見出し画像

短編小説142:ボタニスト アイラ ドライジン

福岡市中央区大名。夜の帳が降りた静かな路地に、「Bar near the river」の温かな灯りが灯っている。

masaが扉を開けると、カウンターの奥からオーナーのシンの声が聞こえてきた。

「レイコさん、アイラ島の蒸溜所って本当に個性的でしてね。ラガヴーリンもそうですが、島全体がウイスキーの聖地なんですよ」

カウンターに座るレイコは、いつものようにラガヴーリン16年のグラスを手に、シンの話に聞き入っていた。

「シンさん、こんばんは。レイコさんも」

masaが隣の席に腰を下ろすと、レイコが嬉しそうに振り返った。

「あ、masaさん。ちょうどよかった。今、アイラ島の話を聞いていたんです」

「アイラ島ですか。僕も大好きな場所ですよ」

シンがmasaの前にグラスを置きながら、微笑んだ。

「masaさん、今日は何になさいますか?」

「そうですね...じゃあ、いつものグレンリベット12年を」

ブルックラディ蒸溜所の物語

レイコがグラスを置いて、身を乗り出した。

「実は最近、ますますアイラ島に興味が出てきて。シンさん、ブルックラディ蒸溜所のことを教えてもらえませんか?ラガヴーリンとは違った個性があるって聞いたんですが」

「ああ、ブルックラディですか」シンが目を細めた。「あそこは本当にユニークな蒸溜所ですよ」

masaが反応した。

「ブルックラディといえば、アイラ島でノンピートのウイスキーを作っているところですよね」

「その通りです」シンが頷いた。「1881年創業の歴史ある蒸溜所なんですが、何度も閉鎖と再建を繰り返してきた。そして2001年に復活を遂げたんです」

レイコが興味深そうに尋ねた。

「復活って、どういうことですか?」

「投資家グループが買収して、伝説的なマスター・ディスティラーを迎え入れたんです。その人物こそが、ジム・マッキュワン氏。アイラ島ボウモア出身で、15歳から蒸溜所で働き始めた生粋のアイラっ子です」

シンが続けた。

「彼は単にウイスキーを復活させただけじゃない。アイラ島で100年以上途絶えていた大麦栽培まで復活させたんです」

「100年以上も?」masaが驚いた。

「そうなんです。彼は農家を一軒一軒回って説得し、アイラ島での大麦栽培を復活させた。今では使用する麦芽の40%以上がアイラ島産なんですよ。ウイスキー業界で初めて本格的に『テロワール』の概念を導入したんです」

レイコが感心した様子で言った。

「それって、ワインの世界の考え方ですよね。土地の個性を大切にする」

「まさにその通り。畑ごと、品種ごとの個性を大切にする。そして面白いのは、同じ蒸溜所で3つの異なるブランドを作っていること」

シンが指を折りながら説明した。

「ノンピートのブルックラディ、ヘビリーピーテッドのポートシャーロット、そして世界で最もピーティーなオクトモア。フェノール値が80ppm以上もあるんです」

「80ppm以上...」masaが唸った。「それは凄まじいですね」

2013年の記憶

「そういえば」masaがスマートフォンを取り出した。「ブルックラディの話を聞いて思い出しました。僕、10年以上前の2013年に、ブルックラディが作ったジンを飲んだことがあるんです」

「ジン?」レイコが驚いた声を上げた。

masaが写真を見せると、シンが目を輝かせた。

「これは...『ザ・ボタニスト』ですね!」

「そうです。確か発売されて2年くらいの頃だったと思います。東京の行きつけのバーで飲んだんですが、とても印象的なジンでした」

レイコが不思議そうに尋ねた。

「ウイスキーの蒸溜所が、どうしてジンを作るんですか?」

シンが説明を始めた。

「実は、これは戦略的な理由もあるんです。ウイスキーは蒸留してから熟成、出荷まで何年もかかる。その間、キャッシュフローが途絶えてしまう。でもジンは、作ったらすぐに出荷できる」

「なるほど」masaが頷いた。「資金繰りの問題ですね」

「そうなんです。特に新しい蒸溜所や復活したばかりの蒸溜所にとって、これは重要な戦略。でも、ブルックラディのジムは、単なる資金稼ぎだけじゃなく、本気でアイラ島のテロワールをジンで表現しようとしたんです」

ボタニストの哲学

シンがカウンターの下から、1本のボトルを取り出した。

「masaさんが飲んだ当時のボトルは手に入りませんが、これが現行のボタニスト アイラ ドライジンです」

レイコが目を輝かせた。

「わあ、素敵なボトルですね」

シンが丁寧にボトルを手に取りながら説明した。

「このジンの最大の特徴は、使用されているボタニカルです。合計31種類。そのうち22種類が、アイラ島で手摘みされた野生のボタニカルなんです」

「手摘み...」レイコが感嘆の声を漏らした。

「アップルミント、カモミール、サンザシ、ヤチヤナギ。アイラ島の大地が育んだ植物たちです。残りの9種類が、ジュニパーベリーやコリアンダーシードなどの伝統的なボタニカル」

masaが付け加えた。

「しかも、蒸留に使うのが特別なスチルなんですよね」

「よくご存じですね」シンが微笑んだ。「『アグリー・ベティ』という愛称で呼ばれる、現存する最後のローモンドスチル。ポットスチルと連続式蒸留器の特徴を併せ持つ、希少な蒸留器なんです」

シンが3つのグラスを用意し、ボタニストをストレートで注いだ。

「17時間かけて、非常にゆっくりと蒸留する。そうすることで、ボタニカルの繊細なアロマを余すところなく抽出するんです」

三人でグラスを手に取り、まず香りを確かめた。

「ジュニパーの香りがしっかりしていますね」masaが言った。

「でも、その奥に...」レイコが目を閉じた。「ハーブの優しい香りと、柑橘系のニュアンスも」

「そうです」シンが頷いた。「伝統的なドライジンのスタイルを守りながら、アイラ島の植物たちが独特の個性を加えている。まさにテロワールのジンなんです」

一口含むと、滑らかな口当たりの中に、複雑な植物のフレーバーが広がっていく。

「美味しい...」レイコが静かに言った。「これ、どんなカクテルに合うんですか?」

「マティーニやネグローニ、もちろんジントニックも。クラシックなカクテルでこそ、その真価を発揮すると言われています」

ジム・マッキュワンの遺産

masaがグラスを置きながら、感慨深げに言った。

「このボタニストが発売されたのは2011年。ジムはそれから4年後の2015年に引退したんですよね」

「ええ」シンが頷いた。「でも引退後も、新しく設立されたアードナホー蒸溜所の統括責任者として活躍されています。そして2023年には、その功績が認められて英国政府からMBE、大英帝国勲章を授与されました」

「勲章まで...」レイコが驚いた。

「それだけの功績があるんです。閉鎖していた蒸溜所を世界的なブランドに育て上げ、オクトモアやボタニストといった革新的な製品を生み出し、アイラ島の大麦栽培を復活させ、ウイスキー業界にテロワールの概念を定着させた」

シンが続けた。

「面白いのは、ブルックラディが2012年からレミー・コアントローという大手企業の傘下に入ったこと。でも、創業時のヴィクトリア朝時代の設備を今も使い続け、コンピューター制御を排した職人技を貫いている。そして2020年には、スコッチウイスキー蒸溜所として初めてBコーポレーション認証を取得しています」

「伝統と革新、大企業の傘下でありながら独自性を守る」masaが感心した。「素晴らしいバランスですね」

レイコがボタニストのグラスを見つめながら言った。

「このジン一杯に、そんなにたくさんの物語が詰まっているんですね」

アイラ島への誘い

シンが三人のグラスに、もう少しボタニストを注ぎ足した。

「実は、このボタニスト、世界中で大人気なんです。イギリス本国では、ジンがウイスキーの市場規模を上回るほどの成長を遂げていて、その中でもボタニストは『傑出した地位』を確立しています」

「へえ」masaが興味深そうに聞いた。

「2017年には約150万本が出荷される見込みだったそうです。レミー・コアントローの年次報告書では、コニャック部門と並んで成長を牽引している、と記載されています」

レイコが夢見るような表情で言った。

「私、ますますアイラ島に行きたくなってきました。ラガヴーリンの蒸溜所も見てみたいし、ブルックラディも。そして、このボタニストに使われている植物たちが生えているアイラ島の大地を、この目で見てみたい」

「いいですね」masaが賛同した。「僕もまた行きたいな。スコッチウイスキーを30年飲み続けてきましたが、改めてアイラ島を訪れたら、また違った発見がありそうです」

シンが嬉しそうに言った。

「お二人だけじゃなく、健さんやテッチャン、まどかさんも誘って、常連みんなでアイラツアーなんてどうですか?」

「それは楽しそう!」レイコの目が輝いた。

「健さんはスペイサイドに10年住んでいたから、きっと素晴らしいガイドになってくれますよ」masaが笑った。

「テッチャンは知識がなくても、その純粋な感動が場を盛り上げてくれそうですし」

「まどかさんはワイン派だけど、きっとボタニストは気に入ってくれるはず」レイコが続けた。

三人でグラスを掲げた。

「じゃあ、いつかみんなでアイラ島へ」

「アイラ島へ」

小さなバーに、乾杯の音が響いた。

アイラ島の大地が育んだボタニカルと、ジム・マッキュワンの情熱が結実したジン。一杯のボタニストが、福岡の小さなバーから、遠くスコットランドのアイラ島へと、人々の心を誘っていく。

masaのIWCポルトギーゼが、午後11時を指していた。まだまだ夜は長い。アイラ島への夢を語り合いながら、三人の楽しい夜は続いていく。


今夜のお酒
ザ・ボタニスト アイラ ドライジン
THE BOTANIST ISLAY DRY GIN

  • 製造所:ブルックラディ蒸溜所(スコットランド・アイラ島)

  • アルコール度数:46%

  • 飲み方:ストレート

  • 特徴:アイラ島で手摘みされた22種を含む計31種のボタニカルを使用。現存する最後のローモンドスチル「アグリー・ベティ」で17時間かけて蒸留。アイラ島のテロワールを体現したプレミアムジン。

ボタニスト アイラ ドライジン(2013年当時)


いいなと思ったら応援しよう!

whisky_masa 応援していただけると嬉しいです!今後の活動費に使わせていただきます!