合わない体温
生きている人間は温かい。
けれど私は生きている間に触れることはできなかった。
父の頬に触れ、その冷たさにおののきながら、瞬時に私の頭を巡ったのはそんな考えでした。
血がつながっていれば幼い頃に抱っこされることもあるでしょうが、父は私が高2で再婚した義理の父で、思えば一度としてその顔に触れたことはありませんでした。
顔どころかその他の部分にだって私が触れたことがあったのかどうか……少なくとも確かに触れた記憶は私の中に残っていません。
だからといって、時間が巻き戻ったらその温かさに触れたかったかというと、それはわかりません。また触れ合うような関係になっていたら何か変わっていたのかと問われても、それもまた違うような気がします。
私と父は触れ合わないくらいの距離感がちょうどよかった、と思うからです。
そういえば、と祖母の亡くなったときのことも思い出します。
あの時も、脳出血で倒れて動けなくなった祖母の下の世話をするのが恐ろしく、母や従妹が率先して手伝う中で、私はまったく介護的な行為に向き合うことができませんでした。祭壇の前の棺で久しぶりに触れた祖母はカチカチに冷やされていて、もう血が通っていないということを思い知らされた記憶があります。
そもそも私はスキンシップがあまり得意ではありません。
出会いがしらにハグするようなカルチャーのもとでは育っていないし、べったりと常にくっついているような友情関係を結んだこともないのです。
人間の生々しいもの、汗とか体臭とかいったものに抵抗があります。自分自身から分泌されるすべてのものに対しても気持ち悪さを感じます。
ちなみに恋愛関係にある人ならば、触れることは全く問題ありません。むしろ、その人に触れても抵抗がないかどうかが、私が相手を恋愛対象として考えられるかどうかのハードルになっています。これは生理的なもので、「この人といると楽しい」とか「かっこいいな」とか、どんなに思っていても30cm以内に入ってこられるのが無理、ということはあります。
正直、長い付き合いの弟でも無理なものは無理です。
決して潔癖というわけではありません。近すぎると思わず一歩引いてしまう、くらいのことで、日常生活にまったく支障はありません。
ただ、これでいいのだろうか、と思うことはあります。
いわゆるもっと「ウェットな付き合い」というやつができないと、私は根本的に誰とも関係性を深められないのではないか?人間として欠陥になり得るのではないか?
こういうことを考えていると、ふと思い出すことがあります。
私が反抗期で何をしてもイライラする気持ちが止まらなくて、母にも怒鳴り散らしていた時期がありました。中学生くらいの頃の話です。その時に母は私を抱きしめて、「大丈夫だから、落ち着いて」というようなことを耳元で言いました。
いい話だと、思うじゃないですか。
もしもそこで私の力が抜けて、母を抱き返すような展開になれば、すべてがまあるく収まるような、家族の絆を感じさせるようなエピソードになるはずです。
けれどその時、私は違う、と思いました。
私の気持ちはそんなハグごときでは整理できなかったし、ああ、そういうことなじゃいんだけどなぁとすれ違いに悲しくなったのを覚えています。
反抗期はじきに自然と終わりましたが、あの時から、母と直接触れ合うようなこともなくなったような気がします。
父の葬儀の時、私の義理の従姉妹の娘さんは母である彼女のそばにぴったりと寄り添って歩いていました。「お母さんが苦しい時は寄り添ってあげないと」というようなことを後で話していました。
その際も私は母にぴったりくっつくような行為はできませんでした。そういうことを求められているような気がして、少ししんどいような気持ちも根底に渦巻いていたような気がします。
どうして私は、こうなんだろう。
子供を産んでないということも影響しているのかな。
ただ触れるということに、とても抵抗があって、そのことに罪悪感を抱き続けているのです。
でも私は触れない分、わかり合えないことは、なるべく冷静に話し合いたいと思っているし、触れないから嫌い、ということでもないのです。
これもある種の人間の感覚における多様性の一つで、大切に思っているということの表現が少しだけずれているだけなのでは、と今は言い聞かせています。
甘えかもしれないけれど、合わない体温が、すなわち合わない心を表しているわけではないと、そのことが伝わったらいいなと思います。
そして、これはあくまで暫定的な着地にすぎず、長く生きていたら再びこの問題と向き合うべき時がくるかもしれません。突然ふれあいに一切の抵抗がなくなることもあるかもしれません。
けれど今はそっとしておくことを許してほしい、というお話でした。
