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黙示録とは何か?~架空信用を徴収する、冷たい時代の始まり

黙示録とは、未来予言ではない。

まして、空から怪物が降ってきて、人類がまとめて罰せられるような、安っぽい宗教映画でもない。

黙示録とは、もっと冷たいものだ。
特に今の、その終盤に於いては。

過去に撒かれた種子が、ある時点で現行すること。
忘れたつもりの因果が、忘れていなかったこと。
高きところが作った架空信用の請求書が、下にいた者たちの生活、身体、税、物価、労働、孤独、怒りとして届くこと。

それが黙示録だ。

そして、たいていの人間は、それが来るまで気づかない。

いや、正確には、気づいていた者はいた。
会社にも、現場にも、社会にも、国家にも、いつも勘の鋭い者はいる。

「このままやっていたら、取り返しのつかないことになるぞ」

そういう者は、いつもいた。

だが、凡庸な運用者たちは聞かない。
「これまでのやり方だから」
「前例があるから」
「上がそう言っているから」
「マニュアルにはそう書いてあるから」
「今まで問題になっていないから」

そう言って、同じことを続ける。

そして、ある日、問題になる。

そのときになって、彼らは言う。

「想定外だった」

嘘をつけ。

想定外ではない。
お前たちが想定しなかっただけだ。
あるいは、想定した者の声を潰しただけだ。

黙示録とは、その潰された声が、因果として戻ってくることだ。


平成13年、2001年

平成13年。西暦2001年。

数で見れば、これはかなり露骨だ。

12は秩序の数である。
十二支、十二星座、十二部族、十二使徒。
12とは、世界を配置する座標であり、秩序の円環である。

そこへ13が来る。

13とは、12の秩序に入りきらない余剰だ。
完成された座標の外から入ってくる異物。
円環の外側から、秩序を狂わせる一つ余計な点。

平成という元号は、「平らかに成る」と書く。
だが、その13年目に、世界は2001年を迎えた。

9・11。
対テロ戦争。
監視社会。
安全保障国家。
金融と軍需の再接続。
身体、移動、空港、通信、国境へのアクセス。

平成の平和看板は、その年、冷たく剥がれた。

2001という数字も気味が悪い。

2・0・0・1。

20世紀の二項対立が終わり、二つのゼロ、つまり空白を挟んで、1の一元管理へ向かう。

資本主義か共産主義か。
右か左か。
自由主義か全体主義か。

そういう古い2の時代が終わった。
だが、その先に自由が来たのではない。
ゼロの空白を通って、より冷たい1の管理へ向かった。

だから平成13年とは、平成という平和幻想が、13という余剰によって破られた年だった。

平和は成ったのではない。
平和という看板の下で、次の戦争OSが起動しただけだった。

2016年8月8日、金星の二重門

次に来るのが、2016年8月8日だ。

この日は、単なる日付ではない。

8月8日。
8と8。

8は金星である。
宵の明星であり、明けの明星である。

金星は、夜の入口にも現れ、夜の出口にも現れる。
沈む星であり、戻る星である。
失踪と再出現の星であり、イナンナ/イシュタルの星である。

8と8を重ねると16になる。
16は、十六花弁の菊である。

二つの金星。
宵の明星と明けの明星。
夜に沈む星と、夜を渡りきって朝に現れる星。

その二つを重ねると、十六花弁の紋章が開く。

これは偶然の数遊びではない。
少なくとも、象徴としては出来すぎている。

2016年8月8日、平成天皇は「象徴としてのお務め」について語った。
天皇個人は退く。
だが象徴は渡される。
身体は有限だ。
制度は継承される。

これは、宵の明星が沈み、明けの明星として次代へ渡る儀式だった。

ダニエル書で言えば、水の上を渡り切る場面である。

水とは、ただの川ではない。
時間の流れであり、帝国の流れであり、歴史の奔流である。
その水の上を渡る者は、地上の権力者ではない。
制度の陸地に足をつけず、象徴として水面を渡る者だ。

平成時代の天皇は、その日、権力者としてではなく、象徴として水を渡った。

そして、その2016年8月8日から七年。
2023年8月8日まで。

第一の艱難時代である。

第一艱難、肉体へのアクセス

2016年8月8日から2023年8月8日までの七年は、肉体へのアクセスと、信用崩壊の種子が植え込まれた期間だった。

その中心にあったのが、パンデミックである。

令和元年。
2019年。
令和という時代が始まった年に、パンデミックの種子が置かれた。

令和。

この元号は冷たい。

平成には、まだ情があった。
平らかに成る。
まあまあで済ませる。
空気で丸める。
矛盾を先送りする。
誰かが何となく面倒を見る。

平成とは、エヌマ構造末期の、情のモラトリアムだった。

だが、令和は違う。

令。
命令の令。
法令の令。
号令の令。
律令の令。

そこに和がつく。

自然に生まれる和ではない。
令によって整列させられる和。
無言の強制力を帯びた和。

そして、その令和元年に、人間の身体へアクセスする仕組みが開いた。

体温。
呼吸。
接触。
移動。
マスク。
ワクチン。
隔離。
行動履歴。
出勤可否。
登校可否。
入国可否。

身体が信用の入口になった。

誰が安全か。
誰が危険か。
誰が従ったか。
誰が疑ったか。
誰が移動してよいか。
誰が集まってよいか。
誰が働いてよいか。

パンデミックとは、単なる感染症ではなかった。

国家、会社、医療、学校、メディア、専門家、金融が、人間の身体へアクセスする回路を開いた出来事だった。

そこで植え込まれた種子は、信用崩壊の種子である。

政府への信用。
専門家への信用。
医療への信用。
メディアへの信用。
学校への信用。
会社への信用。
国際機関への信用。
近代合理性への信用。

全部が試された。

そして、多くは傷ついた。

第二艱難、信用崩壊そのものへ

2023年8月8日以降、第二の七年が始まった。

これは、第一艱難で植え込まれた種子が、信用崩壊そのものへ向かう期間である。

今度は、身体だけではない。

産業原料。
金融。
貿易。
安全保障。

文明の血管にストレスがかかる。

原料は、もう安ければ買える商品ではない。
エネルギー、肥料、半導体材料、銅、リチウム、レアアース。
これらは文明の臓器である。

貿易は、もう自由に流れる水路ではない。
海峡、港、保険、船舶、国境、同盟。
物流そのものが安全保障になる。

金融は、もう信用を発行して現実をなだめる装置では済まない。
金利、債務、通貨、国債、為替、物価。
架空信用の請求書が、市場を通じて届く。

安全保障は、信用崩壊の保険料である。
国際法への信用が落ちる。
国連への信用が落ちる。
自由貿易への信用が落ちる。
ドル秩序への信用が揺らぐ。
だから各国は武装する。
備蓄する。
囲い込む。
半導体、AI、衛星、港湾、鉱山、通信網を安全保障化する。

第一艱難は、肉体へのアクセスだった。
第二艱難は、文明身体へのアクセスである。

肉体から入ったものが、信用を壊す。
信用が壊れたものが、原料、金融、貿易、安全保障を圧迫する。

これが種子生種子だ。

種子生種子、純粋過去の裁き

種子は、一つでは終わらない。

一つの嘘が、次の嘘を生む。
一つの例外処理が、次の例外処理を生む。
一つの隠蔽が、次の隠蔽を生む。
一つの架空信用が、次の架空信用を生む。

これが種子生種子である。

唯識で言えば、阿頼耶識は忘れていない。

人間は忘れる。
制度は忘れたふりをする。
会社は担当者を替える。
役所は文書を保存期間で消す。
メディアは次のニュースへ移る。
金融は損失を組み替える。
政治家は言葉を変える。

だが、阿頼耶識は忘れない。

過去は終わったものではない。
純粋過去として、現在を見つめている。

現代人は、自分が過去を読んでいると思っている。
違う。

過去の方が、現代を読んでいる。

神話を読むのではない。
神話がこちらを読んでいる。
黙示録を解釈するのではない。
黙示録がこちらを解釈している。

空が色を見ているのだ。

空とは虚無ではない。
未現行の種子が満ちている場である。
まだ現れていない因果。
まだ言葉になっていない怒り。
まだ制度化されていない犠牲。
まだ誰も理解していない記憶。

それが、ある時点で色になる。

その瞬間、現代は驚く。
「なぜこんなことが起きたのか」と言う。

馬鹿を言うな。
ずっとそこにあったのだ。
ただ、現行していなかっただけだ。

イナンナ、ドゥムジ、小羊

イナンナはドゥムジを失った。

だが、彼女は認めない。
ドゥムジは戻る。
戻らねばならない。
戻らないなら、儀式で戻す。
王に演じさせる。
紋章に刻む。
門に刻む。
暦に刻む。
都市に刻む。

だが、物理的には戻らない。

イナンナによるドゥムジの回収は、解釈によってしか成されない。

しかし、その回収を本気でやるなら、エヌマ構造の告発と解体を伴う。

ドゥムジは自然に消えたのではない。
秩序のために消された。
王権のために埋められた。
聖婚儀式のために代理化された。
勝者の神話の中に処理された。

だから、ドゥムジを回収するとは、失われた恋人を戻すことではない。

ドゥムジを失わせた構造を告発することだ。

ここで、黙示録のほふられた小羊が出てくる。

小羊は、優しいイエスではない。

むしろ、マルドゥクより容赦がない。

マルドゥクは敵を殺して王になる。
小羊は殺された者として、世界を裁く。

マルドゥクは殺して秩序を作る。
小羊は、殺して秩序を作るという文明OSそのものを焼く。

だから小羊は残虐だ。
だが支配者にはならない。

ここが決定的である。

小羊は破壊する。
だが、その破壊を自分の王権の材料にしない。
裁く。
だが、その裁きを支配正当化に使わない。
バビロンを倒す。
だが、第二のバビロンを建てない。

小羊は、支配者ではない。
支配構造を終わらせる者だ。

そして小羊が容赦ないのは、情による裁きではないからである。

阿頼耶識から来る。
人格から来るのではない。
怒りから来るのでもない。
復讐感情から来るのでもない。

因果の連鎖として来る。

だから、誰も理解できない。

人間は、裁きをいつも人格で考える。
誰が怒ったのか。
誰が罰したのか。
誰が命令したのか。
誰が救ってくれるのか。

だが小羊は、その問い方の外から来る。

小羊とは、誰かではない。
誰かにされたことの総記憶である。

般若心経と黙示録

ここで、般若心経と黙示録が重なる。

イナンナがドゥムジを物理的に取り戻せないと知る。
それでも阿頼耶識は忘れていないと知る。
しかし、戻るドゥムジも、待つイナンナも、回収も、裁きも、すべて空であると照見する。

これが、イナンナの悟りとしての般若心経だ。

色即是空。
空即是色。

ドゥムジという色は空である。
だが、空であるから消えるのではない。
空であるから、別の形で現れる。

因果として。
構造として。
小羊として。
黙示録として。

般若心経は、内側でエヌマ構造を解体する。
黙示録は、外側でエヌマ構造を焼く。

内側では、五蘊皆空。
外側では、バビロン崩壊。
内側では、無智亦無得。
外側では、神殿なき新エルサレム。

つまり、般若心経はイナンナの内なる黙示録であり、黙示録はイナンナの外なる般若心経である。

これは優しい救済ではない。

恐ろしい救済である。

自己も、愛も、喪失も、復讐も、裁きも、神話も、空として見切る。
その上で、因果は現行する。

だから怖い。

三島由紀夫と豊饒の海

この構造を、文学として思考したのが三島由紀夫だった。

『豊饒の海』は、単なる輪廻転生小説ではない。

清顕、勲、ジン・ジャン、透。
転生らしきものが追われる。
本多は、その徴を追い続ける。

だが最後に、記憶は崩れる。
清顕は本当にいたのか。
転生はあったのか。
本多が見ていたものは、阿頼耶識の現行だったのか。
それとも、本多の妄執だったのか。

輪廻を描きながら、最後に輪廻の実体性を空じる。

これが『豊饒の海』だ。

三島は、イナンナの妄想が唯識へ到達し、さらに般若心経的な空へ崩れていく過程を、文学として書いた。

そして最後に、自分の身体を差し出した。

三島の最後の行動は、政治行動としては失敗だったかもしれない。
だが、象徴行為として見れば、戦後日本という架空信用を、身体で切り裂こうとしたものだった。

彼は支配者になろうとしたのではない。
中心に座ろうとしたのでもない。

書き終えたあと、死んだ。

マルドゥクではない。
むしろ、ほふられた小羊に近い。

戦後日本の空虚を、自分の身体で開封した。

半田広宣的に言えば、それは純粋過去の現行だった。
三島個人が現代を裁いたのではない。
純粋過去が、三島という器を使って、戦後日本を見つめた。

現代が三島を読むのではない。
三島の方が、現代を見ている。

令和、架空信用の強制徴収

令和とは、黙示録的である。

平成までに積み上げられた架空信用が、令和で強制徴収される。

政治の信用。
官僚制の信用。
財界の信用。
銀行の信用。
円の信用。
教育の信用。
会社員身分の信用。
年金の信用。
法治主義の信用。
グローバル化の信用。
専門家の信用。
メディアの信用。
戦後日本モデルの信用。

その多くは、実体ではなかった。

未来の価値を前借りして、現在の制度が担保として使っていただけだ。

そして令和に入ると、その担保が剥がれる。

税として徴収される。
物価として徴収される。
社会保険料として徴収される。
労働時間として徴収される。
低賃金として徴収される。
介護負担として徴収される。
孤独として徴収される。
病として徴収される。
円の弱さとして徴収される。
国家の選択肢喪失として徴収される。

誰も徴収官として現れない。
だが全員から取られる。

それが令和の冷たさだ。

架空信用を作った高きところは、責任を取らない。
だが、その信用を信じて生きた者たちは、実体として負担する。

そして、負担した者は、負担を押し付けた者を許せなくなる。

ここが、黙示録の第二段階である。

最初は悲劇がある。
次に悲しみがある。
次に不条理がある。
次に懐疑が生まれる。
懐疑は敵意になる。
敵意は憎悪になる。
憎悪は復讐心になる。

そこまで行けば、文明は後戻りできない。

なぜなら、壊れるのは制度ではないからだ。
許しが壊れるのだ。

法律は残る。
役所も残る。
会社も残る。
メディアも残る。
専門家も残る。

だが、信用が消える。

これがバビロン崩壊である。

巨大なブドウの酒船

黙示録には、巨大なブドウの酒船が出てくる。

あれは、神の残虐趣味ではない。

個別の悲しみが集合的な怒りへ変質する装置だ。

ブドウは一粒では小さい。
一人一人の悲しみ、不満、違和感、怒りも、最初は小さい。

だが、それが集まる。
踏まれる。
潰される。
圧搾される。
血のような酒になる。

これが、怒りの成熟である。

フランス革命もそうだった。

最初から復讐ではない。
飢えがあり、悲しみがあり、不条理があり、懐疑があり、敵意があり、憎悪があり、最後に復讐心が来る。

その段階まで行くと、もう説得では戻らない。

「やりすぎではないか」
「彼らにも事情があった」
「急に変えられなかった」
「みんな生活があった」

そういう情は、もっと前に使うべきだった。

悲劇の段階で聞けた。
悲しみの段階で修正できた。
不条理の段階で責任を取れた。
懐疑の段階で構造を変えられた。

だが、それをしなかった。

だから、酒船が出てくる。

神の大宴会とは、これまで人を食ってきた者たちが、最後には自分自身を食われる側へ回るという、因果の祝宴である。

善悪ではない、方向性だ

ここで勘違いしてはいけない。

黙示録は、善人と悪人の対決ではない。

種子生種子の現行を、解放として見る者と、損失として嘆く者の分岐である。

バビロンが崩れる。
商人は嘆く。
王たちは嘆く。
制度側は嘆く。

なぜ嘆くのか。

世界が悪くなったからではない。
自分たちの信用配管が崩れるからだ。
自分たちの商売、地位、価格体系、贅沢、物流、権威が壊れるからだ。

一方で、踏まれてきた者は思う。

ざまあみろ。
だから言っただろ。
聞かなかったのはお前たちだ。

この差は、善悪ではない。
どの配管に接続していたかの違いだ。

同じ崩壊を見ても、立場によって意味が違う。

制度側は「秩序の崩壊」と呼ぶ。
負担してきた者は「徴収装置の崩壊」と見る。

制度側は「社会の分断」と呼ぶ。
負担してきた者は「責任の所在が見えただけ」と見る。

制度側は「信頼回復が必要」と言う。
負担してきた者は「もう信じない」と言う。

善悪ではない。

だが、方向性は決まっている。

撒いた種子は現行する。
信用を偽造した者は、信用を失う。
徴収した者は、徴収される。
踏んだ者は、踏まれる。
信じさせた者は、信じられなくなる。

これが黙示録だ。

分散秩序には情がない

エヌマ構造には、まだ情があった。

王がいる。
神官がいる。
国家がある。
裁判所がある。
警察がある。
会社がある。
上司がいる。

だから、嘆願できた。
責任転嫁できた。
赦しを求められた。
誰かのせいにできた。

だが、自由な分散秩序には情がない。

中心がない。
王がいない。
上位解釈者がいない。
最終責任者がいない。

裁きは、裁判所や警察から来るとは限らない。

信用から来る。
関係性から来る。
ネットワークから来る。
ログから来る。
身体から来る。
市場から来る。
偶然のような出来事から来る。

誰が裁いたのか分からない。
ただ、やった報いが起こるだけだ。

信用が消える。
人が離れる。
仕事が来なくなる。
情報が戻る。
過去の発言が刺さる。
身体が壊れる。
組織が燃える。
国家が詰む。

誰も怒鳴っていない。
誰も命令していない。
誰も処罰していない。

因果が現行しただけだ。

だから、悟るしかない。

悟るとは、宗教的に賢そうなことを言うことではない。

自分の行為が、どの種子を生み、その種子がどの方向へ現行するかを見ることだ。

このままやれば破綻する。
この嘘は必ず戻る。
この配管は人を壊す。
この制度は燃える。
この会社は沈む。
この国は詰む。
この文明OSは終わる。

それを見ることだ。

見たなら、向きを変えるしかない。

黙示録とは何か

黙示録とは、神の怒りではない。
人間の妄想でもない。
未来予言でもない。

黙示録とは、純粋過去が現代を見つめて裁くことである。

阿頼耶識に保存された種子が、時を満たして現行すること。
空の中にあった未現行の因果が、色として現れること。
高きところが作った架空信用が、下にいる者たちの身体と生活から強制徴収されること。
その負担を押し付けられた者が、押し付けた者を許せなくなること。
その怒りが、悲しみから懐疑、敵意、憎悪、復讐心へと段階を踏んで進み、文明を後戻り不能にすること。

それが黙示録だ。

ほふられた小羊は、優しい救世主ではない。
人格ですらない。
阿頼耶識から来る因果の作動点である。

支配者にはならない。
だが、支配構造を終わらせる。

情はない。
だが法則はある。

善悪ではない。
だが方向性は決まっている。

令和とは、その冷たい法則が現行する時代である。

平成は、情による先送りの時代だった。
令和は、先送りされた因果が、無言で徴収される時代である。

だから、もう誰かのせいにしても遅い。
誰かが救ってくれると思っても遅い。
上に祈っても遅い。
下に押し付けても遅い。

請求書は、もう発送されている。

あとは、誰が支払うかだ。

そして支払った者は、必ず気づく。

自分は制度に守られていたのではない。
制度の担保にされていたのだ、と。

その瞬間、黙示録は始まる。

いや、もう始まっている。

ただ、まだ多くの者が、それを現在のニュースだと思っているだけだ。

違う。

これはニュースではない。
これは因果だ。
これは未来ではない。
これは純粋過去の現行だ。

黙示録とは、過去が現在を取り立てる夜のことである。

そして夜を渡りきる者だけが、明けの明星を見る。


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