文字を抜く、写真を連ねる──山本美希『その絵本にはなぜ文字がないのか』を、写真集をつくる側から読む
僕は写真家です。写真集を「どう読むか・どうつくるか・どうシリーズに編むか」を考えるための参考に、と思ってこの本を手に取りました。結果として、もっと深いところまで連れていかれました。ここでは、絵本の研究書を、写真集の側から読んだ記録を残します。専門の予備知識はいりません。順に追えるように書きます。
この本はどんな本か
『その絵本にはなぜ文字がないのか』(山本美希、フィルムアート社、2026年)は、文字を使わず、絵だけで物語を語る絵本を論じた研究書です。著者の山本美希さんは、絵本やマンガの研究者であると同時に、自身もマンガを描く「描き手」でもある。だから本書は、外から批評するというより、つくる現場の手つきで書かれています。
本書の見立てはこうです。絵本では「絵」と「文字」が表現の両輪とされ、両方が揃ってこそ絵本らしさが成り立つ、と長く考えられてきた。だとすれば、片輪である文字を欠いた絵本は座りが悪く、扱いが宙に浮いたままだった。読者の側にも抵抗がある。物語は文字で正確に読みたい、絵から文字が消えると不安になる——そういう「文字への信頼」が、とくに日本では強い。山本さんは、その「正確に読みたい」という願いを、いったん脇に置いてみせます。
私がこの本を写真集の話として読めるのには、はっきりした根拠があります。本書は注で、ここでいう「絵」は広い意味での画像を指し、写真で画面を構成した作品も同じ枠で考える、と明記している。つまり著者自身が、絵=写真を含む、と扉を開けている。私はこじつけているのではなく、本書の定義に従って読み替えているだけです。
文字を抜くのは、引き算ではない
本書がいちばん具体的になるのは、ガブリエル・バンサンの「くまのアーネストおじさん」シリーズを扱う章です。このシリーズは、全部に文字がある絵本もあれば、一部だけ文字を抜いた絵本、全編まったく文字のない絵本もある。同じシリーズの中でさえ、文字と絵の役割の重さは作品ごとに違う。
大事なのは、文字を抜けば自動的にうまくいくわけではない、という指摘です。山本さんは「わかりにくさを避けるための工夫」を四つ挙げます。ひとつ、描かれた物そのものに意味を語らせること。ふたつ、その行為がいちばんよく伝わる瞬間を選ぶこと(針と糸が見える瞬間で「縫う」を描く、というように)。みっつ、どの距離・どの角度から見せるか——山本さんはこれを「映画でいうカメラ」と説明します。よっつ、画面をいくつ、どう並べるか。
これは絵本の話ですが、ほとんどそのまま写真集の編集の道具箱になります。どの距離・どの角度で撮った一枚を、どの順で並べるか。被写体に何を語らせ、どの瞬間を選ぶか。写真集をつくる人間が日々やっていることと、同じです。
ただし、写真には絵本にないねじれがあります。絵本作家は「いちばんよく伝わる瞬間」を描いて自由につくれますが、写真家は世界の側に縛られている。狙って撮ったというより、向こうから撮れてしまった——そういう一枚が、写真にはある。その「作家が完全には選べない瞬間」こそ、写真集の固有の面白さだと私は思っています。
本書はこの章の終わりに、小説家・江國香織のバンサン評を引きます。バンサンの仕事は、物言えぬものたちの、言葉にできない揺れや記憶をすくいあげる、と。その揺れを担うのが、文字を抜いた表現なのだ、と。言葉にできない揺れ、ためらい、為したことの余韻——これらは文字を入れた瞬間に潰れてしまう。文字を抜くのは欠如ではなく、抜くことで初めて運べるものがある。本書はそう教えてくれます(同時に「文字がないから無条件に素晴らしい」という雑な持ち上げも、きちんと戒めています)。
同じ「文字がない」でも、解き方はひとつではない
次の章では、全編文字のない二冊、『アンジュール』と『たまご』が並べられます。同じ作者(モニク・マルタン)、似た判型、モノクローム、そして文字がない。共通点は多い。けれど山本さんは、そこから対照的な性格を引き出します。線で描くか、濃淡で描くか。個を描くか、群れを描くか。動くカメラのように視点を移すか、カメラを据えて固定するか。
そして決定的なのは、この対比を「優劣」ではなく「同じ課題への、角度の違う解答」として捉えるところです。文字を使わずに物語を立てる、という同じ問いに、別々の方策で答えている。解き方はひとつに限らない。これは写真集の編集にそのまま効きます。線か面か、個か群か、移動するカメラか据えるカメラか——視点の置き方しだいで、同じ素材から対照的な物語が立ち上がる。
山本さんは、二冊が文字を使わない「意義」にも踏み込みます。主役は犬であり、鳥(卵)です。「犬はこう思いました」と文字で書くこともできる。けれど犬や鳥の心の中は、本当の意味では人間には分からないはずだ。文字を入れれば、それは人間の側に引き寄せた擬人化になる。文字を抜くことで、その「分からなさ」=他者性を、他者のまま残す。二冊はそれを慎重に守っている、と読めます。これは、被写体を作家の言葉で上書きしない、という写真の倫理にも、まっすぐ通じます。
説明するのか、体験させるのか
ここで一本の補助線を引きます。福音館書店で数々の絵本を世に送った名編集者・松居直(1926–2022)の有名な言葉です。「言葉は説明するが、絵は体験させる」。
産経新聞の書評(2026年5月17日)は、本書をこの松居の言葉の現代版として読みました。文字を取り去ることは、私たちがふだん頼っている「言葉による理解」を、いったん無効にする仕掛けだ、と。読者は、説明という頼りの綱を外されることで、画面そのものに目を凝らさざるをえなくなる。
写真に移すと、こうなります。キャプションは説明する。写真は体験させる。写真集をつくるとは、どこで説明を引き、どこで体験に賭けるかを、決める作業にほかなりません。
その好例として本書が挙げるのが、ショーン・タンの『アライバル』(2006年)です。全128ページ、全編に文字のない長編絵本で、架空の国へ渡る移民を描いています。山本さんは、その緻密な画面構成を腑分けします。基本は小さな正方形を碁盤の目のように並べたグリッド。そこから、見開き一面を占める大きな絵(遠くの風景を映す)から、見開きに六十コマも並ぶ細かい絵まで、サイズを変えることで、読者の視線とテンポを操る。作品全体は、家族写真を年代順に並べたアルバムのように組まれ、文字は添えられない。
ここでの達成は、移民の戸惑いを「説明として理解する」のではなく、画面の構成そのものを通じて「体験する」ことにあります。戸惑いは、グリッドの落差や、繰り返される構図や、色調の移り変わりとして、読者の身体に直接渡される。そしてこれは、言葉を共有しない読者にも届く。文字に頼らない絵は、言語の壁を越えていく。私自身、海外の展示で、言葉の通じない相手に一枚の写真が届くのを何度も経験してきました。アライバルが移民にやっていることは、その延長線上にあります。
この点で参考になるのが、田尻歩『ドキュメンタリー写真を発明し直す』という研究書です。ドキュメンタリー写真の「リアリズム」を、事実をそのまま写すという素朴な信仰ではなく、世界についての知を立ち上げる「実践」として捉え直す系譜を辿っています。その第一章は、アラン・セクーラの仕事を「見えなくされた者たちとの連帯」として読む。アライバルが描くのは、まさに見えなくされた者=移民です。文字を抜いて、彼らの戸惑いを形式で渡すことは、対象を上から説明せず、その見えなさのまま寄り添う身ぶりになりうる。アライバルは、ドキュメンタリーを絵本の側から「発明し直した」一例だ、と私は読みました。
誰にでも届く絵と、知っている人にだけ届く絵
文字のない絵本には、もうひとつ別の極があります。本書は「赤ずきん」を題材にした文字のない絵本を、山本さんが数えた範囲で十四冊、並べて検討します。これらに共通するのは、読者がもう物語を知っている、という前提です。
だから、大胆に省ける。ある絵本は、赤ずきんの行き先(おばあさんの家)を画面に描きません。クライマックスの「おばあさんの○○はなんて大きいの」というやりとりも、文字では書かれず、絵やピクトグラムで匂わせるだけ。それでも読者が迷わないのは、誰もが筋を知っているからです。山本さんはこれを「読者の知識を前提にした表現」と呼びます。
ここで、二つの極がはっきりします。『アライバル』は、物語を知らない相手にも、言葉の通じない相手にも、形式を通じて届く——いわば越境する絵。「赤ずきん」は、すでに物語を知っている人にこそ深く届く——前提を共有する絵。同じ「文字がない」でも、向いている方向が逆なのです。
この二つの極を、写真論はずっと前に言い当てていました。ロラン・バルトは、写真を「コードなきメッセージ」と呼びました(小池隆太の整理に拠ります)。絵画や映画と違い、写真は、あらかじめ文化的な約束事を知らなくても、見ればわかる——これが越境する極です。けれど同時にバルトは、画面の構成や被写体の選び方によって、写真は含みを帯び、その読みは「読者の知識に依存する」「つねに歴史的だ」とも言う——これが前提を共有する極です。一枚の写真は、誰にでも届く面と、知る人にだけ深く届く面を、同時に抱えている。
だとすれば、キャプションは、この二つを調整するつまみです。言葉を足せば、前提を持たない読者にも含みを配れる。けれど配った瞬間、「体験」は「説明」に戻ってしまう。どこを言葉で渡し、どこを読者の知識に賭けるか。写真集の設計とは、つまるところこの綱引きです。私が歩いてきた川の連作も、土地の名や治水の歴史を知る人には前提を共有する絵として、知らない人には水と護岸の越境する絵として——両方の層を同時に持てるはずだ、と思っています。
シリーズで組む、ということ
本書を通して見えてくるのは、「文字を抜く」がゼロか百かではなく、連続したグラデーションだということです。さきほどのアーネスト・シリーズが、全部文字あり/一部だけ抜く/全編抜く、と分布していたように。
写真集に置き換えれば、これは「キャプションをどこで、どれだけ抜くか」の連続体になります。シリーズを組むとは、その連続体のどこに各冊・各章を置くかを決めること。そして、前の巻で立てた被写体や場所の手応えが、次の巻で文字を抜くための土台になる。シリーズは、読者の前提知識を巻から巻へと運ぶ器でもあるのです。一冊だけでは成り立たない省略が、積み重ねの上でなら成り立つ。これは「シリーズとして編む」という私の動機に、直接の指針をくれました。
最後に──フィールドを絵で渡す
ひとつ、別の入口を書き添えておきます。山本さんには、もう一つの最近の仕事があります。地球科学者の小口高さんとの協働で、フィールドワーク(野に出て、地形や痕跡を読む調査)を、子ども向けに絵で伝える絵本を手がけているのです(絵本『地理学者シリアへ行く』、そして2025年12月の学会発表)。
これが、私には予想以上に響きました。フィールドワークの記録は、もともと「絵が主体になって、その場を伝える」という問題だからです。本書が物語の絵本で立てた枠が、そのまま「場の記述」にずらせる。私自身、川や街道を歩いて撮りためてきた連作は、半分はもう、歩いた順に並べた記録の形をしています。
写真の側にも、これに響く先例があります。中平卓馬の写真集『植物図鑑』です(江澤健一郎の中平論と、その書評に拠ります)。ふつうの図鑑は、種を代表する「典型的な一本」を載せます。中平はその逆をやった。どこにでもある「この一本」を、序列をつけずにただ並べていく。中心が消え、写された草も、背景も、隣の一枚も、すべてが等価になる。並べることそのものが、対象を人間の言葉に回収せず、他者のまま差し出す方法になる。フィールドを絵で渡すとは、一般化された地形図(典型)を渡すことではなく、この護岸、この谷、この一本という「このもの」を、序列なく並べて、中心のない場として立ち上げることではないか——そう考えています。
ここはまだ素描です。子ども向け絵本の読者と、フィールドの記録の読者は違うし、集めすぎれば線がぼやける。学会発表の中身や絵本の現物にあたるのは、これからの宿題です。それでも、地球科学者と絵本作家が手を組んだのには、たぶん、この「絵で場を渡す」という用事があったのだと思います。
おわりに──消したあとに、何が立つか
「補助線」という言葉から、この文章は始められたはずでした。文字は、読者が物語を解くための補助線です。幾何の問題で引いた一本の線を消すと、図そのものの見え方が変わる。それと同じで、文字を一本抜くと、画面そのものが立ち上がってくる。松居直の言葉を借りれば、説明が引いて、体験が立ち上がる。
だから、文字を抜くのは引き算ではありません。消したあとに何が立つかを、設計することです。山本美希さんの本は、それを絵本の側から、しかし「絵は写真を含む」という扉を自分で開けたうえで、丁寧に腑分けしてくれました。距離とアングル、選ぶ瞬間、画面の数と並べ方、そして文字を抜くことのグラデーション。あとはこれを、自分の足で歩いた写真の上に、一枚ずつ載せ直していく作業です。
どっとはらい。
主な参考リンク
本書
・山本美希『その絵本にはなぜ文字がないのか 文字のない絵本の物語表現』フィルムアート社、2026年(ISBN 9784845925063、3,080円)
https://www.filmart.co.jp/books/978-4-8459-2506-3/
著者
・山本美希(筑波大学 TRIOS) https://trios.tsukuba.ac.jp/researcher/0000003883
本書が論じる主な作品
・ショーン・タン『アライバル』小林美幸訳、河出書房新社、2011年
・ガブリエル・バンサン『アンジュール ある犬の物語』『たまご』BL出版
・「くまのアーネストおじさん」シリーズ(ガブリエル・バンサン)
書評
・産経新聞 書評(2026年5月17日)
補助線として参照した本・論文
・松居直『絵本とは何か』日本エディタースクール出版部(ちくま文庫版あり)
・ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳、みすず書房、1985年
・小池隆太「ロラン・バルト『明るい部屋』における『写真論』の意味」『山形県立米沢女子短期大学紀要』第44号、2008年
・田尻歩『ドキュメンタリー写真を発明し直す リアリズムと集団制作の系譜』よはく舎、2025年(nyx叢書009、ISBN 9784910327228)
・江澤健一郎『中平卓馬論 来たるべき写真の極限を求めて』水声社、2021年(ISBN 9784801005402)
・永田康祐「写真を生み出す装置」東京藝術大学 博士論文
https://fm.geidai.ac.jp/wp-content/uploads/2025/04/4d528880adb7a77e867e7a17e0521be3.pdf
・大山載吉:記憶喪失者に〈なる〉こと : 江澤健一郎『中平卓馬論 来たるべき写真の極限を求めて』書評
山本×小口の協働(フィールドワーク絵本)
・小口高 文/山本美希 絵『地理学者シリアへ行く』アリス館、2025年(ISBN 9784752011378)
https://www.alicekan.com/books/9846/
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