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短編ミステリー「ホワイトキューブの悪魔」 第4話

第1話はこちらhttps://note.com/why_narab/n/n05f1b885d6cf

 第二展示室の様子は、BGMが静寂に変わったことを除けば事件当時のままだ。
 自分達はヤスミンの展示を裏側まで覗く許可を得たのだと気づき、眞維子は密かに高揚する。それどころではないのだと自分に言い聞かせ、まずは死体に近寄った。
 女の死体が横たわるのは、劇の大道具にでも使われていそうな、高さ三メートルほどの階段のそばである。さらに言えば階段の正面ではなく、側面。
 ……あの轟音は、女の体が階段の側面から落下した音だったのだろうか?

 眞維子は階段を上った。その最上部、絵の女がいた場所に立つと、自身がヤスミンの作品世界に取り込まれたかのように感じられる。
 階段の三方には胸くらいまでの高さの手すりがあり、その下半分は板で覆われている。安全性の確保のためか、単に見栄えのためか。
 眞維子の身長は女性としては高い一六五センチ。死んだ女はすらりとしていたが、眞維子より高いとしてもせいぜい数センチだろう。自然に落下するとはとても思えない。
 やはり彼女は誰かにここから落とされたのだ。そう結論づけ、女を殴りつけた凶器が階段上部にないかと見回した。が、凶器はおろか、血痕ひとつ見つけられなかった。

「何か見つかった?」
 階段を降りるなり高柳が尋ねてきた。
「何も。あそこから自然に落ちることはなさそうだ、ってことが分かったくらいです」
 正直に答えると、高柳は「そう」と短く言って、立ち尽くす男二人を見た。
「赤井坂さん。お医者さんならご遺体には慣れていらっしゃるわよね? もう一度きちんと調べてみてくれない?」
 言われるがまま、赤井坂は再び死体の傍にしゃがみ込んだ。「失礼します」と遠慮がちに言ってから、女の見開かれた目をそっと閉じる。
 眞維子も姿勢を下げ、幾分穏やかになった死体の顔を覗き込んだ。
 ファンデーションこそ濃くないが、かなりしっかり化粧をしている。スポットライトの下で映えさせるためか、切れ上がった目尻には鋭さを強調するようなアイラインが引かれ、細い鼻筋にも強めのシェーディングが施されている。しかしそんな彩りがなくとも、この女は整った美しい顔立ちをしていたはずだ。
「ひとまず、この女性が絵のモデルなのは間違いなさそうですね」
 赤井坂が神妙な顔で告げたのは、誰の目にも明らかな結論だった。
「よくやるよ。ご遺体なんざじろじろ見て」
 恐る恐るといった様子で死体を眺め始めた上津が、すぐに「おい見ろ」と大声を上げた。「遺体の耳元だ。ピアスがなくなってるぞ」
「ピアスですか?」
 眞維子には今ひとつぴんと来なかった。赤井坂と高柳も黙ったままだ。
「見てなかったのか。この人が階段の上にいたとき、耳にピアスが光っていただろ」
 補足するも、誰ひとり同意してくれないと見るや、「本当だって。俺の視力は二・〇なんだ」と不貞腐れてしまった。
「私はそこまでよく見ていなかったけれど、その話が本当だとして、それはつまりどういうことなの?」
「それはですね、高柳さん。……遺体の耳からは、生前あったはずのピアスが消えている。何故か? 犯人が奪い去ったからですよ。ということは、持ち物検査をすりゃあ犯人が分かるってことです」
「なるほどね。ご遺体の耳には、ピアス以前にピアス穴もないけれど」
 高柳にやんわり否定され、上津は得意げな顔を引きつらせる。
 眞維子は上津のことをあまり良く思っていない。とはいえ、女の耳に光を見た記憶はかすかにあったため、「ピアスじゃなくイヤリングをしていたのかもしれませんね」と、助け船のつもりで口を挟んだ。「イヤリングは簡単に外れてしまいますから、落下の衝撃で飛んでいっただけじゃないでしょうか。元々どうとでも隠せる大きさのものですし、持ち物検査で見つかるとは思えませんね。飲み込むとか、下着の隙間に隠すなんて方法も考えられますし」
 見れば、上津の頬がぴくぴく動いている。恥ずかしさからか、怒りを押し殺しているのか……どちらにせよ眞維子は、自分が思いがけず彼にとどめを刺したことを察する。
「でも、調べてみる価値はありますよね。やってみましょうか」
 フォローのつもりで明るく言うと、赤井坂・高柳ともにあっさり同意した。

 そうして四人はお互いの荷物を公開し合ってみたが、案の定イヤリングなど見つからず、凶器とできそうな鈍器の類も出てこなかった。成果といえば、それぞれの運転免許証を見せ合うことで、四人の顔と名前の一致が確認できた程度か。
「本当に、皆さ……いえ、僕達四人の中に殺人犯がいるんですかね」
 何気ない赤井坂の言葉に、室温が二度ほど下がったように感じられた。

 しばし続いた沈黙に耐えかね、眞維子は階段の脇にある、件の女の絵を眺める。
 薄暗い部屋で一人佇む、だぼついた黒いローブを纏った女。……中世の魔女のようだが、長く見つめていると、魔は魔でも悪魔に魅入られた気分になる。
 古来、美術作品に魅入られた者が起こした事件は数多い。一個の絵画や彫刻さえそんな魔力を持ちうるのだ。ならば作品のみならず、調和した装飾や音響、時には香りすら操って五感に訴えかけてくるヤスミンの展示には、どれほどの力が宿るのだろう。
 描かれた女の、こちらを見るわけでもない自然な眼差しに、何故か恐怖を感じた。
 ふと、初めてこの絵と出会った昨冬の記憶が蘇る。あのときもまず女の視線に目を惹かれた。
 自らの姿をとらえようとする画家あるいはカメラへの緊張など一切感じさせない、あまりに自然で凛とした眼差し。これを見て、眞維子はこの女こそヤスミン本人、あるいはヤスミンと非常に親しい人物に違いないと直感したのだった。 
 直感は今日、生きて動くモデルの女本人を前にして確信に変わった。まるで絵画の世界から抜け出してきたような人物だった。ヤスミンはそれほどまでに、完璧に彼女の特徴を理解していた……
 そこで気づく。
 絵の女の耳にはイヤリングなどない。ピアス穴もだ。上津はもっともらしい嘘をつくことで、自分を犯人候補から外そうと目論んだのだろうか?
 しかしやはり眞維子自身も、階段上の人物の耳元に光を見た気がする。記憶をたどるが、何か思いつきそうで思いつけないもどかしさが募るばかり。

 目先を変えようと、俯瞰した姿勢で再度死体を眺める。
 死体の主はセミロングの黒髪の女だ。六センチ程度のヒールのあるパンプスを履いている。時代錯誤な黒いローブをまとっているが、その下の衣装にまではこだわらなかったようだ。床に無造作に広がったローブの隙間から、下に着たブラウスやタイトスカートといった現代的な衣服が覗いている。

「ご遺体ばかり見ていても埒があかない気がするわ。一旦そこから離れて、事件発生時の状況を確認し合ってみるのはどう? あの暗闇の中で何が起こったのかを改めて考えるの」
 早くも行き詰まっていた眞維子は、大人しく高柳の提案に頷いた。上津も当然のように従う。
「高柳さんの言う通りだ。……じゃあ赤井坂君、あんたが順を追ってまとめてくれよ。俺達が第二展示室に移動した後、ご遺体を発見するまでに起こったことについて」
「急に馴れ馴れしいですね。なんで僕がそんなことしなくちゃならないんですか」
「だってあんた、さっきから何の意見も言ってないだろ。ちょっとは役に立てよ」
「そうですけど、今のところ誰の意見も役に立ってはいないと思いますよ」
 また言い争いが始まりそうだ。やむを得ず、上目遣いで口を挟んだ。「わたしからもお願いします。わたしはすっかり展示に見惚れていたので、記憶に自信がなくって」
「僕だってそうですけどね。何しろ、あんなに魅力的な人物画を見たのは初めてでしたから。演出もやたら凝っていましたし」
 赤井坂は呆れた風に一度息を吐いてから、ようやく話し始めた。

「……僕も成河さんと同様展示に見惚れていたとき、階段上にこの女性が現れました。見ての通り僕は近視ですから、イヤリングの有無までは分かりませんでしたね。そのうち照明が落ちて、部屋は真っ暗になりました。体感で五分くらいでしたか? 思えば、その間にもみ合いのような音がした気もします」
「外へ続く扉は階段の真向かい、わたし達から見て左斜め後ろの位置にありました。もし暗闇の中で開けば、階段に向かって差し込む明かりに気づいたはずですよね」
「私は気づかなかったわ」
「俺も。照明が落ちてからまた点くまで、部屋に人の出入りはなかったってことか」
 照明は紫がかっていたとはいえ、かなり明るかった。点いている間であれば、誰かが密かに部屋を出入りすることもできたかもしれないが……
「つまり、事件が暗闇の中で起こった以上、犯人はやっぱりわたし達四人の中にいるということになってしまいます」
「でも、思えば僕達にだって無理ですよね。暗闇の中こっそりあの人に近づいて、殺害するなんて。階段を上るどころか、机やら何やらをかいくぐる間に二、三度転んでしまいそうです」
 赤井坂の言う通りだ。暗闇の中で作品群や家具が並ぶ一帯を通り抜け、さらには階段上の人間を殺害して床に落とし、再び照明が点く前に元の位置へ戻る……あまりに無茶な行為ではないか?

 眞維子は目を閉じ、当時の状況をより詳細に思い出そうと試みる。
「いや」と呟いて目を開けると、赤井坂と上津が探るような視線を向けていた。
「今、少しシミュレートしてみたんですが……わたしならできるかもしれません。決してわたしがやったわけではないんですけど」
 二人の男の口から訝しげな声が漏れる。
 この部屋の展示物の配置には見覚えがある。昨冬の展示のことを奥行きに至るまで鮮明に思い出せる自分なら、暗闇の中犯行に及ぶことも可能だったかもしれない。眞維子はそう考えたのだ。そして、同じことは他の三人にもいえるはず。
「風間さん、質問してもいいですか。あなたはわたし達のことをよくご存知なんですよね? ひょっとして、展示の来場歴なんかも把握されているんじゃないですか」
『だいたいは。皆様は展示にいらっしゃるたび、まめにお知らせくださっていましたからね。会場で直接ご挨拶いただくか、芳名帳にご記名いただくかの方法で』
「だったら……ここにいる皆さんが、今日と同じ作品群で構成されていた、あの昨冬の展示に来ていたかどうかを教えてください。あの展示の奥行きを体で覚えている人なら、暗闇の中でも人を殺せたかもしれませんよね」
「そんな馬鹿な。できるわけないだろ」
 頭ごなしに否定する上津を無視して、耳を澄ます。
『あのときの芳名帳なら手元にありますので、確認できますよ。……皆様いらっしゃっていますね。回数は高柳様が一回、他のお三方が三回。どうもありがとうございます』
 苦笑いが漏れた。全員ヤスミンに思うところがあるくせに、展示にはしっかり顔を出しているというわけだ。それも高柳以外は三回も。
「僕も上津さんに同意しますよ。展示を見たことがあるくらいで、暗闇の中を自由に動けるはずがない。ましてや人を殺すなんて」と、赤井坂も否定する。

 試してみたほうが早いと、眞維子は早歩きで第二展示室の入口まで移動し、目を閉じてから再び階段に近づき始めた。
 想像の世界で大きなテーブルの前に辿り着いた彼女は、向きを九〇度変えて回避しようと試みる。しかし実際のところ、踏み出した右足の先にこそその障害物は存在していた。勢い余って右脛をぶつけてしまい、思わずうずくまる。
 言わんこっちゃないとばかりに上津が吹き出した。眞維子が何か言い訳をしようとしたところで、風間の声が響く。
『実は、昨冬の展示と今回とではセットの配置が微妙に違います。購入された作品は全て、コレクターの方々のご厚意で再度ここに集められたのですが……昨冬の会期中、盗難に遭った作品が一点ございまして。それがないのもあって、配置を改めて検討することにしたのです』
「なら先に言ってくれ」という台詞を、眞維子は息と共に飲み込んだ。
 そうだ。昨冬の展示で見られた、ヤスミンの作にしては粗削りで、だからこそ特別な価値が感じられた彫刻作品『習作Ⅰ』。ここにはあれがないのだった。
「つまり、お嬢さんの言う方法は無理ってことね。残念」と、高柳がさほど残念でもなさそうに言った。
「昨冬の展示を一度しか見ていないのは私だけだったのに。そもそも、私には殺人なんて体力的に無理だけれど」
 眞維子は小さく唸る。
 ……上津や赤井坂は平均的な成人男性より体格が良く、女性ひとりを殺害するくらい簡単にできそうだ。しかし一五〇センチ程度の身長しかない高柳には、ヒール込みで自分より約二〇センチ背の高い女の頭を殴ること自体が難しいだろう。

『成河様、そんなに痛みますか』
 風間の声で我に返り、「大丈夫です」と強がる。
 すぐに床に手をついて立ち上がろうとしたが、その拍子にあるものが目に入った。
 死体の下にうっすらと引きずったような血痕がある。それは階段の下まで伸びて、そこで途切れている。
 勢い良く立ち上がった眞維子は、足の痛みも忘れて階段に駆け寄った。そして迷わず、その側面を覆う、石造りの質感を演出する布らしきものに手をかける。
 上津か赤井坂の声が聞こえた気がしたが、構わず一気に引きはがした。

「これは……」
 眞維子の呟きと、誰かの声が重なった。
 血痕の続く先――階段の側面には、人が二、三人身を隠せそうな広さの空洞があったのだ。故意に作られたものというよりは設計上の産物に見えたが。

「代理人! 階段に妙な空洞があるぞ。しかも血痕がそこへ続いている。もしかすると、犯人はこの空洞に隠れていたんじゃないか? だったらそれは俺達以外の誰かだ」
 言い終えた途端、上津はぎょっとしたように目を見開いた。
『ふうん。それで……あなた方以外の誰が、犯人になりうるのですか?』
 風間の声がひときわ冷たく感じられた。
 黙り込む上津の代わりに、「例えば、風間さん自身ですよね。……でもそれなら、何故捜査の真似事なんてさせたんでしょう。僕達これからどうなるんでしょうか」と、赤井坂がしどろもどろになりながら答える。
「落ち着きなさいな。風間さんは照明が点いた直後、あなたの言葉に返事をしていたでしょう? つまり、あのときは管理事務室にいらっしゃったのよ」
「あ。確かに、僕が死亡確認をしたときには反応がありましたね」
「そう。彼があの空洞に隠れていたなら、そのときまでにこっそり部屋を移動するのは不可能よ。そもそも犯人があそこにいたとして、それでどうしてあんな風に、引きずったような形の血痕がつくの?」
「わたしも妙だと思います。血痕のこともそうですが、風間さんが犯人だとしたら、いよいよこの状況を作り出した意味が分かりません。どうしてこんな茶番を……」
 何気なく言いかけて、突如ひらめいた。

 茶番? その通りだとしたらどうだろう。今自分達が置かれているこの状況が、風間によって用意された茶番だとしたら。彼の目的はひょっとして……

 眞維子は死体へ駆け寄り、服装、体格、血の気の失せた顔を念入りに確認した。結果、自身の突拍子もない説こそが真実であるという確信を得る。
「どうしたんですか。急に走り出して」
 赤井坂が訝しげに尋ねた。
「分かったかもしれません。事件の真相……この美術館でいったい何が起きたのか、あるいは起きているのかが」


次話
https://note.com/why_narab/n/nf0609296e7a2

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