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この裏切りは、君を守るため 第66話

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第7章 誰も私たちの知らない場所へ

4 『ロッタの冒険』

「レイシー?」
 ファンローゼは目を見開き、その名を呟く。
 長い間忘れていた名であった。
 遠い記憶の底に沈んでいたレイシーという名が、ゆっくりと意識の表面に浮上していく。
 目の前にいるクレイが、あのレイシーだった。
 いったいどういうことなのか。
 困惑するファンローゼに、コンツェットは説明をする
「クレイ(Cray)、キャリー(Cary)、レイシー(Racy)、これらの名前はアナグラムだ。クレイは、子どもの頃クルト・ウェンデルの読書会にいた、あのレイシーだった」
「やっと、僕のことを思い出してくれたね。そう、幼い頃クルト・ウェンデルが主催する読書会に来ていた少年レイシーは僕」
「そんな……クレイ、あなたがレイシーだったなんて」
 レイシーの面影を思い出す。
 いつも部屋の隅に座っておとなしく本を読んでいた少年。話しかけても、なかなか打ち解けようとせず、心を開いてくれないかと、何度もあきらめずに声をかけた。
 初めてレイシーが笑ってくれたときは嬉しかった。
 あの時の少年がクレイだった。そして、スヴェリアの町で親切にしてくれた、花屋のクレイの本当の正体が、エスツェリア国の軍人。
「まさか、あの時の気弱そうな少年がこうしてエスツェリア軍の、それも諜報部のエリートになって再会するとはな」
「それを言うならコンツェットもだよ。君がエスツェリア軍に入隊していたとは驚いた」
 クレイは目を細めにっと笑う。
「もっとも、あんな条件を突きつけられたら、断ることなんてできないよね。僕だって君と同じ選択をする」
 コンツェットは苦々しい表情で、奥歯をきつく噛みしめる。
 さすがは諜報部の、それもすべての情報を握る〝キャリー〟。コンツェットが軍に入った経緯まで把握しているということか。
「選択? コンツェットどういうこと?」
「おや? 聞いていなかったの。この男は、君が軍の追跡に怯えることなく、心穏やかに暮らせる条件と引き換えに、自分が敵国の軍に入ることを受け入れたんだよ」
「コンツェット……そんなことがあったなんて……私……」
 ごめんなさい、とファンローゼはコンツェットの背にしがみつく。
「いいんだ、僕が望んだことだから」
 肩越しに振り返り、コンツェットは笑いかける。
「それにしてもファンローゼ、君なら僕のことに気づいてくれると期待していたんだけどな」
「私が?」
「君が大好きだった本『ロッタの冒険』を覚えている?」
 子どもの頃、大好きでよく読んでいた本だ。
 それがどうしたというのだろ……う。
 ファンローゼは息を飲む。その表情は何かを思い出したという顔であった。
 あの時の記憶がよみがえる。
 ファンローゼはレイシーとこんな会話を交わした。

『ロッタの危機を何度も救ってくれた親友が、実は敵の魔法使いだったってことも驚かされたわ』
『親友と敵の魔法使いの名前が、アナグラムになっていたね』
 そう、とクレイは声を落とす。
「なのに、君は記憶を取り戻しても、僕のことを思い出してはくれない。ずっと側にいたのに。僕がアップルパイが大好物だと言っても、気づいてくれなかった。寂しかったよ、ファンローゼ」
 クレイの碧い瞳が悲しげに揺れる。だがそれも瞬時のこと。
 再びクレイの目に狂気の影が走る。
「それでコンツェット、君はいつ僕のことに気づいた?」
「ああ、ファンローゼからクレイという男の話を聞き、いろいろ不可解な点があったことに引っかかった。そして、なぜキャリーが本部に捕らえられたファンローゼの身柄を引き渡せと要求してきたのか」
「本部にいれば、捕らえられた組織の奴らと同様、彼女は殺される可能性がある。たとえ殺されるのを免れたとしても、拷問を受ける場合も。だから、僕の権限で諜報部に呼び寄せ、保護しようと思った」
 エスツェリア軍に捕らえられた彼女の身柄を〝キャリー〟が引き取ると言ったのは、このためであった。
 クレイはファンローゼに微笑む。
「忠告したよね。アジトに戻ってはいけないと。まあ、予想はしていたが」
「そして俺はおまえの経歴書に書かれていた名前を見て気づいた。名前の綴りに。それで確信した」
 ロイから、クレイの経歴書を受け取ったコンツェットが、肩を震わせながら笑っていたのはそういう理由であった。
 クレイはくつりと笑い、コンツェットはこぶしを震わせる。
「なぜだ。クルト・ウェンデルを殺害し、その娘であるファンローゼを軍に引き渡すかと思えば、実際はそうはしない。けれど彼女を翻弄する。おまえはいったいファンローゼをどうしようとしている。いや、どうしたいんだ」
 クレイは戯けた仕草で肩をすくめた。
「そんなこと聞くまでもないよ。彼女を僕のものにしたい。ただそれだけ」
 ファンローゼはコンツェットの腕にしがみついた。
 大丈夫だよ、というようにその手にコンツェットの手が重ねられる。
「幼い頃からずっと彼女だけを見てきた。いつかこの手で抱きしめ、僕だけのものにしたいと思い続けていた。それが望みだ」
「幼い頃から?」
 ファンローゼは声を震わせた。
 長話になるね、とクレイは銃を持つ手をいったん降ろす。
「クルト・ウェンデルの読書会で初めて出会ったその時から僕は一目で可愛らしい君を大好きになった。子どもたちの輪に入ろうとしない僕を、君は気にかけ一生懸命みんなと打ち解けさせようと心を砕いてくれた。そんな君が可愛らしく微笑ましかった。だけど君にはコンツェットという幼なじみがいる。邪魔な男だと思ったよ」
 クレイはコンツェットを睨みつける。

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