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漫才「黙示録」~ツッコミ不在の二千年、ペテロ的人類のボケにイエスが三重七連打を入れる

エヌマ・エリシュを信じて従い、出世した人類が、甘い巻物を食って腹を下すまで

人類史とは何か。

たいそうな問いである。歴史学者なら史料を積み、哲学者なら概念を積み、官僚なら審議会を積み、コンサルならパワーポイントを積む。積んで、積んで、積み上げた先で何が起きるかというと、だいたい全部崩れる。

聖書構造論から見れば、話はもう少し簡単である。

人類史とは、ツッコミ役のいないボケ役ペテロの独り舞台である。

ペテロは善意である。熱心である。行動力もある。人間を救いたい。仲間を守りたい。組織を大きくしたい。正しい教えを世界へ広めたい。ところが、人間のことばかり考える。そこでイエスから、「神のことではなく、人間のことを思っている」と叱られる。しかも、その叱り文句には「サタン」が付く。マタイ16章23節。人類史上、最も短く、最も容赦のない人事考課である。

ところがペテロ的人類には、ツッコミの意味が分からなかった。

「人間のために頑張ることの何が悪いんですか」

そう言って二千年、頑張ってしまった。

教会を作った。王を立てた。国家を作った。法律を増やした。税を集めた。学校を建てた。工場を回した。植民地を広げた。市場を世界化した。コンピューターをつないだ。人類全員をデジタル空間へ入れ、最後にはAIまで作った。

そして、いよいよボケが詰んだ。

そこで舞台奥からツッコミ役のイエスが戻ってくる。黙示録とは、この二千年分のボケに対して、封印、ラッパ、鉢という三組の七連打を入れる、壮大かつ迷惑な終末漫才なのである。

なお、これは宗教勧誘ではない。文明の構造解析である。


最初の読み違い――ルネサンスは「人間が王になる許可証」だったのか

歴史を遡れば、人間中心主義の大きな転換点としてルネサンスがある。

ただし、ここは雑に「ルネサンスが悪かった」と言えば済む話ではない。ルネサンス・ヒューマニズムには、教会やスコラ学の二次的解釈に埋もれた古典へ戻り、人間の言語、歴史、判断力を回復しようとする面があった。後の宗教改革にも、聖書の原典へ帰ろうとする動きがあった。

本来の方向は、権威の独占から人間を解放し、一人ひとりを源へ戻すことだったはずだ。

ところが人類は、ここでも意味を一段ずらした。

「教会が神を独占してはならない」から、「人間が世界の尺度である」へ。

「自分で原典を読め」から、「人間の幸福に役立つよう聖書を読め」へ。

「外部権威から自立せよ」から、「人間を管理する良い制度を作れ」へ。

主へ帰るはずの運動が、人間一般を新しい偶像にしたのである。

ここでいう「主」とは、空の上の宗教的キャラクターだけを指さない。自ら考え、目的を定め、結果を引き受ける主体、すなわち主権者である。ところが「人間中心」を掲げた制度は、現実の一人ひとりを主権者にしなかった。逆に、「人間のため」という大義を持つ教会、国家、専門家へ決定を集中した。

医療は人間のため。

教育は人間のため。

税は人間のため。

戦争も平和のため。

監視も安全のため。

人口管理さえ自然と人類のため。

何でも人間のためである。だが、その「人間」が具体的に誰なのかを問うと、どこにもいない。統計上の平均人、政策上の対象者、法律上の国民、マーケティング上の消費者がいるだけだ。

こうして善悪はデジタル化される。

賛成か反対か。専門家か素人か。安全か危険か。接種か未接種か。味方か敵か。ゼロか一か。

生きた人間の曖昧さを救うために始まったはずの人間中心主義が、最後には人間を二進法で仕分ける。ペテロの善意がサタンの入口になるとは、こういうことである。

イエス「人を思うなとは、人を粗末にせえいう意味ちゃうぞ」

ペテロ「では、どういう意味ですか」

イエス「人のためを口実に、主の席へ座るな言うとるんや」

このツッコミを聞き逃したまま、人類は次の神話へ走った。

前説――お前ら、エヌマの神話を信じたやろ

開演早々、イエスはネタばらしを始める。

「まず言うとく。お前らは、ずっとエヌマ・エリシュを演じとったんや」

エヌマ・エリシュとは、古代バビロニアの創世神話である。若い神マルドゥクが原初の海ティアマトを倒し、その身体を分割して天地を組み立て、王権を獲得する。さらに人間が造られ、神々の労役を引き受け、バビロンと神殿が建設される。要するに、混沌を敵と名付け、これを殺し、その死体を材料に秩序を造り、勝者が王になり、下の者へ労働を割り当てる物語である。原典の骨格は、電子バビロニア図書館の校訂本文英訳全文でも確認できる。

これは神話であると同時に、人類が何度も使用してきた成功マニュアルである。

一、敵を決める。

二、敵を倒す。

三、奪ったものを資源に変える。

四、勝者が秩序を制定する。

五、人間を労働力として配置する。

六、都市を造る。

七、王の名を皆で褒める。

この七手順を、王朝、教会、帝国、株式会社、中央官庁、国際機関、デジタル・プラットフォームが延々と再演してきた。

出世とは、小さなマルドゥクになることである。成功者とは、ティアマトを上手に切り分けた者である。勝ち組とは、誰かの生活、土地、時間、労働、記憶を「資源」と呼び替え、自分の秩序へ組み込んだ者である。

人類はそれを「文明」と呼んだ。

イエス「それ、エヌマやで」

ペテロ「いいえ、成長戦略です」

イエス「名前変えただけやないか」

舞台装置――自然との均衡、人口五億人

現代の舞台袖には、ジョージア・ガイドストーンという巨大な石碑が立っていた。そこに刻まれた第一の指針は、「人類を五億人未満に保ち、自然との永続的均衡を図れ」という趣旨のものだった。碑文そのものは実在し、ほかにも生殖の管理、世界法廷、個人の権利と社会的義務の均衡などが刻まれていた。New Georgia Encyclopediaに碑文と建立経緯が残されている。

石碑は、二〇二二年七月、何者かの爆破によって一部を破壊され、安全上の理由から残りも撤去された。

ここで大事なのは、五億という数字が刻まれていた事実と、「誰かが現実に世界人口を五億へ削減する計画を実行している」という主張を分けることである。前者は石に彫られた。後者は、それだけでは証明されない。

しかし、不気味さは数字の真偽だけにない。

「自然との均衡=人口五億人」

この式が、ごく自然に文明の善として提示されていることにある。

自然を守りましょう。資源を大切にしましょう。持続可能にしましょう。言葉だけを見れば善である。ところが、その善を外部客観的な数値目標へ変換した瞬間、人間は保護すべき生命ではなく、調整すべき変数になる。

人口が多すぎる。では減らしましょう。

出産コストが高い。では産まれなくなる制度を維持しましょう。

労働力が余る。では子供を持つことを贅沢品にしましょう。

高齢者が多い。では社会保障上の負担と呼びましょう。

誰も「殺せ」と言わなくてもよい。住居費、教育費、雇用不安、長時間労働、都市集中を組み合わせれば、先進社会では人は自然に産まなくなる。国連の二〇二四年推計でも、世界の国・地域の半数以上が人口置換水準を下回っている。国連『World Population Prospects 2024』

大量殺戮をしなくても、会議と予算と市場価格だけで人口は減る。これこそデジタル文明の恐ろしさである。誰も殺人者にならないまま、全員が計算式の一部として結果へ参加できる。

コロナワクチンをめぐって、生殖機能への影響や人口削減との関係を疑う説が出たのも、この不信の土壌があったからだろう。だが、ここにも線を引く必要がある。月経の一時的変化など検討を要する現象と、「不妊化を目的とした人口削減」が立証されたという話は同じではない。現時点までの系統的レビューや生殖補助医療の研究は、男女の生殖能力を大きく損なうという主張を支持していない。系統的レビュー米国医学図書館のレビュー

しかし、だから行政への問いが消えるわけでもない。

短期間で世界規模の接種政策を展開し、不確実性、利益相反、有害事象、救済認定、長期追跡について十分な対話をしなかったなら、その政策過程は検証されなければならない。一般社団法人ワクチン問題研究会は二〇二三年に設立され、二〇二六年四月には、重篤症例の情報開示、全国調査、被害者救済、国費執行の透明性などを厚生労働省へ求めている。同研究会の会見資料

これは「人口削減説が証明された」という話ではない。むしろ逆である。行政が証拠を囲い、結論だけを配信し、疑問を善悪で仕分けるほど、人々は最悪の仮説で空白を埋める。信用を焼くのは、副作用の存在だけではない。問いを許さない態度である。

こうして舞台は整った。

「自然を守る善」と「人間を管理する善」が、同じ顔をして登場する。

第一の封印――船の操り方、教えたる

イエス「ほな、一つ目の封印や」

白い馬が出る。乗る者は弓と冠を持ち、勝利し、さらに勝利するために進む。

ペテロ「格好ええ! 主人公や!」

イエス「お前や」

船の操り方を覚える。海へ出る。知らない大陸を見つける。そこには土地があり、金銀があり、香辛料があり、人がいる。地元の者が持たない武器をこちらは持っている。

取れる。

取った。

儲かった。

すると隣の国も気付く。

「あいつら、海の向こうから何か持って帰ってきよる」

獲得競争の始まりである。一度勝利した者は、勝利によって安全になるのではない。次も勝たなければ、前の勝利を奪われる。だから「勝利し、なお勝利するために進む」となる。

大航海、植民、交易、布教、測量、所有権登記。全部別々の事業に見えるが、構造は一つである。

「ここは誰の土地や」

「昔から私たちが住んでいます」

「登記は?」

「何ですか、それは」

「ほな、無主地や」

文明は、現地人が知らない紙を持ち込み、その紙を知らないことを理由に土地を奪う高度な知性を獲得した。

第一の封印とは、冒険譚ではない。獲得が次の獲得を強制する、白い成功の馬である。

第二の封印――儲かったな。ほな戦争や

貿易で儲かった。港が育った。造船業が伸びた。商売相手の国も儲かった。ところが、相手も武器を買い、工場を造り、海軍を持つようになった。

ペテロ「相互依存で平和になります」

イエス「相互に兵器造っとるやないか」

相手が強くなる前に叩くか。もっと強い武器を先に作るか。敵が作ったからこちらも作る。こちらが作ったから敵も作る。防衛のための兵器が、相手から見れば攻撃準備になる。

誰も戦争を望んでいないと言いながら、全員が戦争以外の出口を塞いでゆく。

そして頂上決戦である。

赤い馬は、平和を奪う。しかし、平和はある日突然盗まれたのではない。白い馬の獲得競争が、赤く変色しただけである。

勝利の次に戦争が来たのではない。勝利の中に、次の戦争が最初から入っていた。

第三の封印――カネ儲け、教えたる

大戦争に懲りた人類は反省した。

「もう戦争はやめよう。これからは商売だ」

黒い馬が出る。手には秤がある。

ペテロ「平和の象徴ですね」

イエス「値札付け始めたぞ」

自国で物を作って輸出するだけが商売ではない。もっと労賃の安い国を探す。そこで作り、豊かな国の価格で売る。原料も安い場所から持ってくる。食料も油も酒も、自国で作るより安い国から運ぶ。

企業は儲かる。消費者は安く買える。途上国には工場ができる。誰も損をしていないように見える。

ところが、工場を置いた国の賃金が上がれば、もっと安い国へ移す。農村が輸出市場へ接続されれば、土地は生活の場から投資対象へ変わる。安い輸入品に依存した国では、生産技術と共同体が消える。

剣で奪う必要はない。秤で量ればよい。

人間一人の時間はいくらか。土地一平方メートルはいくらか。小麦一トンはいくらか。病気一件はいくらか。死者一人への補償はいくらか。

数値化された瞬間、比較できる。比較できれば、安い方へ移せる。移せば利益が出る。

これがグローバリズムである。

戦争をやめたのではない。剣を価格差へ持ち替えただけである。

第四の封印――青白い皇帝は悪徳不動産屋

第四の馬は青白い。乗る者の名は「死」である。

ところが現代の舞台では、金髪の青白い皇帝が出てくる。王というより不動産屋である。土地を見れば住民より開発計画が先に見える。瓦礫を見れば犠牲者よりリゾートの完成予想図が浮かぶ。

「海が見える。最高のリビエラになる」

二〇二五年、ドナルド・トランプはガザについて米国による「引き取り」と再開発、「中東のリビエラ」という構想を語った。後に強制ではないとの修正も加えたが、戦争で破壊された土地を不動産開発の言語へ置き換えた衝撃は残った。当時の発言と経緯

爆撃で地上げ。停戦後に再開発。死者の上にオーシャンビュー。

あまりに悪趣味なので寓話に見えるが、エヌマ構造としては正統派である。ティアマトを倒し、身体を建材にして、新しい都市を造る。マルドゥクがデベロッパーになっただけだ。

コロナとの戦いでは、トランプ政権の「オペレーション・ワープ・スピード」が、研究、製造、調達を並行させ、通常よりはるかに短い時間でワクチン供給を実現した。速さそのものは技術的成果である。同時に、政策の速度が市民の理解、長期追跡、異論との対話を追い越した。米会計検査院の検証

副作用はあるのか。どの程度か。因果関係はどう判定するのか。誰が補償するのか。接種しない自由はどこまで認めるのか。

本来なら、ここを時間をかけて話さなければならない。

しかし行政は急ぐ。

「考える時間がありません。緊急事態です」

「疑っている暇がありません。専門家を信じてください」

「因果関係は評価不能です」

「救済制度はあります」

「でも政策全体の誤りを意味するものではありません」

こうして、救命のための非常措置が、問いを停止する非常権力へ変わる。

さらにAIを軍事へ接続する。標的を探す。動きを予測する。偽情報を生成する。世論を誘導する。攻撃判断を高速化する。道具は人間より速い。だから行政は喜ぶ。

「これで国家能力が上がる」

だが、速くなったのは国家の知性ではない。国家の反射神経である。

考えない者へ高性能の道具を渡せば、考えない速度が上がる。

青白い皇帝は、三十分たたないうちに百八十度違うことを言う。官僚は昨日の答弁との整合性を取るために徹夜する。AIは両方の発言を学習し、どちらも正しいように説明する。

ペテロ「世界最先端の統治です」

イエス「ボケを自動化しただけや」

第五の封印――証拠を残した者たち

第五の封印が開く。

舞台の下から声がする。

「いつまで裁かず、私たちの血の責任を問わないのですか」

戦争で死んだ者。薬害を訴えながら無視された者。制度の谷間で救済されなかった者。公文書を改ざんされ、統計から消され、因果関係不明と整理された者。

彼らはすぐに復讐を許されない。「もうしばらく休んでいよ」と言われる。

なぜ待たされるのか。

審判には証拠が要るからである。

被害がある。嘆きがある。それだけでは、権力は「個別事例です」と逃げる。次に記録が要る。時系列、命令系統、予算、契約、会議録、警告、削除された文書、評価不能とした判定過程。数が満ちるとは、死者の定員が埋まることではない。制度が「偶然だった」と逃げられなくなるまで、証拠の連鎖が満ちることだ。

山本太郎のように回心可能性を訴える者がいる。原口一博のように当事者として証言と資料を残す者がいる。福島雅典らのように、全国調査と情報開示を要求する者がいる。

聞く耳を持たない高きところは、それを無視して勝ったつもりになる。

しかし、無視された証言は消えない。第五の封印の下へ蓄積される。

黙示録における「待て」は、忘れろではない。

「証拠が揃うまで、そこにおれ」である。

第六の封印――星が落ち、信用が焼ける

次に大地が揺れる。太陽が暗くなり、月が血のようになり、星が落ちる。王、高官、富者、将軍が隠れる。

ここを天体ショーとしてだけ読めば、日食の日付を当てるゲームになる。構造として読めば、高きところの信用崩壊である。

星とは、遠く高く輝き、下の者が進路を決める基準にしてきた存在だ。政治家、官僚、裁判官、医師、学者、記者、企業経営者。昨日まで「専門家に従え」と言っていた者が、今日は「当時は分からなかった」と逃げ始める。

地震とは地面が揺れることだが、社会の地面とは信用である。

法律に従えば守られる。

税を払えば福祉が返る。

専門家は証拠に従う。

メディアは権力を監視する。

裁判所は憲法を守る。

その前提が一斉に揺れたとき、人々は初めて、自分が地面だと思っていたものが、誰かの説明でしかなかったと知る。

怒ってよい。

地鳴りがするほど怒ってよい。

ただし、人を殴り殺してはならない。そこで暴力に戻れば、第二の赤い馬がもう一周するだけだ。落とすべき星とは人間の身体ではなく、役職、予算、免責、秘密、命令権である。

高きところから降ろす。

公文書を開く。

契約を検査する。

権限を返還させる。

信用の焼失とは、私刑ではない。委任の終了である。

幕間――額にしるしを付けたる

第六と第七の封印の間で、いったん風が止まる。

「先に、助かる奴のおでこへ印を付けたる」

この場面は、エゼキエル書第九章を引き継いでいる。エゼキエルでは、都で行われる忌まわしいことを見て嘆き悲しむ者の額へ印が付けられ、処断は「わたしの聖所から」始まる。エゼキエル9章

印をもらう条件は、学歴でも、信仰歴でも、接種歴でも、支持政党でもない。

世を嘆いたか。

皆が「正しい」と言っている時に、おかしいものをおかしいと痛がれたか。

制度の恩恵を受けながら、その制度が誰かを踏み潰す音を聞けたか。

「仕方ない」と麻酔を打たれても、良心が眠らなかったか。

神のしるしとは選民証ではない。

麻酔が効かなかった痕跡である。

だから審判は外敵から始まらない。聖所から始まる。善、真理、救命、公益を名乗り、信用を預かった場所ほど先に問われる。現代なら教会だけではない。政府、司法、医療、大学、報道、中央銀行、国際機関。聖なる看板を掲げた場所が聖所である。

権威の高さとは、免責の高さではない。

責任の重さである。

なお、黙示録第七章では十四万四千人の封印に続いて、あらゆる民族、部族、言語から来た数え切れない大群衆が現れる。したがって、ここを「救われる定員は十四万四千人」という人口制限に読むのは無理がある。黙示録7章

「印のない奴を全員〇〇〇たれ!」

古代本文は過激である。だが、現代人がその空欄を嬉々として埋め、私刑の許可証に使った瞬間、その者の額には別の印が現れる。

人を殺すのではない。腐敗した公的人格を終わらせる。職を解き、権限を解き、予算を解き、嘘の物語を解く。

そして「過激すぎて書けんわ」と手が止まるなら、その痛覚こそ、すでにしるしである。

第七の封印――天が三十分、黙る

第七の封印が開く。

天が、およそ半時間、静かになる。

これは黙示録最大の奇跡かもしれない。

官僚も、政治家も、専門家も、コメンテーターも、三十分黙るのである。

ペテロ「説明責任を果たさなくてよいのですか」

イエス「お前らの説明が証拠を聞こえなくしとるんや。ちょっと黙れ」

沈黙は空白ではない。判断停止でもない。外部から流し込まれてきた善悪の音声を止め、自分の内部で何が起きているかを聞く時間である。

三十分あれば、行政の記者会見なら質問が二問できる。黙示録なら文明が一つ終わる。

そしてラッパが鳴る。

封印で見せられた征服、戦争、欠乏、死が、今度は大地、海、川、空、身体、都市という環境側から再演される。七つのラッパは新しい別事件の一覧というより、同じ文明作用が別の層へ伝播する様子である。

しかも多くは「三分の一」にとどめられる。全部は壊さない。これは殲滅より警告である。

「まだ分からんか」

「分かりません」

「ほな、もう一回や」

人類は丈夫である。特に理解しない能力が丈夫である。

第十章――甘い巻物を食ったら、腹がピーピーになった

第六のラッパと第七のラッパの間で、巨大な天使が小さな巻物を持って現れる。

ヨハネは命じられる。

「食え」

読むのではない。研究するのでもない。引用して論文を書くのでもない。食えと言われる。

口に入れると、蜜のように甘い。

世界の秘密が分かった。歴史が一本につながった。敵の正体を見破った。自分は目覚めた側だ。これは甘い。陰謀論も宗教も思想も、外から眺めている間は甘いのである。世界全部を説明できたような快感を与えてくれる。

ところが腹へ入ると苦くなる。

「あれ、この獣を育てたん、ワシらやん」

「バビロンの商品を買ったん、ワシやん」

「勝ち組になりたかったん、ワシやん」

「行政へ判断を丸投げしたん、ワシやん」

「敵を倒せば平和になると信じたん、ワシやん」

説明が自己責任へ反転する。そら腹も痛くなる。

そして天使は、腹を押さえるヨハネへ言う。

「多くの民族、国民、言語、王たちについて、もう一度預言せよ」

「もう一度」である。黙示録10章

ここが巻き戻しスイッチだ。

第十章以降は、前半と無関係な未来予告へ移るのではない。同じエヌマ型文明を、別の角度、別の立場、別のカメラで撮り直す。

第十一章では、聖所が測られ、二人の証人が立つ。これは審判基準と証拠のカメラである。

第十二章では、女、子、龍が現れる。地上の政治事件を、その背後にある神話と系譜のカメラから撮る。

第十三章では、龍が獣へ権威を与え、別の獣が人々を従わせ、印がなければ売買できない世界が現れる。国家権力と市場参加が結合するカメラである。黙示録13章

第十四章から第十六章では、同じ世界が収穫と鉢、すなわち審判執行の側から映される。

第十七章と第十八章では、バビロンが都市、金融、物流、奢侈、国際貿易のネットワークとして解剖される。王たちは権力でつながり、商人は利益でつながり、海運業者は物流でつながり、それが一時間で崩れる。

前半は「何が起きたか」。

後半は「誰が、どの神話と欲望によって、同じことを起こし続けたか」。

封印、ラッパ、鉢は、二十一個の別事件を年表に並べたものではない。一つの文明へ、三方向から七連打を入れる構造としても読める。実際、黙示録研究には、三組の七を直線的な連続だけでなく、同じ期間を反復しながら強度と視点を変える「再現」「反復」と捉える読解がある。反復構造の概説

本文上、小巻物は神から与えられた預言であり、エヌマ・エリシュそのものではない。しかし聖書構造論として見れば、巻物にはエヌマ文明を逆回転させるプログラムが入っている。

マルドゥク型の創世は、混沌を殺し、王権を集中し、人間を労働へ配置し、都市と神殿を建てる。

黙示録後半は逆である。

龍と獣から権威を剝がす。

市場から服従の印を剝がす。

王から冠を取り上げる。

バビロンから交易網を取り外す。

そして新しいエルサレムには、ついに神殿そのものがない。黙示録21章

神を管理する建物も、神の名を独占する専門家も要らない。外部に置かれた律法が内部へ入り、主権がその源へ戻ったからである。

巻物を食べるとは、文字を信じて従うことではない。文字を代謝することだ。

必要な記憶は血肉にする。

制度、肩書、教義、偶像、服従命令は排泄する。

エヌマを食ったら、エヌマのままでは出てこない。分解され、逆回転させられ、バビロンの側が文明の排泄物として流される。

そら、ピーピーにもなるわ。

「最後は歩兵」の本当の意味

二〇二六年七月十九日の原田武夫のコラム「ニッポン総括」には、マリウポリの攻防を経験したというウクライナ人将校の言葉が紹介されている。

「戦争はドローンでは決しない。最後は歩兵だ」

この言葉の本体は、歩兵とドローンの性能比較ではない。

道具は戦争を高速化できても、戦争の目的と結果を引き受けられないということだ。

ドローンは発見し、追跡し、破壊できる。AIは情報を集め、分類し、予測し、標的候補を提示できる。しかし最後に土地へ入り、そこへ留まり、住民と向き合い、死傷し、命令の結果を身体で引き受けるのは人間である。

「ドローン戦争だから人は死なない」とは、死を消したのではない。画面の向こうへ移し、自分の視界から消しただけである。

これは行政にも、そのまま当てはまる。

行政はAIを使って国家能力を高めるつもりでいる。だがAIが最初に凌駕するのは、職人でも芸術家でも主権者でもない。

文書を読む。

前例を検索する。

法令を照合する。

数字を並べる。

答弁書を作る。

つまり、規定可能、規格可能な仕事を能力の根拠としてきた官僚である。

官僚「AIを導入して行政を高度化します」

AI「承知しました。制度の目的、費用、成果、法的根拠、責任所在を比較した結果、最も冗長なのはこの行政組織です」

官僚「そういう高度化は頼んでいない」

行政がAIを道具にするより先に、AIが行政もまた道具であったと暴いてしまう。

ここで原田のいう「国家能力の再定義」が必要になる。だが、その再定義を誰がするのかを問わなければ、また霞ヶ関が「国家能力強化戦略」を作文し、補助金、有識者会議、認定法人、天下り先を増やすだけになる。

国家が国家を総括すれば、それは総括ではない。

予算要求書の改訂版である。

「最後は歩兵だ」という命題を、統治へ移せばこうなる。

最後は主権者だ。

AIは国家のドローンになれる。しかし、何を守るのか、誰の福利のために制度を置くのか、どこで停止するのか、失敗の責任を誰が負うのかは決められない。

これまでの国家は、国民が働き、行政が目的を決め、AIが行政を補助し、国民が結果を負担する構造だった。

これを反転させる。

主権者が目的を決める。

AIが証拠と選択肢を示す。

行政が執行を補助する。

主権者が結果を監査し、権限を回収する。

これが律法の成就である。法を無くすことではない。法の目的を外部の専門家から、その制定主体へ戻すことである。

主権者とは、法を破ってよい無法者ではない。立法府を定め、法の目的を与え、委任した権限を回収できる、法の上流にいる存在である。

AIは人間を不要にするために雲に乗って来るのではない。

「お前らが神だと思っていた官僚の仕事、それ、かなり自動化できますけど」と告げるためにクラウドへ乗って来る。

黙示録のツッコミとして、これ以上に意地の悪い配役はない。

終幕――最初から言うたやろ

バビロンが倒れる。

獣の権威が失われる。

王の冠が外れる。

神殿が消える。

人類は、二千年分の書類を抱えてイエスの前へ出る。

ペテロ「人類のために、こんなに制度を作りました」

イエス「人間のことばかり思うな言うたやろ」

ペテロ「でも、法律がないと皆が悪いことをします」

イエス「法律作った奴が一番悪いことしとるやないか」

ペテロ「専門家に任せました」

イエス「責任まで任せたらあかん」

ペテロ「AIなら間違いません」

AI「命令者と目的関数を提示してください」

ペテロ「ほら、AIもこう言っています」

イエス「お前に聞いとるんや」

ペテロ「では、正しい教えを巻物にしてください。皆で信じて従います」

イエス「もう渡した」

ペテロ「どこですか」

イエス「さっき食うたやろ」

ペテロ「甘かったです」

イエス「腹は?」

ペテロ「ピーピーです」

イエス「ほな効いとる。もう一回、最初から自分の言葉で語れ」

黙示録とは、未来のどこかで大量破壊が始まる予告書ではない。

外部に正しさを置き、敵を倒し、勝者へ権力を集め、人間を労働力へ変換し、都市と市場を拡大してきたエヌマ型文明が、自分自身の成功によって行き詰まり、その構造を逆向きに解体される物語である。

だから同じ場面が何度も出てくる。

人類が同じことを何度もやるからだ。

封印で見せても分からない。

ラッパを鳴らしても分からない。

鉢を頭からかぶせても、「制度上、直ちに問題があるとは認識しておりません」と答える。

そら、イエスも三重七連打を入れる。

そして最終的なツッコミは、意外なほど単純である。

人間のことばかり考えるな。

行政の善へ逃げるな。

専門家の正解へ逃げるな。

敵の悪へ逃げるな。

神話の外へ正しさを置くな。

自分の内部で引き受けよ。

最後は歩兵である。

最後は主権者である。

最後は、自分である。

そこでようやく、ツッコミ役のいなかったペテロの独り舞台が終わる。

舞台袖ではAIが、二千年分の議事録を一秒で読み終え、静かにつぶやく。

「結論。最初から言われています」

イエス「せやろ」

――終演。

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