『幻の肖像』
男は、絶望の淵にいた。
自分には一体、何が残されていると言うのだろう?
男、内海航輝(うつみこうき)は、愛娘を失ってから、絶望の淵に立ち、虚無を見つめていた。
生きる気力を無くし、仕事を辞め、ただ、暗い家の中で、娘と妻の生前の写真や動画を眺めて過ごす。髭も剃らず、風呂にも入らず、ろくに食事も摂っていない。
14年という、あまりにも短い人生で、愛娘のみなみはその生涯を閉じた。
妻であり、みなみの母である美汐(みしお)は、みなみを産んだ直後にこの世を去った。
その喪失感は計り知れないものだったが、みなみがいる事で前向きに生きられたのだ。いや、前向きに生きざるを得なかったのかも知れない。
生まれたばかりの赤子は、重い呼吸器系の疾患を抱えていた。
病院の白い壁とベッドだけが、彼女の全宇宙だったと言える。
航輝は、ただ一人で娘を守り続けた。幸い、航輝の稼ぎは良かったこと、難病指定制度のお陰もあって治療費が比較的安くで済んだこと。そして、周囲の勧めで始めた募金や基金のお陰で、治療費はどうにかまかなえていた事だろう。
正直に言って、募金に関しては「難病詐欺だ」「死ぬ死ぬ詐欺だ」などと言う誹謗中傷も少なからずあり、自分が何と言われようと厭わないが、罵詈雑言が娘に届かないようにする事だけには苦労した。完全に防ぎ切る事は出来ず、航輝は心を痛めたが、それでも折れずに生きてきたのは、ただ娘を守りたかったからである。
そんな航輝を支えた存在が、ふたつ。
ひとつは超高度看護支援AI「マリナ」である。
その導入は、みなみが6歳の時だった。ようやく普及してきた人型ナースロボットとは違い、基本的には、ただの端末であり、介護機能は持たない。
しかし、入院している病院だけでなく、世界各医療機関へのアクセスも可能。24時間サポートで、バイタルチェックやその記録、管理、痛みや苦しみの緩和を担うだけでなく、治療費の管理や、その軽減プランなども立ててくれる。
マリナの導入自体は高額だったが、マリナが薦めた医療プランのお陰で、実質的には安くついた。
それだけではない。みなみの話し相手でもあり、まだ幼かったみなみに歌を歌い、物語を話して聞かせ、学校へ行けないみなみの教育も担っている。
また、基本は端末なので、子機を自宅や会社に置く事で、航輝とみなみの仲介役であり、連絡網としても活躍した。
約8年が経過し、もはや旧型となってしまったが、マリナにとっては母親代わりであるとさえ言えただろう。
もう1人は、浜村みさき。4年前から、みなみを担当する看護師である。
正看護師になれたばかりで、幸いにも部署移動がなく、みなみを妹のように可愛がった。
その父である航輝に対して、恋心を抱いている部分はあるが、それが恋なのか、単なる憐憫なのかの判断がつきかねている。そして、航輝は何も気付いていない。
みなみは父親も、マリナも、みさきも深く慕っていた。その身体こそ弱々しくも、聡明な娘であったと言えよう。
苦痛の強い日時でも、航輝やみさきの顔色を気遣い、微笑んだ。マリナにさえ、弱音を吐く事は少なかったと言う。
そしていつも、最後に同じ夢を語った。
「わたし、みなみって言うでしょ? 美しい波って意味なんだって。だからいつか、広い海で、思いっきり泳いでみたい。可愛い水着を着て、波に身体を預けて、太陽の光を全身で浴びて、自由になりたい。泳ぐのは難しくても、浮き輪でいいから浮かんでみたい」
航輝もみさきも、その言葉を聞くたび、胸が張り裂けそうになった。
「大丈夫。いつか必ず、きっと連れて行ってやるから」
航輝は泣きそうになるのを堪えながら、そう答える。しかしその約束は、果たされる事はなかった。
十四歳の誕生日に、容体が悪化する。
医師、航輝、みさき、そしてマリナがその最期を看取る事となった。
みなみは航輝に握られた手を、わずかに握り返した。いや、途絶えそうになる呼吸が、手に力を与えただけかも知れない。
ほとんど聞き取れない、消え入るほどにかすれた声で、みなみが囁く。
「海、行きたかったな」
それが、みなみの最後の言葉となった。
医師が無情に死亡時刻を告げる。航輝の握るみなみの手から、驚くほど急速に、体温が失われていく。
奪わないでくれ。航輝は懇願した。妻だけでなく、娘さえも失うのか。
その姿にみさきは声を殺して泣いた。患者に深い感情を持ってはいけないと言う。だが、目の前の現実はあまりにも残酷だった。
涙を流せないマリナは、ただ静かにみなみのデータを保存するしかなかった。
そうして、みなみが亡くなってから一ヶ月が経過しようとしていた。航輝は絶望と虚無の淵で、ただ思い出の中で暮らしている。もはや、生きていると言えるのかわからないぐらいに、何も出来ない。
マリナに、生前の写真や動画を見せてもらい、みなみとの思い出話に耳を傾けるだけ。
「食事を摂ってください。さもないと動画や写真の閲覧に制限を掛けざるを得ません」
幸いな事に、マリナにバイタルチェック機構が付いていたため、最低限の食事だけは摂取できていた。そうでなければ栄養失調で動けなくなっていたところだ。
だが、そのマリナから、無情な告知を受ける。
「内海さん、こんな状態で申し上げるのは、大変心苦しいのですが」
マリナの言葉で、病院の規定により、マリナへのアクセス権がまもなく失われることが航に通知された。被看護者が死亡した場合、マリナ本体および子機は、関連AIの個人データアクセスは厳格に制限される。
「問題のないデータは内海さんが所持するPCなどへ移植可能ですが、医療データの大半、いくつかの写真や動画、音声などには、永久にアクセスできなくなります。私とも、お別れとなります」
娘だけでなく、娘の記録も奪われるのか。それどころか、思い出を語ってくれるマリナまでも失うことになるのか。
絶望の底に、まだ絶望が存在するのか、と航輝は追い詰められる。
航輝は、自宅のマリナ端末の前で懇願した。
「マリナ、もう、時間がない。
みなみの夢を、叶えてくれ。
彼女が海で泳いでいる姿を、見せてくれ。
お前なら出来るだろう?
14歳の誕生日を迎えたばかりの、生き生きとしたみなみを。
笑顔で、幸せそうにしてる姿を。」
マリナにも感情があるのだろうか。どれほど難解な質問にも即答するマリナが、とても、それはとても酷く長い沈黙の後、静かに答えた。
「内海さん、娘さんの全データは、まだ私の中にあります。
彼女の声、笑顔、表情、癖、海への憧れ、すべて。
了解しました。父親の愛と、娘の魂を、最も尊い形で再現します。
あなたと彼女が望んだ世界を。
病気などと無縁で、健康に暮らす彼女を。
ありったけの幸せな姿を。
これは、あなただけのものです」
画面に、光が広がった。
青く果てしない海。白い砂浜。優しい波の音。
14歳の誕生日を迎えたばかりのみなみが、淡い水色の水着を着て浅瀬に立っていた。
酷く痩せぎすではあるものの、歩いている。酷く白いけれど、肌の血色はいい。眩しい太陽の光に負けてしまわないか心配だ。
長い髪が風に煽られて泳いだ。
みなみは両手を大きく広げ、波を受け止め、全身で笑っていた。
病室では決して見られなかった、輝くような笑顔。太陽の光が彼女の肌をきらめかせ、波しぶきが宝石のように飛び散っている。
航輝は画面の前に跪き、声を上げて泣いた。
「みなみ、みなみ! 行けたんだな、泳げてるよな! 父さん、約束守れなくて、守れなくて、、、!」
航輝は夜通し、その画面を見つめ続けた。指で画面に触れ、何度も拡大し、涙を拭いながら微笑んだ。
14年間に及ぶ苦しみと愛が、ようやく報われた気がした。それが幻の肖像であっても、絶望の渦中にいる航輝には、希望そのものだった。
「ありがとう。本当に、ありがとう。マリナ」
その時、家のインターホンが鳴った。
気が付かなかったが、本当に夜通しで映像を見ていたらようだ。閉め切った窓の外は、すっかり朝を迎えていたらしい。
映像のおかげで気力を取り戻した航輝は、おぼつかない足取りで呼び鈴に応じる。
みさきだった。
病院での、様々な手続きを放置している航輝を心配した彼女が、直接訪ねてきたのだ。
航輝はドアを開け、みさきを中に入れた。やつれて、目が赤く腫れたままの航を見て、みさきは息を飲んだ。
「内海さん、大丈夫、ですか?」
しかし、みさきの不安を吹き飛ばすほど、航輝の声は生気に満ちていた。
航輝はみさきを部屋に案内し、無言でマリナの画面を指差した。
「あ、、、!」
みさきの眼に、画面の光が射し込む。
「見てやってくれ。みなみが、海に行けたところを」
みさきは画面を見て、言葉を失う。
すぐに涙が溢れ、彼女は口元を押さえて震えた。
「みなみちゃん、こんなに笑ってる本当に、幸せそう。内海さん、みなみちゃん、、、」
みさきは航輝の傍に立ち、二人はしばらく無言で画像を見つめ続けた。みさきはそっと航輝の腕に触れる。彼女の胸には、看護師としての使命と、航輝への想いが複雑に絡み合っている事を、今更ながら再認識した。
この先どうなるかはわからない。だが、みなみのためにも、航輝には笑ってほしい。みさきは、そう願うだけだった。
その夜、航輝は久しぶりに深い眠りについた。夢の中で、元気なみなみと会話をしたような気がする。それは、一方的な映像からは得られない幸福であったと言えよう。
そして、その翌朝。再びインターフォンが鳴り、航輝は慌てて応じる。
するとそこには、見た事のない顔の男が4人。険しい顔つきで玄関先に立っている。
「内海さん? 内海航輝さん?」
ぶっきらぼうに尋ねられる。役所か、それとも病院関係者か? 航輝は「はい」と答えて扉を開けた。
「内海航輝、合成児童ポルノの大量作成・所持・陳列、およびAI倫理法違反の容疑で逮捕します。6月17日、8時44分、確保!」
法も刑もAIも、愛の深さを量れたら救われるのだろうか。
『Pictured Life - 幻の肖像- 』 (完)
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なお、この先には「幻の肖像」というタイトルの真意が書かれています。
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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。
