味わい深い。今週の僕は「緩める」と決めていたが、これは自分で選んだ緩みではない。駐輪規制というアーキテクチャ(設計)が、損得勘定もろとも、僕を「ここではないどこか」へ強制連行した。machine variability ならぬ、system variability。だが——知らない街を歩かされること、それ自体は損得を超えた贈与でもある。撤去という排除が、見知らぬ街という外部への包摂へ、ぬるりと裏返る。緩みは、外からやってくることがある。

週末/鏡と意識体と、変異する画像

そして週末。眼鏡を撮りに行きつつ、三つの展示をはしごした。

  • エスパス ルイ・ヴィトン東京 RINA BANERJEE「You made me leave home...」。ドローイングかと思ったら立体もあって、それがすごかった。家を出させられた者の話、というのが今週の自分(撤去→知らない街)と妙に響き合う。

https://www.espacelouisvuittontokyo.com/ja/

  • GYRE SPECTRUM 2076 AD ──来たる世界の意識体。

  • GRスペース 中藤毅彦展『ENTER THE MIRROR 2026』。鏡に入れ、と言われる。撮ることは、鏡の向こうへ一回だけ行って帰ってくることだ。

つまみ読み#41/複製の時代から、〈変異〉の時代へ

そして今週の本丸。レフ・マノヴィッチが面白そうなことを言っていたので、つまみ読みした。

私たちは、ベンヤミンによる「機械による複製(mechanical reproduction)」の時代から、「機械による変異性(machine variability)」という新たな時代へと移行しつつある。

一回的なオブジェクト(アウラを持つ原作)→同一の複製→無限の変異。この三段の見取り図に、彼が『ニューメディアの言語』(2001)で「可変性」をニューメディアの五原理に数えて以来、25年かけて考えてきたことが圧縮されている。

ここで前提を遡ると、面白い亀裂が見える。ベンヤミンでは、コピーが同一だからこそ一回性が摩耗してアウラが凋落した。だがマノヴィッチの言う変異では、出力が一枚ごとに異なる。すると各生成物がふたたび一回的に見えてアウラが戻るのか、それとも、無限に湧く非‑希少な「擬似的な一回性」によってアウラが完全に溶けるのか——同じ「変異」が、復活とも消滅とも読める。〈撹乱/フェラル化/復活〉でいえば、variability はまさに価値中立な状態で、二方向どちらにも振れる。

そして遡る宛先は、たぶんベンヤミンよりフルッサーだ。技術的画像とは、装置(apparatus)がプログラムの潜在的可能性を実現したもので、「変異」はもともと装置の論理そのものだった。だとすれば生成AIは新時代の到来というより、装置=プログラムの論理がようやく字義通り目に見えただけ——「複製→変異」という断絶の物語ではなく、「装置は最初から変異機械だった」という連続の物語として書ける。写真の側に落とすなら、〈撮れちゃう〉の延長線上に variability を置ける。撮影が可能性空間からの一回の実現だったのに対し、生成では実現そのものが無限化する。そのとき写真集(=配列で物語を立てる装置)に何が起きるか。さっきの山本本と、ここで噛む。

束ねると

今週、僕を貫いていた言葉はふたつだった。**「前提を遡る」「変異」**だ。

スランプという前提を抜いて回したマンガの装置。絵と文字の両輪という前提を疑う絵本論。複製という前提から滑り出すマノヴィッチ。どれも、当たり前とされている土台のほうへ、一段ずつ降りていく作業だった。そして緩めようとしたら、システムのほうが先回りして僕を緩めてきた——自転車を撤去し、知らない街へ放り出すという、ずいぶん乱暴なやり方で。

7月9日の発表「宮台式人類学——前提を遡る思考」は、たぶんこういう日常の手触りから書かれている。上機嫌が居心地悪いのは、緩みすら最適化されてしまいそうだからだ。だからあえて、撤去された自転車で知らない街を走るくらいが、ちょうどいい。

#今週やったこと
#写真
#写真集
#穂村弘
#空挺ドラゴンズ
#絵本
#文字のない絵本
#山本美希
#フィルムアート社
#レフ・マノヴィッチ
#ニューメディアの言語
#生成AI
#メディア論
#宮台真司
#宮台式人類学
#人類学
#フルッサー
#現代アート
#中藤毅彦
#GRスペース

いいなと思ったら応援しよう!