京の三熊野
かれこれ20年ほど前に熊野三山を巡拝したことがあります。
後白河法皇は熊野詣に、とりわけ熱心で、御幸回数が歴代天皇の中で最多の34回を誇ります。
その熊野三山の写しが、洛中に「京の三熊野」として勧請されています。
(1) 熊野神社
弘仁2年(811年)に修験道の日圓(役小角の十世僧)が国家護持のために紀伊国熊野から熊野大神を勧請し、平安時代末期に後白河法皇(1127−1192)によって熊野から運び込まれた土や木を用いて整備されたとのこと。
主祭神は、伊佐那岐神、伊佐那美神、天照大神、速玉男尊、事解男尊
勧請元は速玉大社ということなので、御祭神に速玉男尊の名が見られます。
当然なのかもしれませんが、熊野本宮大社の主祭神である家津御子大神(素戔鳴尊と習合)とは一柱も一致していません。

拝殿の御神燈提灯に三本足の八咫烏。八咫烏は熊野三山で授与される牛王符に共通して描かれているモチーフですが、特に熊野本宮の色合いが強い象徴でもあります。

ちなみに、神武東征の際、神武は西方から大和国へ直行せず、八咫烏が道案内をして熊野に迂回したのちに北上しています。
上賀茂神社と下鴨神社では金鵄八咫烏をお祀りしていますので、道案内の最終目的地は山城国であったという繋がりが形成されているようです。
かつて、熊野神社は、300mほど東北東に位置する聖護院の鎮守社でした。
聖護院は、修験道本山派の中心寺院であり、大峰奥駈修行では吉野金峰山や熊野三山を巡拝することから熊野との関係が深いお寺さんです。

ちなみに、こちらの聖護院の行者さんたちは、祇園祭の前祭では山伏山に、後祭では役行者山に駆けつけて護摩供修法を執り行います。
(2) 新熊野神社
永暦元年(1160年)、後白河上皇の命により熊野三山の熊野権現を勧請し、熊野新宮の別宮として平清盛によって創建されています。
勧請元は本宮大社。
主祭神は熊野牟須美命(伊邪那美大神と習合)で、こちらは熊野那智大社の主祭神であり、熊野速玉大社(新宮)では熊野速玉大神とともに主祭神です。

拝殿屋根の上、軒先の上に八咫烏がみえます。
境内には、速玉大社の象徴ともいえる「梛の木」が植えられています。

(3) 熊野若王子神社
新熊野神社と同じく永暦元年(1160年)に後白河法皇が禅林寺(永観堂)の鎮守社として熊野権現を勧請しています。
主祭神は国常立神、伊佐那岐神、伊佐那美神、天照皇大神

勧請元は那智大社で、熊野那智大社の主祭神である熊野牟須美命(伊邪那美大神と習合)と祭神の一柱が一致していて、境内入口には疏水分線が流れ、西側には天龍白蛇弁財天や瀧宮神社など水にまつわる神社が鎮座し、さらに山側には千手滝不動尊があるなど、那智大社と類似点の多い点が特徴といえます。

庶民にとっては、身近でコンパクトな熊野三山です。
京都三熊野の三社は、それぞれに勧請元の熊野三山が割り当てられているのですが、実際に訪れて、それらを取り巻く環境や様式を見てみると、必ずしも「熊野神社=熊野新宮(速玉)」、「新熊野神社=熊野本宮」ではシックリこないことに気づきます。
少なくとも、新熊野神社はもともと熊野新宮(=速玉)の別宮であるとともに梛の木が植樹されていることから、新宮に割り当てられて然るべきでしょう。
となると熊野神社は本宮に割り当てられるのかというと、特にどこという色が付いている様子はなくて、熊野三山全体に呼応しているように思えます。
熊野信仰のルーツの一つと考えられる自然崇拝は15,000年以上前の縄文時代から始まっていて、約1,500年前に仏教が移入されると神仏が習合し独自の発展を遂げたようなのですが、約150年前に御祭神が上書き更新されたことで往時の御由緒がわかりにくくなってしまったようです。
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