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読書ノート|ジェフリー・バッチェン「スナップ写真――美術史と民族誌的転回」を読む(保坂のスナップ論:退屈・倫理・滅び)

はじめに——「東京を“見る”のではなく“感知する”」から、スナップのほうへ

先日、展示に訪れた Open Green(ウィリアム・リンスコットのレジデンス制作)に対して、リンスコット氏は「東京を“見る”のではなく“感知する”」と語った。見る=切り取る=作品化、ではなく、近くで、周囲で、皮膚感覚で、関係の摩擦として受け取る。そこでリンスコット氏は、トリン・T・ミンハの speaking nearby(近傍で語る) を参照したという。語る/語らないの倫理、代表する/しないの政治、その手触りが「作品論」より先に来る。

そして、ここで私の癖が露出する。写真家として、常日頃「ステートメントが大事だ」と考えてきた。その一方で、スナップ写真という領域の前に立つと、言葉が急に空転する。スナップは、あまりに多く、あまりに平凡で、あまりに退屈に見えるからである。退屈すぎて、何を語っていいかわからない。けれど、ここで私は逆に確信する——その“退屈”こそが政治であり、倫理であり、そして(私の言葉で言えば)〈滅び〉でもある

この「退屈=倫理=滅び」を支える理論装置として、ジェフリー・バッチェンの「スナップ写真――美術史と民族誌的転回」を読み直したい。


書誌情報と著者紹介(最低限)

  • Geoffrey Batchen, “Snapshots: Art History and the Ethnographic Turn,” Photographies 1(2), 2008, pp.121–142, DOI: 10.1080/17540760802284398 (Taylor & Francis Online)

  • 本稿は、(保坂の手元では)『写真の理論=Theories of Photography』(甲斐義明ほか編/訳の論集)所収の邦訳テキストとして読んだ(以下、引用はこの邦訳に拠る)。(月曜社

**Batchen(バッチェン)**は写真史・写真理論の研究者で、写真を「作品」よりもむしろ、欲望・制度・物質・記憶の絡まりとして扱う書き手だと私は理解している。代表作として Burning with Desire(写真が“発明される前”の欲望の歴史を辿る)などがある。(MIT Press)


本論の見取り図——私は「読書ノート」ではなく「スナップ論」を書きたい

ここから先、私は本稿を「未読者向け要約」に留めず、**スナップの退屈さを“読み直すための言語装置”**として使う。以下を読者として想定している。。

  • ステートメント信仰の写真家

  • 「森山以後、スナップは更新されてない」と感じるキュレーター

  • スナップの退屈さの前で語るべきものを見失っている令和人文主義者

この三者に共通する病理を、私はこう置く。
「スナップを“作品としての写真”の語彙でしか語れない」
だから退屈になる。だから更新が止まったように見える。だから言葉が空回りする。
バッチェンの「民族誌的転回」は、この癖を壊すためのハンマーである。


1. スナップ写真とは何か——「沈黙してしまった会話の片」

バッチェンは、スナップを「沈黙してしまった会話の片」「ランダムに選ばれた誰か他人の人生の視覚的残余」として立ち上げる。
ここがまず重要である。スナップは最初から「作品」ではない。

  • それは会話の残骸であり

  • 偶然選ばれた誰かの生の残余であり

  • しかも沈黙している

だから私たちは、スナップの前で「何を言えばいいかわからない」。この“わからなさ”は、鑑賞力の不足ではない。スナップ自身が、そういう形で世界に存在している。

さらにバッチェンは、スナップの奇妙な性質を、ほとんど意地悪な精度で描く。
「いつでも見つけられるのになかなか見つからない」——つまり、どこにでもあるのに、すぐ消える。
そして決定的なのが次だ。
「個人的な親密さが覗き見趣味的な推測に置き換わる」

ここで私は止まる。speaking nearby と同じ場所で止まる。
語ってはいけない、というより、語ることがそのまま覗き見=暴力に滑りやすい。だからスナップは、倫理の入口に立ってしまう。


2. 「退屈な写真」の輪郭——平凡・反復・順応主義

バッチェンは、スナップを次のようなものとして列挙する。

  • 平凡である

  • 誰でもできる

  • 繰り返しが多い

  • 順応主義的である

私はこの箇条書きを、侮辱だとは思わない。むしろ救いだと思う。
スナップが退屈なのは、撮り手の才能が足りないからではなく、スナップがそもそも共同体の手続きとして機能してきたからである。誕生日、旅行、家族、儀礼、集合写真。そこには「更新」より「反復」が要る。反復は退屈に見える。しかし反復は、共同体にとっては呼吸である。

だから私はこう言い換える。
スナップが退屈なのではない。退屈の中に、共同体と制度が詰まっている。


3. 民族誌的転回——「うまい/下手」から「どう使われるか」へ

ここで「民族誌的転回」を、私は(誤解を恐れず)次の態度として受け取る。

  • 傑作/駄作、先進/後進、うまい/下手、の序列からいったん降りる

  • 代わりに、人々が写真とどう暮らしているか、写真がどう使われているかを見る

つまり、写真を「鑑賞物」ではなく「生活の技術」として扱う視線である。
この転回がなぜ必要か。理由は単純で残酷である。
スナップが退屈すぎて、美術史の語彙では歴史が書けないからだ。

ここで私は、キュレーターの「森山以後、スナップは更新されてない」という感覚を、いったん肯定する。そう見えるのは自然である。なぜなら、その問い自体がまだ「作品史」だからだ。
しかし同時に、私は反転させる。
“スナップが更新されない”のではない。“更新の場所”を見誤っている
更新されるのは画面のスタイルではなく、むしろ——

  • 撮る/撮られる/撮らされる/撮れちゃう、の関係の結び目

  • 共有・拡散・保存の制度

  • プラットフォームの設計

  • 同意と沈黙の配置
    そのほうである。


4. デジタル化が「退屈=倫理」を前景化させた

論集の別箇所だが、バッチェンに触れながら「写真を紙の状態で見る機会は減り、過去の遺物になりつつある」「デジタル化によって、より自由にカスタマイズされ、複製され、リミックスされ得る」と整理されている。

私の言葉にするとこうだ。
スナップの“量”が極限まで増え、文脈が剥がれやすくなった。だから倫理が前景化した。

  • 「撮れちゃう」時代、スナップは撮影行為のハードルが消える

  • しかし「撮れちゃう」は「撮ってよい」ではない

  • ここで「撮らされる」が露出する(権力・関係・場の圧)

  • さらに共有・拡散で「押しつけられた沈黙」が生成される

バッチェンが言う「押しつけられた沈黙」の感触は、まさにここにある。


5. 「写真する主体」は内面ではなく、“あいだ”に立ち上がる

ここで私は、自分が繰り返し使ってきた言い方を、もう一度置く。

行為主体性は、私の内面ではなく、駆け引きと関係の“あいだ”で立ち上がる。

奥野克巳先生からの言葉

この言い方は、スナップに非常に相性がいい。なぜならスナップは「作品」よりも「関係の更新」に近いからだ。

  • スナップは、撮る側の表現の完成ではなく

  • 撮られる側の受け取りや抵抗や同意を含む

  • 共同体の手続き(祝う・記録する・共有する・保存する)である

だから、スナップの退屈さは、関係が“いつも通りに運用されている”ことの徴でもある。逆に言えば、関係が崩れるとき、スナップは急に怖くなる。覗き見、晒し、監視、炎上、そして沈黙。


6. 〈滅び〉としての民族誌的転回——絡まりをほどく技法

あなたとの対話で私は次の一句に辿り着いた。

民族誌的転回は、人間中心の写真史の絡まりをほどく“滅びの技法”でもある。

私はこれを、単なる比喩ではなく、方法論の提案として言いたい。
美術史は、写真を「作者」「作品」「様式」「運動」によって編む。その編み方は強い。だが強すぎて、スナップ(=生活の技術、共同体の手続き、反復、沈黙)をすくい上げにくい。
そこで民族誌的転回は、その“強い編み方”をいったんほどく。ほどくことは、ある意味で「滅び」だ。
だが私は、この滅びを歓迎する。ほどけたところから、別の絡まり(別の歴史の書き方)が生まれるからである。

ここで、私が参照しているのはマルチスピーシーズ人類学的な「結節点/結び目=絡まり合い」の感覚である(※詳細展開は別稿に譲るが、写真もまた、人間だけでなく、装置・環境・制度・他種的な生の配置と絡まる)。
スナップとは、その絡まり合いが、平凡な形で反復される現場である。
だから退屈なのだ。退屈であることが、すでに政治であり、倫理であり、そして——たぶん〈滅び〉でもある。


7. 森山大道の「彼岸」へ——退屈/滅び/彼岸

森山大道がスナップに対して「彼岸」という語を引き寄せる感覚は、私にはバッチェンの〈退屈〉、そして私の〈滅び〉に近い。
彼岸は、こちら側(制度・共同体・日常の手続き)から、あちら側(名づけ難い何か)を覗く言葉である。スナップが「沈黙してしまった会話の片」でありうるのなら、私たちはその沈黙の縁から、彼岸を感じてしまう。

ただし注意したい。
彼岸はロマンチックな救済ではない。むしろ「語れなさ」の輪郭である。だから speaking nearby が必要になる。語りすぎず、黙り込みすぎず、近傍で、倫理的に語る作法。


8. 私(保坂)の結論——スナップは“作品”ではなく“社会的出来事”である

私は、バッチェンを読みながら、スナップを次のように定義し直したい。

  1. スナップは「作品」ではなく「出来事」である
    沈黙・残余・偶然・親密さ・覗き見——これらが絡まって立ち上がる出来事である。

  2. スナップの退屈さは欠点ではなく、共同体の反復の徴である
    平凡・反復・順応主義——それは共同体の呼吸である。

  3. 民族誌的転回は、写真史の“書き方”をほどく滅びの技法である
    「うまい/下手」ではなく「どう使われるか」へ。そこで初めて、スナップの歴史が書ける。

  4. デジタル時代に、スナップは倫理の最前線になった
    紙の喪失、複製・リミックス、拡散、沈黙。だから「撮れちゃう」と「撮らされる」が衝突する。


参考文献リスト

  • Batchen, Geoffrey. “Snapshots: Art History and the Ethnographic Turn.” Photographies 1, no.2 (2008): 121–142. DOI: 10.1080/17540760802284398. (Taylor & Francis Online)

  • Chen, Nancy N. “Speaking Nearby: A Conversation with Trinh T. Minh-ha.” Visual Anthropology Review 8, no.1 (1992). (AnthroSource)

  • Minh-ha, Trinh T. 関連:speaking nearby 概念(インタビュー/解説) (Situated Ecologies)

  • Szarkowski, John. The Photographer’s Eye. New York: The Museum of Modern Art, 1966. (MoMA Design Store)

  • Sekula, Allan. “Dismantling Modernism, Reinventing Documentary (Notes on the Politics of Representation).” The Massachusetts Review (1978). (アメリカ研究所)

  • Krauss, Rosalind. “A Note on Photography and the Simulacral.” October 31 (Winter 1984): 49–68. (Amazon Web Services, Inc.)

  • Wall, Jeff. “‘Marks of Indifference’: Aspects of Photography in, or as, Conceptual Art.” In Reconsidering the Object of Art: 1965–1975, 1995. (Reading and Walking)

  • Batchen, Geoffrey. Burning with Desire: The Conception of Photography. Cambridge, MA: MIT Press, 1997. (MIT Press)

  • (保坂が参照した邦訳)『写真の理論=Theories of Photography』(所収「スナップ写真――美術史と民族誌的転回」ほか)。

  • 合原織部『「滅びと生きる」宮崎県椎葉村における種間関係の動態』京都大学学術出版会(※本稿では概念参照のみ)


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