イエスの磔刑とイナンナの冥界下りの同一構造についての考察――エヌマ構造の逆廻し、パウロ構文の煙幕、そして制度が自滅へ向かう理由
人は、神話を「昔話」だと思っている。だから騙される。神話とは、昔話ではない。制度の設計図である。もっと言えば、制度が自らを正当化するときに使う、最も古く、最も強力で、最も悪趣味な説明装置である。勝者は必ず物語を作る。勝者は必ず敗者の死に意味を貼る。勝者は必ず、血の跡に儀礼を敷く。そうして人は、現実に起こった権力闘争を、神の計画だと信じ込まされる。
この観点から見たとき、イエスの磔刑とイナンナの冥界下りは、単なる比較神話学の素材ではない。「似ている」「元ネタだ」「影響関係がある」といった、大学の講義室で眠気を誘う程度の話では済まない。問題は、両者が共に、王権と制度によって引き裂かれた関係の物語であり、しかもその後に、制度側によって別の説明へと書き換えられた、という点にある。
通説は、こう言う。イナンナは冥界の儀礼を破った。だから罰を受けた。ドゥムジは冥界への身代わりとして選ばれた。だから冥界へ送られた。イエスは神の子羊として自ら犠牲となった。だから人類は救われた。実に滑らかで、実に整っていて、実に都合が良い。だが滑らかで整っていて都合が良い説明ほど、疑わしい。現実の権力闘争は、儀礼では行われない。現実の権力闘争は、騙し、すかし、裏切り、根回し、揚げ足取り、密告、正当化で行われる。殺した後に理由が付く。排除した後に掟が語られる。見捨てた後に神学が出来る。ここを取り違えると、神話は最初から最後まで制度側のプロパガンダとしてしか読めなくなる。
私の立場は逆である。イナンナは冥界儀礼に違反したから冥界へ落ちたのではない。既にドゥムジが殺され、その遺体が冥界にあったから、それを引き取りに行ったのだ。しかも相手は、仲の悪い姉エレシュキガルである。無傷で済むはずがない。だからイナンナは事前にエンキへ救出を頼んでいた。三日後に助けろ、と。これは儀礼ではない。回収作戦である。しかも失敗を織り込んだ回収作戦だ。半殺しにされるのは、冥界の法に触れたからではない。権力領域に踏み込んだからである。ドゥムジが犠牲になったのも、王権儀礼違反だからではない。王権闘争に巻き込まれて殺されたからである。後から「儀礼」が貼られたのだ。後から「冥界の掟」が付与されたのだ。後から「これは神の秩序だ」と言い出したのだ。これがエヌマ構造である。
エヌマ構造とは何か。乱暴に言えば、混乱を秩序として回収し、その秩序の担い手を正統化し、敗者の死に意味を着せる脚本である。勝者が勝者であることを、宇宙の秩序にまで拡張して説明する技術だ。たまたま勝った、騙して勝った、裏切って勝った、押し切って勝った、そういう生々しい現実を、そのままでは大衆が飲み込めない。だから神話にする。神意にする。儀礼にする。法にする。道徳にする。その最初期の完成形の一つがエヌマ神話である。そしてシッチンの物語が執拗に描くのは、まさにこの病理だ。悲劇の原因は、抽象的な悪ではない。先祖代々、常に、王権への執着である。誰が上に立つか。誰が正統か。誰が支配するか。誰が意味を決めるか。その執着が、血縁を破壊し、愛を破壊し、仲間を破壊し、神話の中でさえ何度も悲劇を反復させる。
だからイナンナ神話の本質は、冥界儀礼の物語ではない。王権によって引き裂かれた者を回収しようとして、さらに傷を負う者の物語である。そしてこの「引き裂かれた関係の回収」という軸で読み直すと、イエスの磔刑までの物語が、驚くほどよく見えてくる。単に「似ている」などという生ぬるい話ではない。構造が同じなのだ。
福音書におけるイエスの受難は、制度の回廊を通る冥界下りである。最後の晩餐でまだ共同体は残っている。ゲッセマネでは、これから失われることが予告される。裏切りと逮捕で、最初の支えが失われる。大祭司の前では、宗教的正当性が剥奪される。ピラトの前では、公的正当性が剥奪される。兵士たちの嘲弄では、王権の徴が反語的に付与され、反語的に剥がされる。衣服の剥奪と分配では、人格の最後の外皮が他人のくじ引きに委ねられる。十字架の上で、身体はさらし者になる。埋葬に至って、地上秩序から完全に封印される。これは、七門で装身具と権威を剥がされるイナンナの冥界下りと、全く同じではないにせよ、権威と関係と身体を一段ずつ剥奪され、死と封印へ落ちてゆく逆廻しの構造として見事に対応している。
ここで注意しなければならないのは、これは単に「イナンナ神話が元ネタだ」と言いたいのではない、ということだ。そういう話にすると、すぐに学者の子分みたいな人たちが「直接の影響関係は証明できない」とか「ユダヤ的文脈とメソポタミア的文脈は異なる」とか言い出す。そんなことは分かっている。問題はそこではない。問題は、人類が権力と死を物語るとき、なぜ同じ構造を繰り返すのか、である。なぜ見捨てられた王は、一段ずつ剥がされ、殺され、後から意味を貼られるのか。なぜ死後に共同体は、その死を自分たちに都合の良い物語へ変えるのか。ここに、人類史の癌がある。
イエスの死について、通説は「神の子が人類のために犠牲となり、その犠牲を神が受け入れたから、人類は救われた」と言う。実に便利な話だ。実に制度向きの話だ。実にパウロ的な話だ。なぜならこの解釈は、加害者共同体が、自らの責任に耐えられないときに最も役立つからである。イエスを見捨てた。逃げた。裏切った。処刑した。沈黙した。そのままでは共同体は自分の罪に耐えられない。だからこう言い換える。あの死は無意味ではなかった。あの死によって救いが実現した。あの血は贖罪だった。つまり、被害者の死から加害者共同体が利益を得る構図へと転換するのである。これがパウロ構文だ。
パウロ構文とは、起こった出来事を、共同体維持に都合の良い救済論へ変換する技術である。死を贖罪へ、犠牲を義へ、服従を信仰へ、個人の誓いを全体の義務へ、具体的な事件を普遍的原理へ変換する。個人が震えながら石の前で神に誓ったことが、やがて全員に課される宗教的義務へ化ける。ヤコブが創世記で石を立て、自発的に十分の一を捧げると誓ったあの出来事が、いつの間にか人類共通の献納義務へ膨張してゆく。石の前の個人的誓いが、石と呼ばれたペテロの教会以後、制度的徴収へと変質する。ここにあるのは信仰の成熟ではない。自発性の収奪である。愛が義務に変わる。感謝が税に変わる。誓いが徴収に変わる。これもまた、パウロ構文の働きである。
だから十字架像も、本来ならば「二度とこんなことをするな」という人類への告発であるはずだった。無辜の者を制度が殺した。その事実の証拠であるはずだった。だが教会は、それを礼拝のロゴへ変えた。イエスを見捨てた者たちが、自己都合の儀礼で磔の像を拝ませる。この悪趣味は、なかなかのものである。まるで、犯罪現場の凶器を祭壇に載せて「これによってあなたがたは救われた」と言っているようなものだ。だが、実際にやっていることはそれに近い。イエスを一度見捨て、さらにその死を救済の燃料として再利用する。言ってみれば、人類はイエスを二度見捨てたのである。一度目は処刑のとき。二度目は、その処刑を救いの物語へと加工したときだ。
このとき、イエスの死は何を意味するのか。私の立場では、神が犠牲を受理した証ではない。逆である。人類の罪の証拠である。悪いのはイエスではなく、人類である。イエスが犠牲になったからとて、その罪が消えるはずがない。もし神が本当に合理的に人類をやり直すなら、ノアの時のように見込みのある者だけ残して再起動すればよい。いちいち無辜の者を殺して、それを他の者の免罪符にする必要はない。そんなものは救済論としては美しいのかもしれないが、政治的にはあまりにも都合が良すぎる。だから私は逆を取る。イエスが死んだのは人類の罪の証拠であり、その罪は人類の深層心理に残り続ける。輪廻転生は、その罪の証である。
輪廻転生とは、何か。単に宗教的な死生観ではない。未処理の出来事が、形を変えて反復される構造である。他者を見捨てた記憶が、未回収のまま種子となり、文明のあちこちで何度も再演される。その意味で輪廻は罰ではなく、回収されていない罪の保存形式だ。だから三島由紀夫の『豊饒の海』があれほど冷たい。あの物語では、関係の回復自体が輪廻転生のモチーフとして反復される。だが何一つ本当に回収されない。生は巡る。人物は現れる。だが最後に待っているのは「それは心が作り出した幻影だった」という底の抜けた現実である。つまり、輪廻は救済ではない。赦されていないのに赦されたことにされた記憶の反復である。
三島が天皇とは何かを探り続けたのも、この問題と無関係ではない。天皇を単なる制度として見れば、彼の行為は狂気で終わる。だが彼が探っていたのは、回収不能な中心であった。法や政治制度に還元されない、絶対者の後ろに立つとはどういうことか、という問いであった。だから彼は最後に自らを回収不能の存在にした。ノーベル文学賞候補と目された男が、市ヶ谷の総監室を己の葡萄酒で満たし、世界に怒りの葡萄酒を飲ませた。戦後政治を呪うと言った後のあの行為は、あまりにも現代版の受難であり、あまりにも預言的だった。しかも、その後の日本はどうなったか。主権を回収せず、意味を回収せず、関係を回収せず、ただグローバルスタンダードと標準化で制度を延命し続けている。ならば三島の失敗は、単なる失敗ではない。効き続ける呪詛なのである。
そして、ここで黙示録が出てくる。黙示録のイエスは、福音書のイエスと同じではない。福音書のイエスは見捨てられ、裁かれ、殺される者として描かれる。だが黙示録では、白馬に乗り、鋭い剣で諸国を裁く苛烈な存在として登場する。まるでヨシュアのようであり、信長のようであり、既存秩序を焼き払う戦士として現れる。ここで多くの人は「神の子の栄光ある再臨」と理解して話を畳む。だが、私にはそうは見えない。これは、見捨てられた王への深層罪悪感が、共同体の心の中で作り出した補償像である。
見捨てた。殺した。裏切った。その事実にまともに向き合えば、人類は自分の罪に押し潰される。だから、見捨てられた者を最後に裁く王として再像化する。今は弱く死んだが、最後には全員を裁き返す存在だったのだ、と。そうすることで、あの死は無意味ではなかったことになるし、こちらの罪も大きな物語の中に埋め込める。黙示録の苛烈さは、この意味で極めて人間的である。優しいまま戻ってこられては困るのだ。優しいまま戻れば、こちらがしたことの醜さがむき出しになる。だから戦士として戻ってきてもらう。裁き手として戻ってきてもらう。これが黙示録のイエス像に宿る深層心理である。
だが、そこで終わらないのが黙示録の不気味さである。あれだけおどろおどろしく、血なまぐさく、裁きだ、獣だ、淫婦だ、大バビロンの崩壊だと積み上げておいて、最後に登場するのが花嫁だからだ。ここで、読む者はずっこける。なぜ最後が花嫁なのか。なぜ終末の到達点が、王座の完成でも、法の完成でも、軍事的勝利の完成でもなく、婚姻なのか。ここに、制度側の物語では隠し切れない本来ストーリーが露出している。
シッチン的な読みを採れば、その花嫁の深層にはマグダラがあり、さらにその向こうにはイナンナがいる。すなわち、終末の真相は王権の完成ではなく、王権によって引き裂かれた関係の回収なのである。そうだとすると、黙示録全体の意味が反転する。獣との戦いも、バビロン崩壊も、裁きも、白馬も、全部が最終的には本来ストーリーを回収するための巨大な煙幕に見えてくる。そして最後に花嫁が出ることで、本音が漏れる。あれ、主題は最初から王権ではなかったのではないか。本当は、失われた関係の回収こそが核だったのではないか、と。
この瞬間に、エヌマ構造とパウロ構文の欺瞞が露出する。王権神話として積み上げられた物語の終点が、関係の回収であるなら、途中の王権、制度、犠牲、裁き、教会秩序、普遍義務といったものは、何だったのか。未回収を隠すための脚本だったのではないか。中心を正当化するための煙幕だったのではないか。そう見えてしまう。見えてしまった瞬間、制度は正統性を失う。なぜなら制度は、意味の最終決定権を握ることでしか維持できないからである。王権でも、教会でも、国家でも、専門家でも、規格でも、最後は「これが正しい意味だ」と言う中心が必要だ。だが本来の傷、本来の未回収、本来の回収劇に気づいてしまえば、中心は救済者ではなく、むしろ引き裂きの原因だったことが露見する。そうなれば、人々はもう中心へ信仰を預けられない。
制度と政治が自滅してゆく過程とは、まさにこの露顕の過程である。最初は中心が意味を独占する。次に、その中心の説明があまりにも都合よく見え始める。さらに、犠牲の再利用、義務の増殖、儀礼による煙幕、救済の会計処理が、露骨になる。すると、人々は感じ始める。これは救済ではない、延命だ、と。これは秩序ではない、脚本だ、と。これは信仰ではない、徴収だ、と。こうして制度は、暴力によってではなく、意味の信用を失うことによって崩れてゆく。これが自滅である。政治も同じだ。主権を語らず、責任を取らず、規格と手続だけで全てを処理しようとするほど、人々はその空虚さに気づく。だから今のグロスタ推進の日本は、実は黙示録的なのである。制度が制度であることによって、かえって自らの虚構を露出しているからだ。
では、その先に何が来るのか。王権の完成ではない。中心の復活ではない。新しい強いリーダーでもない。残るのは、分散秩序である。これは単なる行政分権ではない。解釈権の分散であり、救済幻想の解除であり、誰かが全体を回収してくれるという期待の放棄である。言い換えれば、天下分散である。各自が自分で考え、自分で引き受け、自分で見るしかない。これは寂しい話に聞こえるかもしれない。だが中心への依存が、結局は見捨てと未回収を繰り返してきたのなら、ここへ戻るしかない。黙示録の花嫁が意味するのも、本来はそこだろう。命令と徴収と服従で支えられる秩序ではなく、関係が回復される秩序である。関係の回復は、王権原理とは相容れない。だから最後は分散に向かう。
結局のところ、イエスの磔刑とイナンナの冥界下りの同一構造とは、単なる神話モチーフの一致ではない。見捨てられた王、引き裂かれた関係、回収に向かう者の受難、そしてその後に勝者が貼る儀礼と神学、この一連の構造が同じなのである。イナンナは冥界へ落ちたのではない。回収に向かった。イエスは贖罪の装置ではない。見捨てられた王であり、人類の罪の証である。黙示録の苛烈なキリスト像は、見捨てた者たちの深層罪悪感が作り出した裁きの像であり、その最後に花嫁が出てくることで、本来の回収劇が漏れてしまう。そのとき、エヌマ構造もパウロ構文も、未回収を覆い隠す制度の脚本として露出する。そして露出した制度は、自らの意味の空虚さによって崩れてゆく。
だから、ここでの結論はこうなる。
人類史とは、見捨てられた王の死に意味を貼り続けてきた歴史である。
そしてその意味貼りが破綻したとき、初めて、回収不能な存在の重みが前景化する。
その重みを前にして、制度はもう保てない。
王権はもう通用しない。
儀礼の煙幕も薄くなる。
残るのは、未回収の傷そのものと、それを各自がどう見るかという問いだけである。
その地点からしか、本当の意味での新しい秩序は始まらない。
つまり、終末とは破壊のことではない。
制度が貼った説明が剥がれ、本来ストーリーが露出することである。
そして、それこそが一番恐ろしい。
なぜなら人は、戦争や飢饉よりも、自分たちが信じてきた物語が、死者に後から貼られた言い訳だったと知ることに、最も耐えられないからだ。
