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ルミナール戦記 外伝―救済という名の呪い―第3話「百ギルの体温」


メイサ・ヴァルキリー
救うたびに、私は人間から遠ざかっていく。

前回のお話


第3話「百ギルの体温」

南進する大陸横断鉄道、
特別装甲列車『レイル・ガリア』。

メイサは、外界から遮断された特等客室にいた。
特等、とは名ばかりの独房だ。
壁の四隅で、赤い光点が等間隔に瞬いている。彼女が瞬きをするたび、その明滅がわずかに乱れた。脳波。体温。残留電磁波。眠ることすら、誰かの帳簿に記録されている。

強制冷却の余波で、指先の感覚はまだ戻らない。

メイサは窓の外を眺めていた。
カイリオンの摩天楼は遠ざかり、視界は荒廃した赤茶けた荒野へと変わっていく。

(……海を、沸かす)
そのために、自分は運ばれている。
巨大な貨物か、あるいは爆弾のように。

ふと、昨日の戦場が脳裏をよぎった。

(三千)

昨日、自分が消した戦車の数。
帝国の『鋼鉄の潮流』が、なぜあんな密集陣形で進軍してきたのか。
対S級戦で常識とされる散開戦術を、なぜ取らなかったのか。思えば、不自然だった。

(……まあ、いい)

考えるのをやめる。
それが、考えることをやめた人間の、唯一できる仕事だった。

不意に、部屋の扉がノックされた。
センサーが「許可された入室」を感知し、ロックが解除される。

「失礼します。夕食をお持ちしました」

入ってきたのは、見慣れぬ若い兵士だった。
年の頃はメイサと同じか、少し下だろうか。
エリート揃いの参謀本部とは対照的な、サイズの合っていないぶかぶかの補給兵の制服。
その手には、不格好なアルミ製のトレイが乗っていた。

妙に落ち着いた声だった。
新兵にしては、震えていない。

メイサは無言で彼を見た。
その視線には、無意識に「敵対勢力の排除」のための演算が含まれている。

計測値:脅威レベル、ゼロ。
筋肉量、不足。
戦闘技能、未習得の可能性大。
演算結果は『無価値』。

だが、少年はメイサの放つ威圧感に怯える様子もなく、トレイをテーブルに置いた。

「今日は南部名物のポトフです。ジャガイモ、昨日より一ミリくらい大きいですよ」

少年は、誇らしげに笑った。

メイサは困惑した。

「……あなた。私が誰か、知ってるの」

少年の動きが止まる。彼は少し考えた後、人懐っこく首を傾げた。

「ええ。メイサ大佐ですよね。軍のポスターで見ました。……でも、今は『お腹を空かせた乗客』だと聞いてます」

「乗客」

「はい。補給兵にとって、トレイを運ぶ相手はみんな平等に『お腹が空いた人』です。あ、ラトっていいます。よろしくお願いします、大佐」

メイサは言葉を失った。
この少年には、カニンガムのような畏怖も、前線の兵士のような狂信もなかった。
そこにあるのは、メイサが何年も前に忘れてきた、あまりに「普通の体温」だった。


トレイの上には、湯気の立つスープと、一切れの硬そうなパンが乗っていた。

メイサは震える手でスプーンを握った。
指先が上手く動かず、金属音がカチカチと虚しく響く。

「……手が、動かない」

メイサが呟く。
冷却溶媒に凍らされた感覚は、まだ彼女を縛っている。

「ああ、冷却明けはきついですよね」

ラトは当然のようにメイサの隣に座った。
そして、彼女の右手にスプーンを握らせ、自分の手を添える。

「な……何をしてるの」

「リハビリですよ、これも。大佐の手は、世界で一番高い手なんですから。錆びさせちゃ駄目です」

ゆっくりと、ラトの手がメイサの手ごとスプーンを持ち上げた。
スープを掬い、ふうふうと息を吹きかける。

拒絶しようとした。
だが、鼻腔をくすぐったのは、オゾンでも消毒液でもない。
ただの、煮込まれた野菜の匂いだった。

メイサは、おそるおそる口を開けた。

温かい。

塩気が強く、少しだけ焦げ臭い。
市場価値に換算すれば、おそらく百ギルにも満たないような安物のスープ。

それなのに、冷却タンクで氷点下に凍らされたはずのメイサの胸の奥が、あり得ない速度で熱を帯びていく。

「……変な、味」

「味付け適当ですからね。でも、温かいでしょう」

ラトは、次のスプーンをゆっくりと持ち上げた。
メイサの手は、もうほとんど彼に預けられている。

「南部へ行くんでしょう。あそこはいいですよ。海は広いし、太陽はタダだし」

「……」

「カニンガム大将みたいな怖い顔した人も少ないし」

「大将を知ってるの」

「テレビでしか見たことないですけどね」

ラトの指先には、黒い油汚れがこびり付いていた。
戦場の泥ではない。誰かのために、古い機械を直してきた人間の汚れだ。

三口目を掬いながら、ラトが不意に口を開いた。

「妹がね、リンゴが好きで」

一拍。
ラトは少しだけ目を伏せた。

「……それだけです」

メイサは、スプーンを持つ手の動きを止めた。
「それだけ」の中に、何が詰まっているのか。
海の封鎖。物流の停滞。妹の食卓。冬の終わり。
ラトは、それ以上を言葉にしなかった。

沈黙が、少し長く続いた。

メイサは、ラトの横顔を見た。
笑っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。
ただ、何かを諦めた人間の、穏やかな顔だった。


メイサの手が、ラトの腕に触れた。
残留電磁波がパチリと弾け、ラトが「いてっ」と声を上げる。

「あ……ごめんなさい。私、触ると」

メイサが慌てて手を引こうとした。
だが、ラトは笑ってその手を握り返した。

「大丈夫です。これくらい、静電気ですよ。冬のドアノブの方がもっと痛い」

手袋越しではない。
少年のゴツゴツとした、温かい掌の感触。
カニンガムが消毒液で洗い流そうとした、メイサという存在の「温度」。

「……私、気持ち悪くない」

「まさか」

ラトは、少しだけ目を伏せた。

「冷たい手の人は、誰かの熱を覚えているって、僕の母が言ってました」

ラトは空になったトレイをまとめ、立ち上がった。

「また明日も来ますね。次はもっとジャガイモ、大きくしておきます」

扉が閉まる。
部屋に静寂が戻った。

メイサは、ラトが握っていた方の右手を、じっと見つめた。

鼻を近づけてみる。
野菜の匂いがした。

——その時、ふと気づいた。

ラトの手の温度。
ゴツゴツとした掌の感触。

(……似てる)

何に、とは思い出せない。
ただ、雨の音だけが、また少し近くなった気がした。

窓の外。
南部の夜空に、一筋の雷光が走る。
それは戦場の絶叫ではなく、ただの雨を告げる予兆のように思えた。

メイサは、小さく息を吸った。
肺の奥が、もう焼けるような熱さを持っていないことに、彼女は初めて気づいた。

「……温かい」

独り言が、暗い部屋の中に落ちる。
彼女は、初めて「効率」ではない理由で、明日の朝を待った。


◆ルミナール戦記 外伝(note連載小説)

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