20年前から止まったままのデジタル/銀塩論争を、いまなぜ読み直すのか
デジタル/銀塩話を久しぶりにThreadsで見かけた。
そこで広がっていたのは、どこか見覚えのある風景だった。20年前と何も変わっていない。結局、何も進んでいないのではないか。そんな感想がまず出てきた。
改めて「写真分離派」を調べたくなった。けれども古書は高く、気軽に手を出しにくい。
しかも、そこでやることはたぶん、称揚ではなくネガティブなリサーチになる。写真分離派は何を問題にし、何を主張し、何を成し遂げられなかったのか。そこを見に行く作業になるだろう。その見通しに、少し怯んでしまう。
そこ手元にある金村修「挑発する写真史」「写真批評」を調べてみると、この停滞の輪郭はかなりはっきり見えてくる。
金村は、デジタル写真を「どこまでもクリアに解析されて、物として現出してこない」ものとして捉え、その対極に、フィルムの「クリアに解析されることを拒否する物質性」を置いていた。さらに、フィルムには「抵抗してくる物」があり、「他者と出会わせてくれる」とまで言う。ここで争われているのは、単純な技術の新旧ではない。写真にとって必要な摩擦や抵抗、あるいは他者性をどこに見出すか、という問いである。
ただ、そこに僕は少し素朴さも感じる。
粒状性、ノイズ、不透明性、難制御性、他者性。これらは本来、同じではない。見た目のテクスチャの話と、制作上の制御困難の話と、哲学的な他者性の話は、ほんらい別の層にある。それにもかかわらず、それらがしばしば「物質性」という一語で束ねられてしまう。ここに、銀塩擁護の議論が強く見えながら、どこか古びても見える理由がある気がする。
つまり、20年前から何も進んでいないように見えるのは、デジタルか銀塩かという技術論争が続いているからではない。
その背後で、「写真に必要な抵抗とは何か」という問いを、ずっと言い換え続けているからだ。そしてその抵抗を、粒子やノイズのような、目に見えやすい性質に回収した瞬間、議論はまた古い場所に戻ってしまう。
だからこそ、いま改めてニューマテリアリズムを読まねばならないのだと思う。
ここでいうニューマテリアリズムは、単純な「物が大事」「物には手触りがある」という話ではない。人間だけが能動的で、物はただ受動的に扱われるだけだ、という近代的な図式そのものを問い直す立場である。物質は単なる素材ではなく、出来事を引き起こし、関係を変え、思考や政治にまで作用する。問題は、アナログ写真にノイズがあるかどうかではなく、世界がそもそも人間の意図だけでは閉じない、ということのほうにある。
ジェーン・ベネット『震える物質』が面白いのは、まさにそこだ。
ベネットは、物質を受け身の素材としてではなく、出来事を起こしうるものとして捉える。電力、ゴミ、食べ物、金属、薬品のようなものまで含めて、世界を動かしているのは人間だけではない、と考える。ここでは「他者性」は、フィルム粒子のザラつきの中だけにあるのではない。むしろ、世界そのものが人間の思い通りにならないという事実のなかにある。
さらにカレン・バラッド『宇宙の途上で出会う』まで行くと、この問いはもっと徹底される。
バラッドは、最初から主体と対象が分かれていて、人間が外から世界を観察する、という図式自体を疑う。人と物、観察するものと観察されるものは、最初から別々にあるのではなく、関係のなかでそのつど切り分けられ、立ち上がる。彼女のいう「intra-action」は、すでにある主体どうしが相互作用するというより、関係の過程そのもののなかで主体も対象も成立する、という考え方だ。
ここまで来ると、デジタルか銀塩か、という問い方自体が少し変わってくる。
大事なのは、どちらが本物らしいか、どちらに味があるかではない。写真という行為のなかで、人、装置、光、粒子、演算、被写体、制度が、どう切り分けられ、どう絡まり合い、どこで抵抗が起きているのか。その配置そのものを見直すことのほうが重要になる。
だから僕は、古いデジタル/銀塩論争をそのまま反復したいわけではない。
むしろ、その論争が何を取り逃がし続けてきたのかを見たい。その先に進むために、写真分離派を調べ直したくなるし、金村修を読み返したくなるし、ベネットやバラッドまで読まねばならない、と思うのだ。
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