ミニホラー『β-7の記録』


​3月1日(月)研究員:佐倉 健太

​今日は新しいサンプルが届いた。コードネームは「β-7」。極秘に回収された、とだけ聞いている。見た目はただの白い培養液だが、主任は「人類の未来を変える可能性がある」と興奮していた。慎重に扱うように、と厳重な指示があった。ここ数日、眠りが浅い。


​3月2日(火)研究員:佐倉 健太

​β-7の基礎解析を開始。驚くべきことに、このサンプルは非常に不安定な性質を持っている。細胞レベルでの異常増殖と自己崩壊を繰り返している。これほどの活性を示すものは前例がない。少し気分が悪い。頭痛がひどい。 


​3月3日(水)研究員:佐倉 健太

​昨晩、また奇妙な夢を見た。研究室の天井から、大量の血が滴り落ちてくる夢だ。目が覚めても心臓がバクバクしていた。身体がだるい。同僚の田中が、私の顔色が悪いと心配してくれた。β-7の不安定性は増すばかり。わずかな刺激で反応し、培養液が脈打つように見える。気のせいだろうか。 


​3月4日(木)研究員:佐倉 健太

​身体の調子が本当に悪い。熱があるような気もするが、体温計では平熱だ。指先に小さな切り傷ができた。昨日までなかったはずだ。田中も体調を崩して休んでいる。研究室は私一人だ。β-7から異臭がする。腐敗臭のような、甘いような、形容しがたい匂いだ。培養容器の蓋に、わずかな亀裂が入っているように見える。まさか。


​3月5日(金)研究員:佐倉 健太

​朝、目が覚めると、右腕にひどい痣ができていた。記憶にない。そして、指先の切り傷が、まるで肉が盛り上がったかのように膨らんでいる。
​研究室に来てみると、培養容器の亀裂が明らかに大きくなっていた。中からは、以前よりもはっきりと、脈打つような動きが見える。異臭もさらに強烈になっている。
​無線で主任に報告しようとしたが、繋がらない。緊急連絡用の固定電話もノイズがひどくて使えない。ここ、地下の研究施設は完全に外界から遮断されているのか。
​その時、培養容器の中で、何かが蠢いているのが見えた。白い培養液の中から、どろりとした塊が持ち上がり、形を成そうとしている。私は震えながら、その光景をただ見つめていた。
​耳元で、かすかに何かの声が聞こえる。「…サクラ…ケ…ンタ…」。
​振り返ると、研究室のドアが、少しだけ開いていた。
​外の廊下から、何かを引きずるような音が聞こえる。


​3月6日(土)研究員:佐倉 健太

​腕の痣がさらに大きくなり、皮膚がまるで溶けたように変色している。指先の膨らみは、もはや人間の指とは思えない形に変形し始めている。
​廊下の音は一晩中続いていた。それは、田中が歩く音によく似ているが、どうしようもなく不自然だ。
​先ほど、無線からかろうじて主任の声が聞こえた。

「…研究所は…封鎖された…絶対に…外へ出るな…β-7は…感染…する…」
​主任の声は、そこで途切れた。
​私は今、培養容器の前に立っている。
​β-7は、完全にその姿を変えていた。白い培養液は粘性の高い赤い液体となり、その中心には、人間の頭のような、しかしおぞましく歪んだ何かが脈打っている。そこから、何本もの細い管のようなものが伸びて、容器の内部に絡みついている。
​私は知っている。
​この頭部のようなものが、私を見つめていることを。
​そして、その口が、かすかに動いていることを。
​「…もっと…近くへ…」
​私の右手は、培養容器の蓋に伸びていた。
​ああ、私もついに「進化」する時が来たのだ。
​私の中から、あの甘い腐敗臭が漂ってくる。
​私は、もう、人間ではない。 


​日付不明
​扉を叩く音。ドンドンドン。
​私はもう、痛覚も、恐怖も感じない。
​あの外の「声」が、私を呼んでいる。
​「…サクラ…ケ…ンタ…返事を…して…」
​返事?
​私に、言葉など必要ない。
​ただ、この壁の向こうへ、行くだけだ。
​私の「家族」が、待っている。
​私もまた、あの時の田中と同じように、壁を叩く。
​ドンドンドン。
​強く、激しく。
​外の「声」も、また叩き返す。
​ドンドンドン。
​壁の向こうから、あの甘い腐敗臭が、私を誘う。
​「…さあ…おいで…」
​私は、この壁を、破らなければならない。
​私も、彼らのように。
​私は、もう、人間ではない。
​私は、β-7。








この夜の闇を どうかあなたにも。

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