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ネットで立ち読み|Jae Emerling『Photography: History and Theory』未訳

写真史と哲学の関係を読み直したくて、Jae EmerlingPhotography: History and Theoryに出会った。
流石に未訳は荷が重いので、ChatGPTとネットにある情報、インターネットアーカイブにある全文を対話しながら読んでみた。

Jae Emerling『Photography: History and Theory』読書ノート

1. 各章の要約

序論(Introduction)
写真史を理解するためには歴史的出来事と理論的言説を同時に捉える必要があると主張。写真を取り巻く「言説(discourse)」こそが写真という概念を構成するものであると強調する。


著者ジェイ・エマーレングは序論で、写真の意味や本質をめぐる議論がいまだ決着していないことを指摘し 、写真史と写真理論を統合的に扱うという独自のアプローチを提唱しています 。19世紀の発明当初から写真は理論的論争を引き起こしてきたため、写真の歴史上の出来事とそれに付随する理論的言説を同時に追うことが最良のアプローチだと主張しています 。エマーレングは「写真の歴史と理論を学ぶことは、イメージのただ中でそれらと共に書き、創造することだ」と述べ、写真そのものを思考の一形態として捉えます 。例えば彼は序論で「鳥の足跡は鳥そのものではない」と述べていますが 、これは写真が被写体の痕跡(インデックス)ではあっても**「モノそのもの」ではないことを示す比喩です。写真は現実をそのまま再現するのではなく、「かつてそこに在ったこと」を示すに過ぎず 、時間的にも知覚的にも常にずれ(タイムラグ)を含む媒体だという認識が提示されます。また序論では、写真をめぐる近代的視点(モダニズム)と批判的ポストモダニズムの対立が概観されています。1960年代以降、写真が美術館(ニューヨーク近代美術館=MoMAなど)に本格的に受容される中で、形式主義的なモダニズム写真観への批判としてポストモダニズムの写真論が台頭した経緯が説明されます  。グリーンバーグやサーカウスキーらの形式主義(写真を美術の文脈で純粋な視覚形式として扱う立場)に対し、1970~80年代の雑誌『オクトーバー』周辺の批評家たちはマルクス主義や精神分析の理論を援用しつつ、写真の社会的・制度的側面を重視する反美学(アンチ・エステティク)の立場を取ったと述べられます  。例えばアラン・セキュラは「形式主義は世界中のあらゆるイメージを単一の審美的陳列棚に集め、起源や意味・用途から切り離してしまう」と批判し 、写真を歴史的・社会的文脈に位置付けて考察する必要性を主張しました。このような写真論の展開を踏まえ、エマーレングは写真の歴史研究と理論批評を架橋する試みとして本書を位置付けています。その際、著者はジョフリー・バッチェンの研究に言及し、写真史と写真理論という二つの領域を分断せず「写真史(過去)が現在に内在し、歴史を記述する行為それ自体が権力の作用である」という視座が重要だとしています  。こうした背景から、本書は写真という「不可能なオブジェ(impossible object)」**に取り組む試みであり、編年体の通史ではなく、写真図像と言説の絡み合いを地図化(マッピング)するようなアプローチが採用されています。著者は特に「美学」と「政治・倫理」の交差面や、「理論」と「歴史」の両限界に写真を位置づけることで、写真という主題の存在論的な複雑さに迫ろうとしています 。なお本書では、美術史の文脈における芸術写真(art photography)に焦点を当てつつも、写真論の枠組み自体はスナップ写真や報道写真など他の領域も含む広がりを持つことが示唆されています  。序論の最後で著者は、読者が写真について「私たちが受け継いでいるもの(図像、語り口、理論、方法)を問い直し、それらを与件ではなく問題群として再考する」ことの重要性を強調し  、本書全体の議論の土台を築いています。

第1章:The Thing Itself(それ自体)
写真は単なる現実のコピーではなく、現実を「抽象化」する媒介物である。物自体への欲求(thing itself)とその不可能性(Derridaの言う「逃避」)を分析。
• 関連論考:ベンヤミン「写真小史(Little History of Photography)」の分析(Gloss)


第1章では、写真と現実との関係、すなわち**「写真は対象そのものと言えるのか」という根源的問題が扱われます。章タイトルの“The Thing Itself”(「物それ自体」)は、写真が写し取る現実のモチーフと写真イメージとのあいだのギャップを意識させるものです。写真史初期においては、被写体から光学的・化学的に直接に生じる写真は現実の客観的な写像(いわゆる「真の写し」)とみなされ、「自然が自ら描いた絵」と賞賛される向きもありました。しかし本章では、そのような素朴な実在論的見方に批判的な視点が提示されています。例えば19世紀の批評家シャルル・ボードレールは写真を「記録には有用だが芸術の代用品であり、現実を写し取るだけで想像力を欠く」と評しましたが、本章ではそうした写真嫌いとも言える初期批判にも触れつつ、写真の本質を再考しています。また、写真の指標性(インデックス性)にも議論が及びます。写真は対象からの物理的な痕跡(例えば光の反射)によって画像を生成するため、アメリカの記号学者パースにならい「指標(インデックス)」と呼ばれます。エマーレングは序論で述べた「鳥の足跡は鳥ではない」という比喩をこの章でも踏まえ、写真が現実の「痕跡」でこそあれ実体そのものではないことを強調します。たとえ被写体と写真に因果関係があっても、写真イメージは現実から切り取られ抽象化された別物であり、それ自体ひとつの解釈であるということです 。本章ではこの点を裏付けるため、19~20世紀初頭の写真家たちの作品や写真史上の事件が理論的視座と絡めて紹介されています。例えば、アジェが撮影した人影なき早朝のパリの街角写真は、当時の批評家に「現実のオーラを剥ぎ取った無人の風景」として捉えられ、写真が醸し出す不思議な客観性(ベンヤミンの言う「光学的無意識」)の好例となりました 。また写真が現実を記録することで生み出す記憶と時間の関係も論じられます。写真は常に「過去の一瞬の痕跡」であり現在進行形の出来事ではないため、人々が写真によって過去をどう認識するかに大きな影響を与えます 。こうした議論の延長として、写真における「オーラ」の消失**というテーマも扱われます。オーラとはウォルター・ベンヤミンが定義した概念で、本来は伝統的芸術作品が持つ一回性・不可侵性のことですが、写真や映画など複製技術によって失われるとされるものです。本章の後半にはベンヤミンのエッセイ「写真小史」(1931年)に関するグロス(Gloss)が挿入され、19世紀の写真家デイヴィッド・オクタヴィウス・ヒルや上述のアジェの写真分析を通じて、写真にオーラが宿るのか否かという問いが検討されています 。ベンヤミンは写真がもたらす芸術と現実の新たな関係性を論じ、写真によって我々の視覚経験がいかに変容したか(例えば拡大写真が肉眼で見えないディテールを暴き出すこと)を示しました。本章とベンヤミンのグロスを通じ、写真の指標性ゆえのリアリティと、そのイメージとしての恣意性という両義性が提示されます。

第2章:Frame (Matter and Metaphor)(フレーム:物質と隠喩)
写真の「フレーム(枠組み)」は物理的境界であり、同時に象徴的な境界である。写真がいかに構成され意味を与えられるかを議論する。
• 関連論考:ロラン・バルト「イメージの修辞学(Rhetoric of the Image)」の分析(Gloss)


第2章では「フレーム(枠)」の問題が取り上げられます。「Frame」とは写真に写る像を物理的に区切る枠組みであると同時に、写真イメージを解釈する文脈(コンテクスト)の枠組みを指す隠喩でもあります 。エマーレングはまず写真というメディアの物質的側面に目を向けます。フィルムや印画紙に定着された写真は現実の一部を矩形のフレーム内に固定しますが、このときフレームの内と外で何が写り、何が写らないかという選択が行われています。写真家は構図を決め被写体をフレーミングしますが、それによって像の意味は大きく変わり得ます。例えば同じ風景でも、カメラを向ける角度や切り取り方によって強調される要素が変わり、観者の受け取る印象も異なります。また、現像・プリントなど物質的プロセスやプリントのサイズ・展示方法といった要素も、写真イメージの解釈に影響を与える「枠組み」として機能します。こうした写真のマテリアルな条件を「フレームの物質(matter)」の側面として整理しつつ、著者は同時にフレームのメタファー(隠喩)としての側面を論じます。それは写真を見る際に我々が依拠する文化的・社会的文脈という枠組みです。写真は決して「裸のイメージ」単体で意味を発するわけではなく、必ず見る者の知識や展示文脈、キャプション(説明文)などによって解釈が方向付けられることが強調されます 。たとえば1955年の有名な写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン」では、世界各地の人々の写真が人類普遍の家族愛を讃えるような文脈で提示されました。しかしロラン・バルトをはじめ多くの批評家が指摘したように、写真イメージは文脈から切り離されて存在することはなく、あの展示も実は特定のイデオロギー的「読み」を観客に押し付ける枠組みがあったのです。「裸の写真イメージなどというものは存在せず、いかなる写真も何らかの言説的枠組みの中に位置付けられている」というのがエマーレングの立場です。この章では、そうした視点から写真史における様々なフレーミングの実例が検討されます。報道写真が新聞や雑誌レイアウトの中でどのように意味づけられるか、美術館の壁に飾られた写真は周囲の作品や解説パネルによって鑑賞者にどう読まれるか、といった具合です。さらに、写真そのものを主題化したメタ写真的な作品も紹介されます。たとえば、リー・フリードランダーの一連の作品には鏡やガラス越しに写る自分自身やカメラの影が写り込んだものがあり、これらは写真行為のフレーム(構図や撮影行為それ自体)を可視化する試みといえます。またシンディ・シャーマンの〈映画の一場面〉シリーズは架空の映画のワンシーン風のセルフポートレートですが、映画という他媒体のフレームを借用することで写真の読みを複雑にしています。このように本章では、写真におけるフレーム(枠組み)が単なる画面の縁取りではなく意味生成の装置であることが示されます。章末にはロラン・バルトの論文「イメージの修辞学」(1964年)からの引用と解説がグロスとして差し挟まれ、写真図像(とりわけ広告写真)がいかに記号的・象徴的な意味を伝達するかが分析されます 。バルトはイメージにおける明示的なメッセージと暗示的なメッセージの層を区別し、写真を見る行為には常に文化的コードの解読が伴うことを論じました。このバルトの考察を踏まえつつ、エマーレングは写真のフレームが持つ多層的な意味作用を読者に提示しています。

第3章:Documentary, or Instants of Truth(ドキュメンタリー:真実の瞬間)
写真のドキュメンタリー性を探究。ドキュメンタリー写真が真実をどのように「演出」するかを批判的に分析。
• 関連論考:スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』の分析(Gloss)


第3章のテーマはドキュメンタリー写真です。著者は冒頭で「ドキュメンタリー写真とは何か」を問う難しさに触れています  。ドキュメンタリーは一般に「客観的・ありのままに現実を記録する写真」と理解されがちですが、それ自体が一種の作られたカテゴリーであり、時代や文脈によって意味が揺れ動く概念です 。本章ではまず、20世紀前半に発達したドキュメンタリー写真の歴史が概観されます。ルイス・ハインによる社会改良のための記録写真、ウォーカー・エヴァンスらが参与したFSAプロジェクト(1930年代アメリカ農業保障局の報告写真)など、社会的弱者の実情を伝える写真は「写真が真実を暴露し社会を変革し得る」という信念に基づいて撮られました。またアンリ・カルティエ=ブレッソンが提唱した「決定的瞬間」の美学(現実の真実が最も象徴的に現れる一瞬を捉えること)も紹介されます。しかしエマーレングは、ドキュメンタリー写真が知識(記録・証拠)と情動(感情的訴え)の交差点に立つ複雑な領域であり、一義的に定義できないことを強調します  。ドキュメンタリー写真は一見客観的な事実の記録に思えても、実際には撮影者の主観や社会的な語り口(レトリック)が入り込み、見る者にある種の感情や倫理的反応を引き起こすものです 。著者はこの「知と情の絡み合い」こそがドキュメンタリー写真の本質であり、それゆえ常に論争の的になってきたと述べます。例えば、ダイアン・アーバスの写真(ニューヨークの周縁的な人々を写した作品群)は、被写体のありのままの姿を写したドキュメントであると同時に、見る者に不安や良心の呵責をもたらしうる強いイメージです。彼女の作品は「被写体を搾取しているのではないか」「異質なものを voyeuristic(覗き趣味的)に消費させている」といった倫理的議論も巻き起こしました。このようにドキュメンタリー写真は美学(イメージの構成や美的魅力)と倫理(被写体との関係性や社会的影響)が切り離せない領域です。本章では、そうした美学・倫理両面の問題が具体例とともに検討されます。著者は「ドキュメンタリー写真は常に美的であり倫理的な回路(circuit)である」と述べ、この二つの側面は分かち難く結びついていると指摘します  。また、「写真には何の補助線(文脈説明)もなく裸で意味を発するものなど存在しない」ことを示すため、『ザ・ファミリー・オブ・マン』展への批評も引かれています。1955年にエドワード・スタイケンが企画したこの展示は、人類普遍の物語として世界中の写真を並べましたが、ロラン・バルトは有名な批評「世界の家族(The Great Family of Man)」でそのイデオロギー性を暴露しました。エマーレングもこの事例を挙げ、写真は配置やキャプション如何で意味が操作され得ること、すなわちイメージと言説(語られ方)は不可分であることを強調します。さらに本章では、ドキュメンタリー写真に内在する権力関係にも目配りされています。ジョン・タグが論じたように、写真は19世紀以来、警察や医学、人類学などで「記録と分類」という権力の道具として機能してきました 。言い換えれば、ドキュメンタリー写真は社会的真実を暴く武器であると同時に、体制側の監視と統制にも使われうる両刃の剣なのです。章末のグロスではスーザン・ソンタグの著書『他者の苦痛へのまなざし』(2003年)から重要な論点が取り上げられます 。ソンタグは報道写真や戦争写真において、見る者(鑑賞者)が安全な立場から他者の痛みを見ることの倫理的問題を提起しました。エマーレングはソンタグの議論を参照しつつ、ドキュメンタリー写真を見る行為に伴う共感と不感、記録と衝撃**の問題を読者に問いかけます。このように第3章では、ドキュメンタリー写真の「真実」をめぐる神話を相対化し、その社会的機能と限界が多角的に論じられています。

第4章:The Archive as Producer(生産者としてのアーカイブ)
写真をアーカイブとして捉えることで、歴史と権力、社会的分類の問題を考察する。写真がいかに社会秩序やアイデンティティを規定するかを論じる。
• 関連論考:ミシェル・フーコー『知の考古学』の分析(Gloss)


第4章ではアーカイブの概念を通じて写真を考察します。アーカイブとは本来「公文書館」「記録保管所」を意味しますが、著者はそれを単なる記録の集積ではなく、知識や歴史を形作る積極的な「生産者」として捉え直します。写真は発明以来、大量に生産・蓄積されてきました。新聞社の写真資料庫、美術館の写真コレクション、政府機関の記録写真ファイル、個人のアルバムに至るまで、膨大な写真が分類・保管され、必要に応じ引き出されて利用されています。このような写真のアーカイブ化は中立的な行為ではなく、何を保存し何を捨てるかという選別のプロセスであり、そこには価値判断や権力関係が介在します。本章では哲学者ミシェル・フーコーの「アーカイブ」概念が参考にされています 。フーコーにとってアーカイブとは、ある時代における知の集合体・言説の規則を指し、どのような事柄が言及され記録されるかの枠組みを決定するものです。エマーレングはこの考え方を写真に適用し、写真アーカイブが単に過去を受動的に保存するのでなく、むしろ過去の出来事の意味や社会の記憶を積極的に形作ると論じます。例えば、19世紀末のフランス人類学者アルフォンス・ベルティヨンは大量の容疑者の顔写真を系統的に収集・分類する「ベルティヨン方式」を開発し、犯罪人識別の近代的アーカイブを築きました。この事例では写真は社会統制の道具となり、「犯罪者」というカテゴリーのイメージ像を生み出す役割を果たしました。同様に、植民地支配の文脈でも被支配民族の写真が分類保存され、人種的ステレオタイプを補強する装置となりました。これらは写真アーカイブが知を生産し現実に影響を及ぼす例と言えます。また美術の分野でも、モダンアートの美術館が「写真」という新たな部門を設立し作品を体系的に収集・展示することで、「芸術写真」の歴史像を構築しました。ジョン・サーカウスキーがMoMAで行った写真コレクション編成は、その典型であり、彼の編んだ写真家群像(例えば『The Photographer’s Eye』展で提示された写真史観)は、写真の歴史的評価を規定するカノン(正典)の形成に寄与しました  。本章ではさらに、写真家自らがアーカイブの原理を作品化した例も論じられます。ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻はドイツの旧工業地帯の建造物(高炉やガスタンクなど)を分類学的に撮影し、似た構図の写真をグリッド状に配列してシリーズ作品としました。その一貫した手法はあたかも産業建造物の図鑑を編纂するかのようで、写真による私設アーカイブと言えます。彼らの作品は美術の文脈で評価され「タイポロジー(類型学)的写真術」と呼ばれますが、同時に「写真が世界をいかに分類し整理しうるか」を示す実験でもありました。著者はこうした例を挙げつつ、写真集や写真展覧会といった「編まれた写真アーカイブ」に注目します。それらは単なる写真の集まりではなく、編者の視点や理論によって秩序付けられ、新たな物語や知見を生産する場なのです。章末に置かれたグロスではフーコーの著書『知の考古学』(1969年)から着想を得て、写真と権力・知識の関係が考察されます 。エマーレングは「写真のディスクール(言説)は技術革新だけで一方的に規定されるものではない」と述べます 。例えばデジタル技術が写真にもたらした変化は大きいものの、それによって写真言説が完全に決まるわけではなく、写真をどう受容し利用するかという社会的文脈が決定的な役割を担っています  。写真アーカイブの編成・解釈も技術を越えた文化的営みであり、それゆえ写真史研究は媒体技術の分析だけでなく、その背後にある制度・思想を読む視点が不可欠だというのが著者の主張です。本章を通じ、写真アーカイブが過去を保存する受け身の容器以上に**「未来を方向付ける記憶装置」**であることが浮き彫りにされています。

第5章:Time-Images(時間=イメージ)
写真が時間性をいかに表現し操作するかを探究。写真が「時間のイメージ」として、記憶や歴史の理解にどのような影響を与えるかを分析する。
• 関連論考:ヴィレム・フルッサー『写真の哲学のために』の分析(Gloss)


最終章である第5章では写真と時間の問題が探究されます。章タイトルの「Time-Images(時間=イメージ)」は、一見すると映画理論家ジル・ドゥルーズの概念(時間イメージ)を想起させますが、エマーレングはこれを写真の文脈で再解釈しています。写真は時間を「切り取る」メディアであり、一瞬を静止画として定着させることで私たちに過去の像を提示します。従来、写真の時間性についてはロラン・バルトが『明るい部屋』で「それがかつてそこに存在した」(「それ-は-かつて-在った」)という写真の本質を喝破したように、過去形の時間――「すでに起こってしまった瞬間」――との深い結びつきが指摘されてきました。本章でも、写真を見る行為は常に「過ぎ去った瞬間」を現在に呼び戻すことだと述べられます。しかし著者はそれだけでなく、写真図像が持つ時間構造をさらに多面的に捉えようとします。写真は単に過去の痕跡ではなく、見る者の記憶や想像力を刺激し、過去‐現在‐未来を交錯させる媒介でもあります。たとえば一枚の古い写真を見るとき、私たちはその写真が撮られた当時(過去)の光景を想像すると同時に、それを見ている現在の自分の経験を重ね合わせ、さらに写っている人物の未来(その後どうなったのか)に思いを馳せることさえあります。写真イメージは時間を完全に停止させた静止画でありながら、観者の意識の中では時間的な物語性を喚起する力があるのです。著者はこのパラドックスを踏まえ、写真と時間の関係を哲学的に再検討します。その際手がかりとなるのがヴィレム・フルッサーのメディア哲学です 。フルッサーは『写真の哲学のために』(1983年)で、伝統的な線的時間(歴史)の中で語られてきた世界観が写真というテクノロジーによって変容しつつあることを論じました。写真などの「テクニカルイメージ」は、従来の文章による記述とは異なる時間性を持つ情報伝達手段であり、人類の認識を新たな次元にシフトさせると彼は言います。本章ではフルッサーの考えを参照し、写真メディアの時間構造について考察が深められます。具体的には、写真が生み出す循環する時間や反復の現象にも光が当てられます。例えば家族写真のアルバムでは、毎年同じような場面(誕生日や卒業式など)を写真に撮り蓄積していくことで、家族という単位の時間の循環が視覚化されます。また現代美術の中には過去の写真を引用・再制作する作品も多く、写真イメージが時間を越えて再生産される様が顕著に現れます。シェリ・レヴィーンが有名写真家の作品を複写して発表した作品(いわゆるアプロプリエーション・アート)などは、その一例です。そこでは1920年代の写真が1980年代に「再生」され、新たな文脈で鑑賞者に提示されます。このように写真は時間を複製し再配布する媒体でもあるのです。一方で、写真は常に「撮った瞬間には手遅れ(too late)」なものでもあります  。シャッターを切った時点で被写体の生は先へ進んでおり、写真は過去の亡霊だけを留め置くとしばしば形容されます。しかし著者は、この「常に手遅れであること」こそが写真芸術の別の時間性への扉を開くと論じます  。例えば、写真を見ることで初めて気付く細部(ベンヤミンの言う光学的無意識)や、写真から創造されるフィクションの時間(例えばジェフ・ウォールの演出写真における物語的時間)など、写真は現実の時間線から逸脱した思考のイメージ(image of thought)を生み出す可能性があると示唆しています  。章末のグロスではフルッサーの議論が参照され、写真術に内包された時間概念の変容についてさらに掘り下げられます。総じて第5章では、写真の本質を「時間」という切り口から再定義し、写真イメージがもつ時間的な遅れと反復、瞬間と永遠の二重性に知的光を当てています。

付記: 本書の巻末には**用語集(Glossary)**が設けられており、本文に登場する主要な理論家や概念、写真技法について簡潔な解説が載っています 。読者はこの用語集を参照することで、写真論に不慣れでも基本的な人名・術語を確認しながら読み進めることができます。また詳細な参考文献リストも付されており、各章で論じられたテーマに関する文献にあたることができるよう配慮されています 。そうした点でも、本書は写真の歴史と理論を学ぶ入門書・案内書として丁寧に作られています。

2. 論点整理

エマーレングが本書で提起する主な論点を整理すると、写真をめぐる以下の視座が浮かび上がります。

歴史と理論の統合的アプローチ

本書の最大の特徴は、写真史と写真理論を切り離さずに論じる統合的アプローチにあります。従来、写真史(発明から現在までの技術発達や写真家の活動の歴史)と写真理論(写真の本質や社会的意味を論じる思想)は別個に扱われることが多く、写真史の書物は事実の年代記に終始しがちで、写真論の書物は抽象的な哲学議論に偏る傾向がありました。しかしエマーレングは「写真の歴史的出来事とそれに伴う理論的言説を同時に考察すること」が洞察を深める鍵だと位置付けます 。例えば、19世紀に写真が発明されたという事実は、それによって美術の再現理念が動揺したという理論的インパクトと切り離せません。同様に、1970年代に美術館が写真を受容したことは、それまで写真を芸術の下位に見ていた価値観を覆す思想的転換と結びついています。本書では歴史上の重要な局面ごとに、その時代の批評家や理論家が写真をどう捉えたかが並行して論じられています。このアプローチによって、写真というメディアの発展は単なる技術革新の連続ではなく、「写真をどう語るか」という言説の変遷そのものが歴史を動かしてきたことが理解できます。著者は「写真そのものが歴史であり理論であり技術でありアーカイブであり記録であり真実であり時間であり知であり、そして政治的・美学的に新たな世界を生み出す方法である」と述べています 。この言葉が示すように、本書は写真を単なる図像ではなく複合的な思考装置として捉え、その歴史=理論のダイナミズムを描き出そうとしています 。ヘレン・ウェストゲーストはCAA評(美術評論誌)の中で、本書を「歴史と理論を統合することで写真に新たな洞察をもたらした好例」であると評価しています 。実際、写真史と写真理論の架橋を試みる近年の書物はまだ少なく、本書はその数少ない成功例として位置づけられます。

写真の哲学的意義の整理(視覚性・記憶・表象)
Emerlingは、写真を単なる視覚的記録以上のものとして、「哲学的思考」を促す媒体であるとしています。写真は「存在論的複雑さ(ontological complexity)」をもち、「現実」と「表象」の関係を問い直すものであると論じています。写真は美学的、倫理的、政治的な諸問題を映し出す媒介装置として機能しています。

エマーレングは写真を哲学的に捉え直す視点を随所で提示しています。その核心にあるのは「写真とは何か」「写真はいかに世界を見せ、記憶させ、表象するのか」という問いです。まず写真の視覚性(ヴィジュアリティ)について、本書は写真を我々の見る行為=視覚体験自体に変化をもたらすものとして論じます。例えばベンヤミンの「光学的無意識」という概念に触れ、写真は肉眼で捉えきれない細部や瞬間を露わにし、人間の視覚の能力と限界を拡張したと説明されます。これは写真のもつ認識論的意義とも言え、写真を通して世界を見ることが単なる受動的行為ではなく、新たな発見と知の生成を伴う行為だという視点です。また写真は記憶のメディアとしての側面も強調されます 。写真は過去の一瞬を保存し、時間を定着させる装置であるため、個人や社会の記憶形成に深く関与します 。スナップ写真から報道写真まで、写真図像は我々の記憶のイメージを規定し、ときに記憶そのものを置き換えてしまう力を持ちます。本書では、クラカウアーやソンタグといった思想家の議論を援用し、写真がもたらす記憶と忘却の問題にも触れています。さらに写真の表象(レプレゼンテーション)に関する哲学的考察も重要な論点です。写真は現実を「写す」と言われますが、その写し方は客観的中立ではなく、必ず何らかの解釈や構図の選択が介在します。写真は世界をコピーするのではなく、世界を構成し直して見せるメディアなのです。本書ではバルトの記号学やフーコーの言説理論などを参照しつつ、写真イメージのもつ表象としての恣意性や権力性を検証しています。特に第2章・第3章で論じられたように、写真には見る者を納得させる「現実らしさ」と同時に見る者をミスリードしうる構築性が同居しています。この両義性こそ写真の哲学的興味の核心である、と著者は考えています。以上のように、本書は写真の視覚性・記憶・表象について幅広い哲学的論点を整理し、写真が単なる映像以上の存在であること――私たちの現実認識や時間意識に作用する思想的な存在であることを読者に示しています 。

モダニズムとポストモダニズムとの関係の解説
Emerlingはモダニズム写真が形式主義(formalist)や媒体特有性(medium specificity)を強調しているのに対し、ポストモダニズム写真は社会的、政治的文脈や意味生成のプロセスを強調していると説明しています。ただし、単純な二項対立ではなく、両者が実際には共依存している点(Geoffrey Batchenの議論を援用)を明示しています。


本書では写真をめぐるモダニズムvsポストモダニズムの視点の違いが明確に対比されています。この対比は20世紀後半の写真論における主要な論争軸であり、エマーレングは歴史的経緯を踏まえて両者の特徴と問題点を整理しています。モダニズム的写真観とは、写真を他の芸術と同様に純粋な造形表現として評価する立場です。その代表例が美術評論家クレメント・グリーンバーグの議論や、MoMA写真部長ジョン・サーカウスキーの写真史観です  。彼らは写真の媒体固有の特質(シャープなフォーカス、細部の写実性、平面性など)に美の基準を見出し、絵画の伝統に連なる芸術媒体として写真を位置づけました  。サーカウスキーの展覧会「The Photographer’s Eye」(1964年)では、歴史上の多様な写真が「写真ならでは」の視覚的魅力(構図、光、時間など)の観点から選び出され、写真史は芸術様式の発展として語られました 。このようなモダニズムのアプローチは写真を美術館に正当に受容させる上で重要な役割を果たしましたが、同時に写真を芸術以外の文脈(報道、科学、家族アルバム等)から切り離し、美的価値に還元し過ぎるという批判も招きました  。そこで台頭したのがポストモダニズムの写真観です。1970年代以降、ダグラス・クリンプリやロザリンド・クラウスら**『オクトーバー』誌周辺の批評家は、モダニズムが排除してきたダダやシュルレアリスムの実験的写真、広告や報道写真などの雑多な視覚文化にも光を当て、写真を取り巻く社会的・政治的力学を解明しようとしました  。彼ら批判的ポストモダンの立場は、「写真を純粋な美学の対象とみなすこと」を拒否し、代わりに写真を媒介としたイデオロギーや権力の作用を読み解くことに力点を置きました 。たとえば彼らは、写真が美術館やギャラリーといった制度に組み込まれる過程そのものを批判的に検証し、写真作品が鑑賞者に与える意味は展示環境やテキストによって規定されることを強調しました。また複製や盗用などポストモダン美術の手法を通じて、「写真におけるオリジナリティ神話」を解体する試みも支持されました。以上のモダニズムvsポストモダニズムの対立構図について、本書は単に両者を対比するに留まらず、その先の地平を模索しています。著者はモダニズムとポストモダニズムがしばしば単純な二項対立として語られることに注意を促し、実際には写真を理解するために美学的分析と社会的分析の双方が必要であることを示唆します。ポストモダンの批評家たちが提示した問題意識(写真と権力、写真と言説の関係など)は、モダニズム写真観の盲点を突くもので大きな意義がありました。しかしエマーレングは、ポストモダニズムが反美学(anti-aesthetic)を叫ぶあまり写真イメージの持つ視覚的な魅力や訴求力まで否定してしまう傾向があったとも指摘します  。事実、1980年代以降の写真芸術において美学的関心を復権させようとする動きも現れました。著者はこうした流れを踏まえ、写真の「美学」と「政治・倫理」**という二つの次元は相互排他的ではなく、むしろ両者を架橋する視点こそが現代の写真論には必要だと論じています 。言い換えれば、モダニズムが強調した写真の視覚的本質と、ポストモダニズムが暴露した写真の制度的/社会的機能、その両方を包含する総合的な写真観が求められているということです。エマーレング自身、序論で「不可能なオブジェ」としての写真を見る枠組みを提案していますが、それは単純な二元論では捉えきれない写真の複雑さを引き受ける姿勢といえます。本書はこのようにモダニズムとポストモダニズムの成果と限界を整理し、その対立を乗り越えるための思考の補助線を引いている点でも意義深いものです  。

技術・メディア論的視点(写真技術と媒体性)
メディア論やメディア考古学的な視点からの検討
Emerlingは写真をメディア論・メディア考古学的視点から捉え直しています。写真が単なる視覚媒体ではなく、「アーカイブ」や「知識生産装置」として機能し、歴史的・文化的構造を再生産し変容させる媒体であると主張します。写真は、社会的分類や統制(ベルトロンによる犯罪者測定写真など)、さらには集合的記憶や政治的歴史の形成にも関与しています。

写真を論じる上で欠かせない技術的・メディア論的視点についても、本書はバランスの取れた考察を提供しています。写真は19世紀の発明以来、銀板写真からガラス湿板、フィルム、即席写真(ポラロイド)、デジタルセンサーと技術革新を重ねてきました。こうした技術媒体としての写真の変遷は、当然ながら写真イメージのあり方に影響を与えます。しかしエマーレングは注意深く、「写真言説の変化は技術の進歩だけでは決まらない」ことを強調します  。例えばデジタルカメラの登場で写真の信憑性(画像の改竄が容易になる等)が揺らいだと言われますが、一方でそれに対抗するように「リアルな写真」への渇望が生まれたり、デジタル写真の新しい価値づけが模索されたりもしています。つまり、技術は写真文化に変化をもたらしますが、その変化の方向性を決めるのは社会や受け手のディスクール(言説)だという視点です 。本書ではフーコーの理論に倣い、「写真を見る態度や使い方」といった言説面が技術と相互作用して写真の意味を規定することが示されています  。また技術決定論的な見方(新技術が旧来の写真を完全に淘汰し写真文化を画一的に変えるという考え)に対しても懐疑的で、むしろ古い技術が新しい文脈で復活する例などにも触れられます。昨今では敢えてフィルム写真や古典技法が再評価される現象もありますが、そうしたメディア考古学的な視点(過去の媒体技術を掘り起こし現在との連続性を考察する視点)も写真研究には重要だと示唆されます。実際、本書の終盤ではフルッサーのメディア論を通じて、写真を「プログラムに従う装置」として捉える見方も紹介されています 。フルッサーによれば、写真家はカメラというブラックボックス(装置)のプログラムに規定された範囲内で像を生み出す装置の操作手(ファンクショナリー)に過ぎず、写真は人間の創造性というより装置のルールの産物だという挑発的な議論が展開されました。この見解は一面的ではありますが、写真を技術システムの観点から考える上で示唆的です。エマーレングはこうした議論も踏まえ、写真を単なる芸術作品ではなく技術媒体=メディアとして位置づける視座を提示しています。さらにメディア考古学者ジョフリー・バッチェンの研究などにも依拠しながら、写真の発明前夜から今日までの技術的欲望の系譜にも言及しています 。総じて本書のメディア論的視点は、技術至上主義や美学至上主義に偏らず、写真技術・媒体の社会文化的文脈を重視するバランスの取れたものとなっています。そのため読者は、写真を「カメラ」という機械装置と「写真を見る/使う」という人間の営みの双方から捉える大局的視野を獲得できるでしょう。

精度を高めるための補足
Emerlingは以下のように明言しています:
• 「写真はつねに歴史と言説の『中間(in the middle of)』にある」
• 「美学(aesthetics)は単なる美や趣味ではなく、批評的思考である」

3. 用語解説

本書に登場する主な理論家や概念、写真術語について、初学者向けに以下に解説します。

主な理論家・批評家
• シャルル・ボードレール(Charles Baudelaire): 19世紀フランスの詩人・美術批評家。写真黎明期に、美術と写真の関係について論じました。1859年の評論で、写真の記録能力は認めつつも、それを安易に芸術と見做す風潮を「想像力の欠如」と批判し、写真がアカデミズム芸術の手先になることを危惧しました。本書では写真に対する初期の懐疑的視点の例として彼の言説が紹介されています。
• ジークフリート・クラカウアー(Siegfried Kracauer): 20世紀前半のドイツの批評家・社会学者。1927年のエッセイ「写真」において、写真は現実の表層を無差別に写し取るが故に肝心な本質を捉え損ねると論じ、写真と記憶の関係について独自の考察を提示しました。彼は大量の写真記録が却って人間の記憶を麻痺させる可能性を指摘し、写真の意味が定まらない曖昧さを早くも論じています。本書序論の冒頭でも「写真の意味は今なお議論的だ」というクラカウアーの言葉が引用されています 。
• ウォルター・ベンヤミン(Walter Benjamin): 20世紀前半のドイツの哲学者・批評家。写真論において最も重要な思想家の一人です。1931年の「写真小史」では写真技術の発展が芸術にもたらす影響を論じ、「オーラ」(芸術作品の唯一無二性)の喪失と、写真がもたらす新たな視覚経験(光学的無意識)について述べました。また1936年の「複製技術時代の芸術作品」では、写真や映画が伝統的芸術概念を変容させ、大衆文化と政治に新たな地平を開くと論じています。本書では第1章でベンヤミンの議論がグロスとして取り上げられ、写真のもつ現実暴露の力と芸術的価値の変質について考察する際に参照されています。
• ロラン・バルト(Roland Barthes): 20世紀フランスの記号学者・批評家。写真について二つの重要な著作を残しました。ひとつは1964年の論文「イメージの修辞学」で、これは広告写真を題材にイメージの記号論的分析を行ったものです。写真には直接的なメッセージ(デノテーション)と文化的文脈に依存する暗示的メッセージ(コノテーション)があることを解説し、写真読み解きのモデルを提示しました 。もうひとつは1980年刊の著書『明るい部屋』(Camera Lucida)で、ここでは写真を見ることの本質をスタディウム(文化的関心)とプンクトゥム(刺すような個人的衝撃)という概念で説明し、写真と死(時間性)について内省的に論じています。本書『Photography: History and Theory』では、前者の「イメージの修辞学」が第2章グロスで扱われ、写真の意味生成のメカニズムを考察する土台として用いられます。また序論などで後者『明るい部屋』からの引用もあり、写真の本質に関するバルトの洞察(例えば「それ-は-かつて-在った」)が参照されています 。
• スーザン・ソンタグ(Susan Sontag): 20世紀後半アメリカの評論家・作家。1977年の『写真について』(On Photography)および2003年の『他者の苦痛へのまなざし』(Regarding the Pain of Others)で写真論を展開しました。前者では写真が現実を所有する手段となり、人々が世界を消費する形態を決定づけていると批判的に論じています。後者では特に戦争や災害の写真に焦点を当て、見る者が他者の苦痛に対して陥りがちな麻痺や、逆に感傷的反応について深く考察しました。ソンタグは写真の持つ倫理的問題(被写体の尊厳や写真を見る行為の暴力性)を鋭く問い、写真と権力・良心の関係を探った点で重要です。本書では第3章グロスで『他者の苦痛へのまなざし』が扱われ、残虐な写真を見る行為の意味や限界についてソンタグの議論が紹介・検討されています 。
• クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg): 20世紀アメリカの著名な美術批評家。モダニズム芸術を擁護し、芸術の媒体純粋性を主張したことで知られます。写真そのものを専門的に論じたわけではありませんが、彼の影響を受けた写真評論家(例えばサーカウスキー)が**フォーマリズム(形式主義)**の立場で写真史を語る基盤を提供しました。グリーンバーグは各芸術はそれぞれ独自の媒体特性(絵画なら平面性と絵具、彫刻なら立体性等)を追求すべきと説き、写真についても写真的な質(鮮鋭な細部再現や瞬間性)が評価軸とみなされる風潮を助長しました。本書ではグリーンバーグの理論が写真界に与えた影響(特に1960年代MoMAでの写真受容)について触れられています  。
• ジョン・サーカウスキー(John Szarkowski): 20世紀アメリカのキュレーター・写真評論家。1962年から1991年までニューヨーク近代美術館(MoMA)写真部の主任として数多くの写真展を企画し、写真史に大きな足跡を残しました。著書『The Photographer’s Eye』(1966年)は写真表現を5つの要素(「物そのもの」「細部」「フレーム」「時間」「視点」)から分析した名著で、本書『Photography: History and Theory』の章タイトル(第1章「The Thing Itself」や第2章「Frame」)にもサーカウスキーの影響が感じられます。彼は写真の芸術的価値を広め、モダニズム的写真観を一般化しました。エマーレングはサーカウスキーの功績を評価しつつも、その視点が排除したもの(社会的文脈や政治性)についても補完的に論じています  。
• アラン・セキュラ(Allan Sekula): 20~21世紀アメリカの写真家・理論家。1970年代以降、写真の社会的機能や権力構造を批判的に分析した文章で知られます。代表的論考「写真の発明(発見)をめぐる考察」(1975)や「写真の交通整理」(“The Traffic in Photographs”, 1981)、「モダニズムの解体とドキュメンタリーの再発明」(1978)などで、写真が資本主義社会におけるイデオロギー装置として機能してきた歴史を解明しました。特にセキュラは、写真の文脈(キャプションや用途)の重要性を訴え、「意味づけされない裸の写真」など存在しないと主張しました 。また彼自身も社会的テーマを扱う写真家として作品を発表しつつ、伝統的報道写真の問題点を内部から批判しました。本書ではセキュラの理論が第3章・第4章あたりで頻繁に参照され、形式主義への批判やアーカイブ論の文脈で彼の言葉が引用されています 。例えばセキュラの「形式主義は世界中の写真を美の名の下に文脈から切り離してしまう」という指摘は、モダニズム批判の要約として紹介されています 。
• ジョン・タグ(John Tagg): 20~21世紀イギリス生まれの写真史家・理論家。著書『表象の担い手たち:写真と社会の権力』(1988年、原題 The Burden of Representation)で、写真を権力の文脈で分析した先駆的研究を行いました。タグはフォーコーナー(Foucault)の理論を援用し、19世紀以来の身分証明写真や刑務所写真、医療写真などが**「真実」を装った権力の道具**として機能してきたことを明らかにしました。彼によれば、写真にはそれ自体の内部に本質的意味があるのではなく、それを利用する制度(警察、教育、メディア等)の権力関係の中で意味が与えられるのです。本書でもタグの議論は、第3章や第4章で写真と権力の関係を論じる際に参照されています 。特に「写真は現実の客観的記録という顔をしながら実は体制の言説を支えている」というタグの視点は、本書の批判的姿勢とも響き合っています。
• ロザリンド・クラウス(Rosalind Krauss): 20~21世紀アメリカの美術批評家。『オクトーバー』誌の共同創設者の一人であり、ポストモダンの美術理論を牽引しました。写真については1970年代から積極的に評論を行い、「写真とシュルレアリスム」に関する論考や「ポストメディウム状況」に関する議論で知られます。クラウスは1977年のエッセイ「視覚的無意識としての写真」(後に『オクトーバー』誌に所収)で、シュルレアリストたちの写真実験に着目し、写真が人間の無意識を写し出す特性を論じました。また1980年代には写真の指標(インデックス)性に注目し、美術における写真の位置づけを理論化しました。彼女の指標概念の応用は、写真が現実との機械的な繋がり(痕跡性)ゆえに他のイメージとは異なる力を持つというもので、ポストモダン美術で写真イメージが多用されたことを支える理論の一つでした。本書ではクラウス自身の言及はそれほど詳しくありませんが、オクトーバー派の代表的存在として彼女の視点(アンチ・フォーマリズム、文化理論的分析の重視)は背景にあります。また彼女が共著した Photography Theory in Historical Perspective(2011年、邦訳『写真理論 背景と展開』未刊)なども、本書のテーマに近い研究として示唆されています。
• ヴィレム・フルッサー(Vil\u00e9m Flusser): 20世紀チェコ出身のメディア哲学者。代表作『写真の哲学のために』(Towards a Philosophy of Photography, 1983年)で写真メディアを斬新に分析しました。フルッサーは写真機(カメラ)を一種のブラックボックスと捉え、その中にプログラムされたルール(シャッター速度や絞り値の範囲など)の組み合わせが写真家の創造性を実は縛っていると指摘しました。写真家はそのプログラムの可能性空間を探索するプログラムの実行者であり、写真とはカメラという装置が生み出すテクニカルイメージだというのが彼の主張です。またフルッサーは写真が情報社会における新たな言語形態であるとも論じ、人類のコミュニケーションが線的な文章中心から図像中心へ移行しつつあると予見しました。本書では第5章グロスでフルッサーの議論が詳しく扱われ、写真のメディア論的・哲学的考察(写真と時間、写真とテクノロジーの関係など)に彼の概念が活用されています 。特に**「アパラトゥス(装置)」**という視点から写真を見るフルッサーの方法は、写真を人間中心主義から切り離して考える点で刺激的であり、本書でも写真史の見方に別角度を与えるものとして紹介されています。
• ミシェル・フーコー(Michel Foucault): 20世紀フランスの哲学者・思想家。写真について直接の言及は多くありませんが、彼の知識と権力の理論は写真研究にも大きな影響を与えました。フーコーは『知の考古学』(1969年)や『監獄の誕生』(1975年)で、近代社会における知の体系(エピステーメー)や監視装置について論じています。写真は19世紀以降、監視・管理のテクノロジーとも結びついたため、フーコーの議論は写真を分析する枠組みに応用されました。例えば刑務所や学校での監視システム、病院での患者の記録写真など、フーコー的視点で読み解けば、写真は単なる記録ではなく人間を規格化・監視する権力の一端となります。本書では第4章グロスでフーコーの「アーカイブ」概念が導入され、写真がどういう枠組みで取捨選択・保存され知となるかを考える理論的支柱となっています 。フーコーの視点を通じて、写真を言説(ディスクール)の一形態として分析することが試みられています。
• ジョフリー・バッチェン(Geoffrey Batchen): ニュージーランド出身で米国等で活躍する写真史家・理論家。著書 Burning with Desire: The Conception of Photography(1997年)は、写真発明の歴史を再検討し「写真というアイデア」がいかに19世紀の文化的欲望の中から生まれたかを論じた名著です。バッチェンは、写真の発明史を単なる技術発明物語ではなく思想史として描き、発明以前から「世界を自動記録する装置」への憧れが存在したことを明らかにしました。また彼は写真史と写真理論を統合する視点を早くから提唱した研究者でもあります。本書の序論でもバッチェンの名が挙がり、彼の仕事が「写真の歴史と理論の双方を読み解く上で不可欠」と評価されています 。エマーレング自身のアプローチもバッチェンに倣うところが大きく、歴史的事実に理論的問いを交えて論じるスタイルをとっています。

主要な概念・術語
• インデックス(Index): 元々は記号学者チャールズ・パースが定義した記号の一種で、「指し示すもの」「痕跡」を意味します。写真は被写体が発した光が感光材料に直接作用して像を結ぶため、被写体と物理的な因果関係を持つ点で典型的な「インデックス的記号」とされます。例えば煙は火の存在を指し示す痕跡(インデックス)です。同様に写真は実在の痕跡と考えられ、「指標性」や「痕跡性」と訳されます。本書ではインデックス性がしばしば議論に登場し、写真のリアリティを支える性質として扱われます。しかし同時に「鳥の足跡は鳥ではない」という比喩が示すように 、インデックスであるからといって写真が現実そのものではないことにも注意が払われます。エマーレングは写真のインデックス性を認めつつ、それに過剰な信頼を置くこと(写真=客観的事実という素朴な信念)を批判的に検討しています 。
• オーラ(Aura): ウォルター・ベンヤミンが提起した概念で、本来は伝統的芸術作品(例えば唯一無二の原画)が持つ「ここにしかない」という尊厳や雰囲気を指します。写真や映画など複製技術による芸術ではオーラが失われるとベンヤミンは述べました。写真は無限に複製可能であるため、絵画のような一品もののオーラ(由緒や権威)が希薄です。しかしベンヤミンは同時に、写真にはオーラの衰退を補って余りある**新しい視覚体験(例えば接写による異化効果)**があるとも論じました。本書第1章ではベンヤミンの「写真小史」を通じてオーラ概念が検討され、写真がもたらす芸術観の変化が考察されています。例えばアジェの写真には人が写っていないため従来の肖像写真的オーラがなく、むしろ匿名的な都市の「記憶」が漂うとベンヤミンは評しました。エマーレングもこの点に触れ、写真がオーラを失わせた側面と、新たな文化資源となった側面を整理しています。
• スタディウム / プンクトゥム(Studium / Punctum): ロラン・バルトが『明るい部屋』で用いた写真鑑賞に関する概念対です。スタディウムとはラテン語で「学び・関心」を意味し、写真を見る際にまず抱く一般的な興味や関心、文化的文脈に沿った理解を指します。一方、プンクトゥムは「点・刺し傷」を意味し、写真の中で見る者の心を不意に刺すような細部や要素を指します。プンクトゥムは主観的・偶発的なもので、見る者によって異なり、言語化しにくい衝撃として訪れます。バルトは、このスタディウムとプンクトゥムの二重構造こそ写真を見る体験の本質だと述べました。本書ではバルトの理論として直接は深追いされませんが、序論などで写真の主観的衝撃性に触れる文脈で暗にこの概念が関わっています。読者にとっては、写真が文化的に読み解ける面(スタディウム)と説明のつかない魅力や痛みを伴う面(プンクトゥム)の両面を持つことを示すキーワードとして押さえておくとよいでしょう。
• ドキュメンタリー(Documentary): 現実の出来事や社会状況をありのまま記録し伝えることを意図した写真や映画のジャンルを指します。語源的には「証拠書類」(document)に由来し、客観的事実の記録性が強調されます。しかし本書で論じられるように、ドキュメンタリー写真は単に事実を中立に写すだけでなく、撮影者の視点や社会的メッセージが込められており、一種のレトリック(修辞)として機能します 。例えば有名な報道写真は人々に強い感情や行動を喚起しますが、それは構図やタイミング、キャプションの付け方など様々な要素で「物語」が演出されているからです。本書ではドキュメンタリーの定義が歴史的に変遷してきたこと、ドキュメンタリー写真家たち(ジェイコブ・リース、ルイス・ハイン、ウォーカー・エヴァンス、ダイアン・アーバス等)の試み、そしてそれらへの批評的応答(マルタ・ロスラーやセキュラの批判など)が詳しく整理されています。ドキュメンタリーは常に「真実を伝える」使命と**「現実を切り取る」限界**との緊張関係にあり、本書はその両義性を読み解く手掛かりを与えています。
• アーカイブ(Archive): 本書では単に資料の集積ではなく、「情報・図像の集合体が意味と権力を生み出す仕組み」として論じられます。写真アーカイブは大量の写真を系統立てて保存・管理するものであり、そこには何を収集しどう分類するかという主体の意図が反映されます。エマーレングはフーコー流に、写真アーカイブを**「知の編成体」とみなし、写真が社会の記憶や歴史認識を形作る積極的役割を強調します。例えば美術館の写真コレクションは「写真芸術の歴史」という物語を構築しますし、警察の指紋・顔写真ファイルは「犯罪者」というカテゴリーの視覚的定義を生み出します。アーカイブは受け身ではなく歴史を「書き立てる」主体**なのです。本書では「アーカイブなき写真史はありえず、写真の歴史を書くこと自体がアーカイブを問い直す作業である」ことが説かれ、写真研究におけるメタ視点としてアーカイブ概念が重視されています。
• 美学 / 反美学(Aesthetics / Anti-aesthetic): 美学は芸術の美に関する原理や哲学を指します。写真における美学的視点とは、写真作品の視覚的構成や様式、美的価値に注目する見方です。モダニズム写真観は典型的に美学的視点に立ち、写真の構図・光・トーンなど形式的要素やプリントの質を評価しました。一方、1970年代以降の批評では写真に社会批判の文脈を持ち込むために、美学的価値を二次的なものとみなし時に否定する反美学の姿勢が現れました 。これは「美の追求は支配階級のイデオロギーに過ぎない」という政治的な立場から来ています。本書では、美学vs反美学の対立が写真論を活性化させた一方で、写真イメージそのものへの関心を失わせる危険も孕んだことが論じられます  。著者は写真に固有の美的体験を軽視すべきではないと述べ、むしろ美学を再定義することで政治性と両立させる道を探ります 。写真の美学を「多様な戦略や効果(affect)の集合」と捉え直し 、単なる視覚的快だけでなく思考や感情を動員する力として位置づけるのが本書の提案です。
• モダニズム / ポストモダニズム: もともと美術や文化全般の潮流を示す用語ですが、写真の文脈でも用いられます。モダニズム写真は20世紀前半を中心に、ストレートフォトグラフィ(写真的特質を活かした直接的描写)や、写真を純粋視覚芸術として追求する態度に表れています。画面の構図美やトーン、被写体の抽象性などが重視され、写真の自主性(絵画に頼らない独自性)が強調されました。ポストモダニズム写真は1970年代以降に顕著となった動向で、写真を既存の文脈から解放し、他メディアとの融合や過去の写真の引用、コンセプチュアルな試みを特徴とします。例えばシンディ・シャーマンのセルフポートレートは映画スチルの様式を借用したり、リチャード・プリンスは雑誌写真を盗用したりと、オリジナルとコピーの境界を曖昧にしました。また写真批評においても、ポストモダンは写真を社会的テキストとみなし、権力構造やジェンダー、記号論的読みを重視しました。本書では、このモダニズム対ポストモダニズムの構図が写真史にどう影響したかが詳細に論じられ、単純な優劣でなく相互補完的に位置づけようという姿勢が示されています(※詳細は前節「モダニズムとポストモダニズムの写真観」を参照)。
• 視覚性(Visuality): 人間の視覚経験がどのように構成されるか、また文化によって形作られた「見ること」の様式を指す概念です。写真は視覚を媒介する技術であるため、写真の登場は視覚性に変化をもたらしました。例えば写真によって、人々は遠く離れた場所や過去の瞬間を視覚的に経験できるようになりました。また写真イメージの洪水は「見る」という行為の意味を変容させ、我々の注意力や現実感覚にも影響を及ぼしています。本書は視覚文化研究の観点から、写真が19世紀以降の視覚性を規定する一要素であることを論じています。特にベンヤミンやクラウスの議論を通じて、写真が単なる目の延長ではなく新しい視覚的無意識や観察者効果を生んだことが示唆されています。
• 光学的無意識(Optical Unconscious): ベンヤミンが「写真小史」で用いた表現で、写真技術が露わにする、人間の肉眼では気づかない世界の細部や像のことを指します。顕微鏡写真や高速シャッターの写真などは、人間には見えない瞬間や構造を映し出し、見る者に驚きと新たな理解を与えます。これが光学的無意識で、写真が我々の認識の地平を広げた例として重要です。本書第1章で言及されるアジェのパリ写真も、人がいない街並みという日常では意識しない光景を固定した点で、光学的無意識を捉えたものと解釈されます。
• 決定的瞬間(Decisive Moment): フランスの写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンが提唱した概念で、「ある出来事の本質を最もよく表す瞬間」を指します。カルティエ=ブレッソンは撮影者の直感と構図眼によって日常の中から決定的な構図の一瞬を掴み取ることを重視し、それを写真芸術の真髄としました。1952年に出版された彼の写真集の英題が The Decisive Moment です。本書第3章ではドキュメンタリー写真の文脈でこの決定的瞬間の思想が紹介され、写真の真実性に対する一つの理想として位置づけられています。一方で、エマーレングはその裏にある恣意性(無数の瞬間の中から特定の瞬間を選ぶ主観)にも目を向け、決定的瞬間という神話を鵜呑みにしない批判的態度を示しています。
• アプロプリエーション(Appropriation): 本来「横取り」「流用」を意味する言葉で、美術においては既存の図像や作品を取り込んで新作を作る手法を指します。写真の分野では1970~80年代にシンディ・シャーマンやリチャード・プリンスらが実践した、既存写真の再利用や再演が有名です。これはポストモダンの写真芸術の特徴であり、オリジナルとコピーの概念、著作権、イメージの消費社会などを批評する意図がありました。本書でも、ポストモダン写真の話題でアプロプリエーションが触れられており、写真が複製技術時代の芸術であることを自己言及的に示す手法として紹介されています。

以上、理論家および概念・術語をまとめました。用語集にはこの他にも「ニュー・ヴィジョン」「シュルレアリスム」「タイポロジー」「パパラッチ写真」など写真史・写真文化に関連する項目が含まれ、本書本文を補完しています  。読者は適宜それらも参照しながら理解を深めることができます。

4. 批判的分析

本書の意義と評価

『Photography: History and Theory』は、写真史と写真理論の橋渡しをする意欲的な試みとして高く評価されています。マークァード・スミスは「歴史と理論のあいだ (and)に着目したことで、写真そのものが一種の思考形式になっている」と述べ、歴史と理論を統合した本書のアプローチを絶賛しています 。彼はまた「写真は歴史であり理論であり技術でありアーカイブであり記録であり真実であり時間であり知であり、新たな世界を生み出す方法なのだ」という本書の主張を引用し、写真に対する包括的理解を提供する点を評価しています 。ウィリアム・ワイリーは「写真の歴史とそこから生まれた理論がいかに我々の写真芸術の経験を形作ってきたかを示す、有用でタイムリーな書物だ」と述べています 。彼によれば、本書は過去の論争を丁寧にたどり、それによって現代の写真家や鑑賞者が写真という「不可能なオブジェクト」にどう向き合うべきかを考える枠組みを提供しています 。実際、本書で整理されたモダニズムvsポストモダニズムの議論や、美学と政治をめぐる議論は、21世紀の我々が写真を見る態度に多くの示唆を与えてくれます。「写真を見るということは常に歴史と観念の寄せ集めを見ることだ」と本書は教えてくれますが 、この洞察は写真に限らず視覚文化全般に通じる重要なポイントです。クレア・ファラゴは「エマーレングは写真芸術の言説を、美学/倫理と理論/歴史という二重の敷居に立たせることで、その主題領域の存在論的複雑さに開かれた」と評価し 、本書が写真というメディアのなぜ今日重要なのかを問い直す場を提供したと述べています 。またChoice誌のレビュー(M.R.フリーマン執筆)は「視覚文化理論に関心を持つ大学院生・研究者にとって必携の一冊」とし、写真という視覚メディアの理論的節目を網羅しつつ深い分析を行っている点を「高く推奨する」と評しました 。さらにHelen WestgeestはCAAレビューにおいて「単著による写真論の書物が新たな視座と洞察をもたらし始めているが、本書はまさにそれを説得力をもって成し遂げている」とコメントしています 。以上の評価からわかるように、本書の意義は大きく二点にまとめられます。第一に、教育的価値の高さです。写真史と理論という難解になりがちな領域を統合しつつも、エマーレングの筆致は平易で読みやすく整理されています 。実例も豊富で、章間のグロスや巻末の用語集など読者への配慮も行き届いています。写真論・美学・メディア論の初学者が、写真を包括的に学ぶテキストとして最適でしょう。第二に、学術的オリジナリティです。単なる教科書のまとめではなく、著者自身の問題意識が随所に現れています。とりわけ「歴史と理論の中間に立つ」という姿勢 、「写真を不可能な対象として再考する」という視点  は、従来の写真研究に一石を投じるものです。著者自身、現代における写真の行き詰まり(例えばデジタル化による写真概念の動揺)に危機感を示しつつ、それを乗り越えるために歴史を振り返り理論を再武装する必要性を説いており、本書はその試みの成果と言えます。

本書の限界と議論点

高い評価を受ける一方で、本書にはいくつか議論の余地や限界も指摘されています。まず、本書の焦点が欧米の写真史・写真論に偏っている点は留意すべきでしょう。扱われている理論家や写真家のほとんどが欧米圏出身であり、非西洋圏の写真文化や理論には直接には触れられていません。もっとも、著者は美術史の文脈で議論を組み立てているため、ある程度フォーカスを絞った結果とも言えますが、グローバルな写真史像を求める読者には物足りなく映るかもしれません。次に、芸術写真に比重を置いているため、スナップ写真や商業写真など日常的な写真現象への言及は限定的です  。著者自身「本書は一種の美術史テキストであり、現代写真ディスクールの大部分が美術の枠内で展開してきたからだ」と断った上で芸術写真に焦点を当てています 。そのため、読者によっては「写真と社会」のより広範な問題(例えばソーシャルメディア時代の写真文化など)についても知りたいと感じるでしょう。本書執筆時の2012年はスマートフォンとSNSの普及により写真コミュニケーションが激変し始めた時期でしたが、そうした最新動向にはほぼ触れられていません。これは本書の意図する範囲外とも言えますが、写真を巡る議論がさらにアップデートされる余地でもあります。第三に、記述のスタイルについて一部で議論があります。本書は非常に包括的である反面、一冊に盛り込まれた情報量が多く、初学者には消化が難しい部分もあるという指摘があります。特に序論では専門用語や理論的言及が立て続けに登場するため、写真理論に初めて触れる読者は圧倒されるかもしれません。しかし著者は巻末のGlossaryや脚注で可能な限りサポートしており、丁寧に読み進めれば理解できるよう配慮されています。いわば高度な入門書と位置づけられるでしょう。最後に、本書が提示する統合的視座そのものが今後の議論を呼ぶ点です。歴史と理論の統合は魅力的ですが、それでもなお両者を完全に融合させることの難しさも感じられます。エマーレングは巧みに構成していますが、歴史的事実の記述と理論的分析とのあいだに時折ギャップも見え隠れします。それはある意味で、本書が「書きながら理論を創造する」という実践を試みているからとも言えます 。このアプローチは革新的ですが、読者によっては「理論のために歴史が都合よく編集されているのではないか」と映る可能性もあります。例えば取り上げる写真家・作品の選択には著者の判断が反映されていますが、それが写真史全体の代表と言えるのかは異論があり得ます(特に先述のように非西洋の写真史が含まれていない点など)。しかし、エマーレング自身も序論で断っているように  、本書はあくまで「一人の著者による写真史・理論への参加」であり、最終的な定説を示すものではありません。その意味で、本書は読者に議論への参加を促す性格の書物だと言えます。実際、Helen Westgeestが指摘するように近年は本書のような単著による新たな写真論の出版が相次ぎ、写真をめぐる視点が多様化してきています 。本書はその流れの中でも重要な一冊であり、写真史・写真論のこれからの展開に向けた土台と刺激を提供した点で大きな意義があります。

参考資料:本書の評価については、Routledge公式サイトの批評欄に主要なコメントが掲載されています    。またCAA Reviews(2013年)やChoice誌(2013年)のレビューが存在し、いずれも本書を高く評価する内容となっています。日本語ではまだ本書の紹介記事は多くありませんが、写真史・写真論に関心のある読者には是非原著に当たり、エマーレングが提示する包括的ヴィジョンを体験してみることをお勧めします。


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