『素敵なテンラクシ』
夜の帳が下りた高層マンションの屋上。風が強く、まるで巨大な手のひらがマミの背中を押しているようだった。
マミはフェンスのぎりぎり内側に立っていた。
眼下には、宝石のように煌めく街の光が広がり、その輝きは、吸い込まれるような深淵を形作っていた。
「テンラクシ……」
彼女は、口の中でその言葉を転がした。
それは、彼女をこの場所へ導いた、美しい呪いの名前だった。
マミの部屋は、このマンションの18階。そこで、彼女は初めてその現象に遭遇した。
ある日の深夜。静まり返った部屋で、マミは耳を疑う音を聞いた。
カラン…
それは、金属の鍵か、あるいは硬貨のようなものが、アスファルトに落ちて跳ねたような、妙に現実的で、しかし不自然な音だった。
マミは飛び起きた。音は、窓の下、遥か遠い地上から聞こえてきた。
しかし、その音は、まるで彼女のすぐ足元で鳴ったかのように鮮明で、耳の鼓膜を震わせた。
その日以来、その音はマミの部屋で繰り返されるようになった。
カラン、キン。
カラン、キン。
最初はただの残響だと思っていた。
しかし、音が鳴るたびに、マミの心臓は地面に向かって引きずり降ろされるような、強烈な重力感を覚えた。
そして、彼女は気づいた。
この音は、単なる落下音ではない。これは、誰かが高所から落ちた時の、最後の音だ。
そして、その音が、何らかの理由で、この18階の部屋に閉じ込められているのだ。
マミは、その音を「テンラクシ」と呼ぶことにした。転落死の音。
恐怖に駆られたマミは、マンションの管理人に相談した。
「最近、このマンションで、何か…転落事故のようなものはありましたか?」
管理人は、冷たい目でマミを見た。
「このマンションは、安全対策が万全です。そのような事故は…ありませんよ。 ただ、 」
管理人は声を潜めた。
「 …この18階の、あなたの部屋の一つ前、1808号室は、数年前に飛び降り自殺があったと聞きました。引っ越しの時に、その話はなかったかな?」
マミの背筋に、氷のようなものが走った。自殺の部屋。あのテンラクシは、その死の残響なのか?
マミは1808号室を調べた。空室のその部屋のドアの前には、誰もいないのに、微かな風の音が常に渦巻いているように感じた。
そして、ある日、マミの郵便受けに、古い写真が一枚投函されていた。
それは、1808号室のベランダから撮影された、夜景の写真だった。
しかし、その写真の右隅には、黒い影が写り込んでいた。
それは、人が落下していく寸前の、ブレた姿に見えた。
写真の裏には、ボールペンで乱暴にこう書き殴られていた。
素敵だ。この音色を止めるな。
その晩、テンラクシの音は、写真から直接響いてくるように、二倍の大きさで鳴り響いた。
カラン、キン!
マミは、もう耐えられなかった。彼女は、音源を突き止め、この部屋から解放しなければならない、という強迫観念に囚われた。
マミは、写真が撮られた場所、そして音が最後に響いた場所を求め、屋上へと辿り着いた。
フェンスの前に立つと、テンラクシの音は、もはや落下音というより、美しい金属楽器の演奏のように響いた。
カラン、キン、リーン。
その音は、マミを誘惑している。この深淵に身を投げれば、この音は永遠に止まるだろう、と。
マミは、ポケットに忍ばせていた小さなものを取り出した。それは、彼女の部屋で、テンラクシの音が鳴るたびに、窓の下で必ず見つかったものだった。
古びた真鍮製のキーホルダー。
多分、転落した人物が、最後に手放したものだろう。
リーン、リーン。
音は、「それを投げろ」と囁いている。
マミは震える手でキーホルダーを握りしめ、フェンスの向こう側、漆黒の虚空に向けて、思い切り放り投げた。
カラン、キン!
テンラクシの、最高のクライマックスが鳴り響いた。音は、かつてないほど大きく、鮮明で、そして、甘美な解放感を伴っていた。
音は、ピタリと止んだ。
マミは安堵で膝から崩れ落ちた。終わった。呪いから解放されたのだ。
しかし、その時、背後から、拍手が聞こえた。
パチ、パチ、パチ。
マミが振り返ると、そこに立っていたのは、マンションの管理人だった。彼は、冷たい笑顔を浮かべている。
「見事な音色でした。さすがは、1809号室の音だ」
「な、何のことですか?」マミは声を絞り出した。
管理人は、マミが立っていたフェンスの前に、ゆっくりと近づいた。
「テンラクシですよ。転落死の音のコレクション」
彼はそう言うと、フェンスの柱に、古びた真鍮製のキーホルダーを、まるで飾るように静かに引っ掛けた。
「あの1808号室の自殺は、確かに最高のコレクションでした。あの『カラン、キン』という音は、我々には欠かせない」
管理人は、屋上の隅に置かれた、小さな木製の箱を指差した。その箱は、以前のマミの部屋に置かれていた、あの テンラクシの箱 に酷似していた。
「そして、私は気づいたのです。音源が別の部屋の住人に憑依するたびに、音色はさらに美しく、深みを増す、と」
管理人は、マミに向き直り、素敵な、歪んだ笑顔を見せた。
「君は、その音に魅了され、音源を外に出そうとした。最高の演奏家でしたよ、マミさん」
彼の視線は、フェンスを乗り越えて、空中に浮いている何かに向けられていた。
「さあ、君の『テンラクシ』を完成させよう」
カラン、キン。
管理人のポケットから、古びた真鍮製のキーホルダーが、もう一つ、音を立てて落下した。
しかし、それは、地面に届くことなく、宙で止まった。
マミは、自分が、自分の部屋の窓の外に立っているような、強烈な錯覚に襲われた。体は、重力に逆らえず、眼下の光の深淵に、引きずり降ろされていく。
そして、夜の街に、二つ目の、新しいテンラクシの音が響き渡った。
それは、マミの絶望と、アスファルトに激突する体の、最後の、甘美な調べだった。
完
この夜の闇を どうかあなたにも。
