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ルミナール戦記 外伝―救済という名の呪い― 第10話「器」


メイサ・ヴァルキリー
救うたびに、私は人間から遠ざかっていく。

前回のお話


第10話「器」

午後三時。
独房棟の重い鉄扉が開いた瞬間、カニンガム大将の鼻腔を突いたのは、冷たい消毒液の匂いだった。

好ましい匂いではない。彼はわずかに眉を寄せた。

「大将閣下。対象、最深部独房に在室。執行準備、完了しております」

随伴の参謀の報告に、カニンガムは短く頷いた。
一歩、一歩、確実に。
革靴の音を無機質な廊下に響かせながら、彼は最奥の扉へと歩き始めた。手にした革の鞄には、S級能力者一名分の、神経再構築の執行書類が入っている。

歩きながら、症例第一号から第六号までの記録を、頭の中で整列させていた。

成功率、八十三パーセント。
成功した個体は、残らず命令の通りに動いた。
失敗した個体の記録もまた、彼の頭の中にある。

症例第二号、分類上はA級風使い。
一度目の施術には耐えた。
だが二度目を目前にして、自らの脳を電気的に焼き切り、瞳から煙を上げて死んだ。

症例第五号、B級水使い。
命令を理解しない個体になり、廃棄処分まで七週間、自分の名前だけを繰り返し呟き続けた。最後の発声記録は、自分の名前ですらなく、母音の連なりだった。

成功と失敗の境目には、論理的な説明が、まだついていなかった。
ついていないままで、彼らはメイサにそれを行う。
偶発的に発現したものを、人工的に組み替える。設計図のないものを、設計図に従わせる。それが彼の数年間の仕事だった。

——だが、彼女は八十三パーセントの方に入る。
カニンガムはそう演算していた。

演算は確率であって確信ではない。だが彼は、この五年間、確率と確信の区別をつけることをやめていた。区別をつけてしまえば、自分が日々、何をしているのかが見えてしまう。

独房の扉の前で、彼は立ち止まった。
扉に手をかける前に、白いハンカチでもう一度手を拭いた。
彼はまだ、何にも触れていなかった。だが、彼の手はすでに、メイサの匂いを纏い始めている気がした。

扉が開いた。


メイサは窓辺から振り返った。
軍服。結い上げた髪。詰襟のホック。
軍規通りの、完璧なS級・大佐。

その姿に、カニンガムは予想していた抵抗の姿勢を見出さなかった。
彼の頭の中で、想定の一つが消えた。

「大佐」

「大将閣下」

メイサは敬礼した。動作に乱れはなかった。

カニンガムは革の鞄をテーブルに置いた。留め金を開けた。中から薄い書類を取り出し、件名の側をメイサに向けて、テーブルの中央に置いた。

〈神経再構築計画(ニューロ・リコンストラクション)・症例第七号〉

メイサの目が、件名で止まった。
彼女はゆっくりと視線を上げた。
カニンガムを見た。

——その時。
カニンガムは、わずかに息を止めた。

彼女の蒼い瞳の奥に、戦闘時のグリッド線は走っていなかった。だが、走っていないということが、彼にとっては別の脅威だった。

彼はこれまで、戦闘時のメイサを何度も観測してきた。グリッド線が走る瞳。削除点を演算する瞳。
あの瞳は、人間の悲鳴を「処理対象」として、整然と処理する瞳だった。

その瞳は、まだコントロールできた。
なぜなら、それは彼が組んだ運用プログラムの想定範囲内だったから。

今、彼女の瞳には、グリッド線が、ない。
代わりに、人間の女性の、静かな視線がそこにある。
その視線は、彼が組んだ運用プログラムの中には、なかった。

想定の、外。
部屋の温度が、わずかに変わった。
いや、変わったのではない。彼の襟首の汗が、変わったと教えた。

戦場の指揮官だった頃に何度か覚えた感覚——敵の主力部隊が予想外の方角から現れた、その瞬間の、肩甲骨の間の冷え。

ただし、今は戦場ではない。独房だ。彼女は抵抗の姿勢を見せていない。武装も解除されている。
なのに、彼の脊椎が、まっすぐ立つことを拒んでいた。

——FR、計測不能域。
彼の頭の中で、観測車が叫んだ過去の通信が、勝手に再生された。

『十万を超えた……計測不能だ!』

その数字が、今、目の前で、軍服を着て、立っている。
戦闘装甲を纏わず、ただの詰襟の軍服で。
なのに、纏っている時より、危険に見えた。

「閣下」

メイサが口を開いた。
その声は静かだった。怒りも、懇願も、混じっていなかった。
ただ、彼女が口を開いただけで、部屋の空気がわずかに重くなった。

カニンガムはそれを耳の奥で感じた。気圧が、ごく僅かに下がった気がした。
大気のイオン濃度が変化したわけではない。物理的には、何も起きていない。
だが、彼の鼓膜は、何かが起きたと訴えていた。

「一つ、お願いがあります」

「……言いたまえ」

彼の声がわずかに掠れた。
掠れたことに、彼自身、驚いた。

「補給兵が一人います。ラトという、十九歳前後の男です。彼は私の運用に関与していません。完全に、無関係です」

「無関係ならば、どうした」

「無関係のまま、置いていただきたいのです」

メイサの声は平坦だった。

「私が執行を受けた後、彼に何かが起きないように。観察も聴取も不要です」

カニンガムはしばらくメイサを見ていた。
それからゆっくりと、首を横に振った。

「大佐」

彼の声は、説教壇に立つ司祭のように静かだった。
その静けさは、戦場で兵を死地に送る時の、彼自身の声に似ていた。

「君は、思い違いをしている」

「……」

「組織が、無関係なものを、無関係なまま放置することはない。なぜなら、無関係というのは、観察の上で初めて成立する判定だからだ。観察せずに無関係と決めることは、組織の論理にはない」

彼はテーブルの書類を、指先で軽く撫でた。

「補給兵が、君の感情に関与した。報告書に上がっている。報告書に上がった以上、彼はすでに変数だ。変数を、そのままにすることはできない」

メイサは少しの間、黙った。
それから、ゆっくりと言った。

「閣下。彼は、私が初めて、〈削除点〉として演算しなかった人間です」

彼女の声は、依然として平坦だった。

「彼を変数のままにしておくことは、組織にとって不利益かもしれません。ですが、彼を消すことは——私という個体の、初期化を意味します」

カニンガムは、その言葉の意味を、二度演算した。
彼女は脅していない。だが、述べている。

ラトを失えば、メイサは「彼を演算しなかった以前の自分」に戻る。グリッド線の走る瞳に戻る。削除点を演算する瞳に戻る。

そして、その瞳は、もはやコントロールできない。
なぜなら、コントロールしてきたのは、彼女が「演算しなかった一人」を抱えていたからだった——という事実を、カニンガムは、今、初めて知った。

知った瞬間、彼の頭の中で、数年間の運用記録が、一斉に意味を組み替えた。

ラトは、変数ではなかった。
ラトこそが、定数だった。
メイサが暴走しないための、唯一の、定数だった。

そしてカニンガムは今、その定数を、変数として処理しようとしていた。
演算結果は、明らかだった。

——彼を消せば、彼女は戻る。戻れば、セラフィール港は消える。
メイサはもう一度、口を開いた。

「彼の名は、ラト。姓は、知りません」

その声は、依然として静かだった。
脅していなかった。要求もしていなかった。ただ、もう一度、名を繰り返しただけだった。

なのに、その名が部屋に響いた瞬間、カニンガムの背骨を、冷たいものが、頸椎から仙骨まで、一気に駆け下りた。

——その時。
メイサが、ほんの少し唇を動かした。
声にはならなかった。

だが彼には、はっきりと見えた。

 〈もう、遅い〉

唇は、そう形作っていた。
彼女は続けて、声を伴って言った。

「閣下。お好きなように、なさってください」

降伏の声ではなかった。譲歩の声ですらなかった。

「私の脳を、再構築すればいい。神経を、組み替えればいい。記憶を、書き換えればいい」

彼女の蒼い瞳が、まっすぐ彼を見ていた。

「ただ——閣下が、いま、手に入れようとしているのは、器だけです」

器、だけ。
彼は頭の中で、その単語を二度繰り返した。

「中身は、すでに別の場所にあります。閣下の権限の届かない場所に」

彼女はわずかに息を整えた。怒っていなかった。誇ってもいなかった。事実を述べていた。

「だから、執行を受けます。器の所有権は、もとから私のものではなかった。お好きにどうぞ」

彼は答えなかった。答える言葉が、なかった。
彼の頭の中の表は、抵抗と服従の二列で出来ていた。メイサは、そのどちらの列にも入っていなかった。

彼が組み替えるのは神経だ。組み替えられないのは、その神経が「誰のもの」かを決める権利だった。
彼女はその権利を、すでに、彼の手の届かない場所に移していた。

いつから——彼は考えた。答えは出なかった。

「記録から、外す」

彼は言った。声を平坦に整えるのに、力が要った。

「観察も聴取も行わない。補給兵ラトの名は、本日以降の報告書から削除する。私の権限で約束する」

言いながら、彼は知っていた。
この約束は、参謀本部に上げれば三日で覆る。書類上の権限など、そう簡単に通るものではない。

だが、今この瞬間、自分がそう言わざるを得ないということが、すでに、答えだった。

「ありがとうございます」

メイサは深く頭を下げた。
その動作の中に、軍人の敬意は、なかった。
代わりに、別のものがあった。

何か——彼の語彙にない、別のものが。

「執行は、隣室で行う。三十分、準備の時間を与える」

「ありがとうございます」

彼は革の鞄を提げ、扉へ歩いた。
扉の前で、一度立ち止まった。振り返らなかった。

「大佐」

「はい」

「……」

言葉が、喉のところで止まった。
——君は、立派な、軍人だった。
その言葉が、用意されていた。出てこなかった。

数年間、彼は彼女を「資産」「投資先」「個体」と呼んできた。今、そのどれもが、口の中で輪郭を失っていた。

いや——一つだけ、語彙があった。執行報告書の末尾に、彼が幾度も書いてきた単語。

 〈不確定要素(バグ)〉。

効率化の妨げになる、計算不能な揺らぎ。彼が数年間、システムから一つひとつ削除してきたもの。
それが、今、軍服を着て立っていた。

削除すればするほど、それはシステムのどこかに、別の場所を確保していた。そして彼が削除に費やした数年間は、そのまま、彼女がその「別の場所」を整える数年間でもあった。

彼は、敗北を、認識した。
恐怖ではなかった。恐怖であれば、まだ理解できた。

これは、敬意に近い何かだった。
自分が人生をかけて削除してきたものに対して、自分が今、敗北したという——それだけの、静かな認識だった。

彼の指が、ドアノブで一度、滑った。
彼は二度目を、丁寧にやり直した。

扉を開けた。
扉を閉めた。
廊下に出て、彼は隣室の方向を見た。

あと三十分で、彼は症例第七号の執行命令にサインする。サインする手は、震えないだろう。数年間、震えたことがなかった。

だが、サインの後、その書類を、自分が、どの語彙で呼ぶのか。

それが、彼には、まだ、分からなかった。


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