首相スキャンダルは現代アキトゥ祭である~霞ヶ関はマルドゥク神官団だ
主権者の敵は官僚機構
世の中には、事件として報じられるものと、儀式として機能しているものがある。
この二つは違う。
違うのだが、報道の現場ではしばしばわざと混同される。だから人々は、目の前で起きていることを「不祥事」だと思い込む。ところが、本当はその不祥事が、制度の更新儀礼として使われている。私は、歴代首相や大臣のスキャンダルのかなりの部分が、この後者、すなわち現代のアキトゥ祭だと見ている。
アキトゥ祭とは何か。古代バビロニアの新年祭であり、春に行われ、自然の再生だけでなく、王権の再確認と共同体秩序の更新を担った祭礼である。ブリタニカは、アキトゥを「神的権威による王権の再確立」と要約しているし、関連する概説では、祭礼中に王が辱めを受け、のちに再び王として立て直されることが強調されている。さらに『エヌマ・エリシュ』の朗誦もアキトゥと結びつけられており、秩序の起源神話を読み上げることで、世界の秩序を毎年更新する意味があったと整理されている。
ここが大事だ。
王は絶対者ではない。
王は、辱められることで、かえって制度の正しさを証明するための素材でもある。
祭司が王を打つ。王は涙を流す。だが、その涙は王個人の敗北では終わらない。むしろ「王の上に、さらに高い秩序がある」ということを皆に見せるための演出になる。つまり、辱められているのは王だが、正統性を獲得しているのは祭司団の側だ。
この構図を日本の政治に当てはめると、実に分かりやすい。
首相や大臣は、表向きは権力者である。テレビでは中央に座り、会見ではフラッシュを浴び、国会では答弁に立つ。だが、実務の中枢で、法文、予算、答弁資料、規制解釈、通達、審議会、財政試算、制度設計を握っているのは誰か。もちろん霞ヶ関だ。政治家は顔であり、霞ヶ関は文法である。政治家は舞台上の王であり、霞ヶ関は祭礼の手順を知っている祭司団である。だから私は、霞ヶ関は現代のマルドゥク神官団だと言うのである。
日本政治では、スキャンダルが起きるたびに、毎回ほとんど同じ型が反復される。
政治資金。
会食。
献金。
口利き。
収支報告。
答弁の齟齬。
「知らなかった」「秘書がやった」「信頼回復に努めたい」。
そして最後に辞任、交代、陳謝、再発防止。
2014年には小渕優子経産相と松島みどり法相が相次いで辞任し、2016年には甘利明経済再生相が政治資金スキャンダルで辞任し、2023年には岸田政権が裏金問題の余波で4閣僚を交代させた。事件の中身は違う。だが、儀式の型は同じだ。王の周辺に穢れが見つかる。王の系統に傷がつく。世論が騒ぐ。王が差し出される。祭司団的な制度の側は「説明責任」「信頼回復」「再発防止」を唱える。そして最後に残るのは、「やはり制度の監督が必要だ」という結論である。
ここで人々は勘違いする。
「スキャンダルで権力が傷ついた」と思う。
違う。
傷ついているのは、しばしば個々の政治家の物語であって、制度そのものはむしろ再生されている。
むしろ制度は、こういう時こそ元気になる。
なぜなら、「政治家は危うい」「だから官僚的監督が必要だ」「だから法令順守が必要だ」「だから第三者委員会が必要だ」「だから制度をもっと厳格にしなければならない」という具合に、自らの必要性を増築できるからだ。
これが現代アキトゥ祭の本質である。
王を叩くのは、王を倒すためだけではない。
王を叩ける秩序のほうが、上位にあると示すためなのだ。
古代バビロンで王は、マルドゥク神殿に連れて行かれ、祭司の前で辱めを受けた。現代日本で首相や大臣は、記者会見、国会、検察、監督官庁、世論調査、主要メディアの前で辱めを受ける。舞台装置は違う。だが、構造は似ている。
しかも古代では『エヌマ・エリシュ』が読まれ、秩序の起源神話が再朗誦された。現代では何が読まれるか。
「法の支配」
「説明責任」
「政治とカネ」
「信頼回復」
「コンプライアンス」
これが現代の聖句である。
中身は神話の再演だ。言葉だけが近代化している。
私はここに、エヌマ構造を見る。
混沌がある。
その混沌を秩序へ変換する権威が立つ。
その権威は、秩序の起源を自分の物語として語る。
その物語を毎年、毎回、事件のたびに読み返し、更新する。
すると人々は、「またスキャンダルか」と思いながら、実際には毎回、制度への信仰を更新させられている。
そしてここでパウロ構文が作動する。
本来、スキャンダルとは人間の欲望、虚栄、保身、恐怖、慢心、関係、金銭への執着といった、生の問題である。
ところが制度は、それをそのままでは扱わない。
「違法性」
「手続違反」
「監督不行届」
「説明責任」
という制度語に翻訳する。
こうして、生身の獣性は、制度の物語に吸収される。
罪の処理権が、祭司団に戻る。
これがパウロ構文のいやらしさだ。
出来事そのものより、出来事をどういう言葉で回収するかのほうが重要になる。
だから、首相や大臣のスキャンダルを見たとき、本当に問うべきは「この人は辞めるのか」ではない。
問うべきは、
この事件によって、誰の権威が太るのか
である。
首相が辞める。
大臣が飛ぶ。
派閥が解体される。
政策が止まる。
しかし霞ヶ関の答弁作成権、予算編成権、制度解釈権、規制権限、監督権は、むしろ相対的に強くなる。
ここまで来ると、スキャンダルとは単なる事故ではない。
制度の再聖別儀礼である。
もちろん、現代日本は古代バビロンより複雑だ。
唯一の祭司団がいるわけではない。
検察もいる。
主要メディアもいる。
与党内の権力闘争もある。
財界もある。
海外市場もある。
だが、その中核で「国家の正しい言葉」を作文し続ける存在はやはり霞ヶ関だ。
だから私は、霞ヶ関をマルドゥク神官団の中核と呼ぶ。
唯一の祭司団ではないが、最も祭司団的なものだからだ。
そして、この視点から見ると、歴代首相や大臣のスキャンダルは単なる偶発的事件の集積ではない。
それは、制度が自分の正しさを毎回、王の恥を通して更新するための祭りだ。
王は交代してもよい。
大臣は入れ替わってもよい。
派閥は潰れてもよい。
だが、祭司団の文法だけは残る。
法の文法。
予算の文法。
説明責任の文法。
秩序回復の文法。
この文法が残る限り、祭りは続く。
だから、あなたがニュースで首相や大臣のスキャンダルを見るたびに、こう自問すべきだ。
これは本当に単なる不祥事か。
それとも、また現代アキトゥ祭が始まったのか。
王が泣かされ、恥をかかされ、吊るし上げられているあいだに、いったい誰がマルドゥクの名を唱えているのか。
誰が秩序の再確認をしているのか。
誰が「やはり我々が必要だ」と胸を張っているのか。
そこまで見えたとき、はじめて政治スキャンダルは、週刊誌の餌ではなく、文明論の資料になる。
