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原罪の普遍化――反ユダヤ論を斬る。人類文明批判として聖書を読む

世界は、あまりにも長く、あまりにも安っぽく聖書を読んできた。
その最たるものが、「ユダヤ人はイエスを殺した民族だ」という、あの低劣きわまりない理解である。
こんなものは、歴史を読んでいるようでいて、実際には何も読んでいない。
なぜなら、その理解は、聖書が人類全体に向けて突きつけている問題を、特定民族への責任転嫁へと矮小化してしまうからだ。

それでは、あまりに都合がよすぎる。
自分は違う、悪いのはあいつらだ、あの民族だ、あの時代の連中だ、で済ませられるからだ。
だが、そんな逃げ道を与えるために、聖書は書かれていない。
むしろ逆である。
聖書が本当に暴こうとしているのは、人間というものが、何度でも外部に正しさを置き、その解釈権者に主権を渡してしまうという、普遍的な構造の方なのである。

ここで、ユダヤ民族という物語上の位置づけを考え直さねばならない。
私は、これを単なる一民族史として読むのは浅いと思う。
旧約においてユダヤ=イスラエルは、部族共同体として現れる。
掟を持ち、選ばれた民を自認し、王を欲し、祭司に頼り、預言者を拒み、神との契約を何度も裏切る。
つまりそれは、特定民族の記録である以前に、人類が文明初期にどのように自分たちの秩序を作り、どのようにその秩序に呪われていくかの縮図として機能している。

新約に入ると、その役割はさらに深くなる。
イエスを見捨てる者、イエスを理解できない者、神の内在化を受け取れない者として、ユダヤ共同体は描かれる。
だが、ここでもやはり問題は民族ではない。
問題は、外部に置かれた律法と、その解釈権者への依存である。
律法学者、祭司、共同体秩序、ローマ帝国との政治的折衝。
それらの中で、人々は結局、「内なる主権」ではなく、「外から保障される秩序」の方を選ぶ。
イエスを見殺しにしたのは、その意味で、一民族の悪意ではない。
主権を外部へ委任したいという人間一般の習性である。

ここを読めない者が、「ユダヤ人が悪い」と言い出す。
だが、そんなことを言い出した瞬間、その人間はすでに同じことをやっている。
なぜなら、イエスを見殺しにした構造を、自分の現在から切り離し、過去の特定民族へ押しつけているからだ。
責任の外部化。
まさにそれが、問題の核心ではなかったのか。

聖書の物語の出発点そのものが、すでにそれを示唆している。
アブラハムの移動は、ウルから始まる。
つまり、物語の根は最初から、人類文明の起点であるメソポタミア文明に触れている。
重要なのは、聖書が最初から、部族のローカル神話ではなく、人類最初期の文明圏に接続された、文明普遍の物語として自らを配置しているということだ。

旧約は、部族と王の神学である。
そこでは、神、王、祭司、民の配置が問題になる。
誰が神を語るのか。
誰が神意を解釈するのか。
民は誰に従うのか。
これらは、部族社会の局所問題であると同時に、後の帝国、教会、国家、官僚制、法治主義にまで貫通する問題でもある。
だからこそ、聖書の中の「イスラエル」は、一民族の名前である以上に、人類文明そのもののひな型なのである。

この意味で、「ユダヤ民族とは発明された民族なのか」と問うことには、半分だけ意味がある。
神話構造として見るなら、民族とはいつでも、ある文明的問題を圧縮するために発明される。
そして聖書でのイスラエルという物語装置の中には、人類全体の問題が圧縮されている。
それは、神に従うかどうかではない。
もっと厄介な問いだ。
神を見捨てて、神について語る者に従うのかどうかである。

ここで原罪論が初めて本当の意味を持つ。
原罪とは、アダムが禁断の実を食った、という昔話のことではない。
それは象徴だ。
本当に問題なのは、人類がその後もずっと繰り返してきたことの方である。
外部に客観的な正しさを置く。
それを解釈する者が現れる。
人々は、自分で考える代わりに、その解釈権者を信じて従う。
こうして主権は何度でも失われる。
これこそ、原罪の歴史的中身である。

イエスは、それを断ち切ろうとした。
律法の微修正ではない。
祭司制度の改革でもない。
神の内在化、すなわち主権の内在化を型示しした。
だが人類はそれを拒絶した。
なぜか。
内在化された主権は、重いからである。
外部に正しさを置き、その意味を誰かに与えてもらう方が、ずっと楽だからだ。
だから人類は、イエスを磔にしただけでは終わらなかった。
その後も、パウロ教を受け入れ、教会制度を受け入れ、法治主義を受け入れ、グローバルスタンダードを受け入れ、何度でも観念上のイエスを見殺しにしてきたのである。

ここまで来ると、「ユダヤ人がイエスを殺した」という言い方が、どれほど浅薄か分かる。
そんなものは責任逃れの言葉でしかない。
責任を過去へ、民族へ、他者へ押しつけて、自分はいまなお制度の側に立ち続けるための方便だ。
だが本当は違う。
イエスを見殺しにしたのは、当時の律法主義的共同体だけではない。
パウロ教を受け入れ、その微分バージョンとしての法治主義を受け入れ、なおも解釈権を信じて従い続けている人類全体である。
つまりイエス殺しとは、過去の事件ではない。
文明の反復運動なのだ。

ここで、ローマ帝国の構図も見えてくる。
当時の世界では、ローマは徴税によって保護を与えた。
秩序を与え、安全を与え、道路と流通を与え、その代わりに服従と税を要求した。
そこに乗っかるという選択は、たしかに現実的ではある。
だがその「現実性」は、今日の既得権構造と何が違うのか。
制度に乗る。
保護を受ける。
見返りに従う。
専門家に任せる。
既得権者がその構造を維持する。
違いは、舞台装置が古代から近代へ変わっただけで、本質は同じである。

だから、今日しばしば「ディープステイト」と呼ばれるものも、何か単独の秘密結社の固有名ではない。
それは、責任主体を特定しづらい解釈権と既得権の複合体を、人々が雑に呼んでいるだけだ。
官僚、法律家、学者、メディア、財界、国際機関、プラットフォーム、専門家。
それらが絡み合って、外部の正しさの意味を配給し、人々に従順を要求する。
つまり「ディープステイト」とは、陰謀というより、原罪の制度化された現代名なのである。

そう考えると、責任逃れできる民族は存在しない。
少なくとも、近代文明圏に属し、法治主義と制度と専門性とグロスタの恩恵に乗ってきた者たちに、責任逃れの余地はない。
むしろ、先進国の人間ほど、深く共犯だと言ってよい。
なぜなら彼らこそ、もっとも高度に洗練されたパウロ的制度、もっとも高性能な解釈権文明、もっとも完成された「外部客観への服従」の中で生きてきたからである。

だから、聖書全体が伝えたいことは、一民族の断罪ではない。
もっと苛烈だ。
もっと普遍的だ。
こうである。

人類の原罪とは、外部に正しさの客観を置き、その解釈権へ主権を移譲してしまうことだ。

これが、部族社会では祭司と王として現れた。
帝国では徴税と保護の交換として現れた。
教会では教義と救済の配管として現れた。
近代では法治主義と人権の言語として現れた。
現代ではグローバルスタンダードと専門性の名で現れている。
かたちは変わる。
だが原罪は変わらない。

ゆえに、ユダヤ民族批判は見当違いである。
責められるべきは民族ではない。
主権を外部へ預けたがる人類そのものである。
そして、その人類の縮図を、聖書はイスラエルという物語装置の中に圧縮して見せている。
だから聖書は、民族史である以上に、人類文明の告発書なのである。

ここを読めたとき、初めて原罪論は、神学の眠たい定型句ではなくなる。
それは、いまなお続く文明批判の言葉として立ち上がる。
つまり、原罪とは昔の話ではない。
いまこの瞬間にも、人類が「自分で考える」代わりに、「外部の正しさ」を信じて従っている、その行為そのものなのである。

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