シンガポールとわたし -最悪の縁 8-
麻痺していく感覚。
さて、「最悪の縁シリーズ」ファンという男との話も終盤に差し掛かってきた。
前々回の投稿でファンが指輪をくれたという話を最後にした。
その続きから始めようと思う。
当時私の職場では、結婚をしていないのに「プロミスリング」と言って男の子が女の子に指輪をプレゼントすることがあった。
同僚にも数名いた。
ファンと私は、同僚として時々食事に出掛けていた。
手を繋いだり、
ましてキスをしたり、
夜を共に過ごすなど、
体の関係は一切なかった。
周囲の人たちは私たちの関係を見守っていた。
心配する声もあったが、食事に行くくらいの関係と聞いてみんな安心していたように思う。
既婚妻子持ちの事実が発覚した後、ファンはある行動を起こした。
「妻と離婚するために書類を提出したよ」
離婚するために動き出したことに驚いた。
シンガポールで離婚は大変難しいと聞く。
離婚するために、数年間かかることもある。
日本のように協議離婚が認められておらず、裁判所での手続きが必須だからだ。そしてイスラム教徒達にはシャリア裁判所と言って、別の手順が設けられている。ファンのように夫側から離婚を望む場合、「タラーク」と離婚を宣告するだけで離婚の手続きに入る。
他の人種に比べると、離婚が楽なこと、そして男性が優位なことが見てわかる。
だからファンはあっさり離婚してしまうのではないか、とその当時は思った。
私は期待しないでいたつもりだったが、ファンとはよくこのことでよく喧嘩になった。
私が他の男の子と食事に出かけたりすると、嫉妬してきたのだ。
「嫉妬される意味がわからない。」
と私は呆れ気味にいつもファンに言っていた。
別に私は他の男の子達と関係を持っていたわけではない。健全な友人関係だった。
そしてその度に私も苛立って言い放つのだった。
「どうせ結婚してるくせに。」
と。
今考えたら、あんな男放っておけばよかったのだ。
そしてファンが口癖のように言ったのが、
「今まだ離婚が成立してないけど、ちゃんと進んでるから。」
だった。
嘘ばっかり。
その言葉をいつも呑み込んでいた。
そしてその時期だった。
私とファンは食事の帰り、雑貨店に寄った。
そこで指輪を見つけたのだ。ファンはすかさず、かわいいねと言って私の指にはめてきたのだ。
それが軽はずみな行動とわかっていても、嬉しかった。
いつかこうして、誰かに指輪をはめてもらえるのだろうか、そんなことを考えつつ、ファンのその行動がなんだか無責任に思えて悲しくなった。
ところがファンは、その指輪を買って私にプレゼントしたのだ。
「これがももこへの、僕のプロミス。」
情けないことに嬉しさが勝ってしまい、私は喜んでしまった。
そして信じたのだ、ファンが本当に離婚するのかもしれない、と。
数回前の話でもお伝えしたが、ファンは私に既婚妻子持ちとバレた時、離婚して一緒に旅行しようと約束をしてくれた。
私はその約束を忘れていなかった。
ファンもまたその約束を覚えていた。
私たちは少しずつだが、旅行に向けて話を進めていた。
プランはこうだ。
1週間の有給をとって、タイに行くというものだった。
私はタイが大好きで、ファンも行きたいと言ってくれた。
バンコクに3日間、プーケットに3日間という計画だった。
ファンは前向きに旅行計画を練ってくれた。
そして離婚への手続きも進んでると言ってくれた。
その時に私はスーパーバイザーに昇進し、キャリアも順調だった。
いよいよタイに行くことが決まって、航空券もホテルも抑えた時だった。
ファンはついに離婚が成立することを教えてくれた。
「もうこれで大丈夫。」
そう言ってくれた。
本当に実現させたのだ。
「心機一転、タイ旅行で再スタートを切ろう。」
私たちはそう言ったのだった。
ファンが今度こそ誠実になってくれたと思って、私は胸がいっぱいになった。約束を果たしてくれたのだ。
だが。
だがしかし、なのだ。
私の人生はどうも順風満帆とはいかない。
そしてタイに行く当日。
朝6時に空港で待ち合わせをしたと記憶している。
早朝フライトだったので、かなり早い時間に空港に私は到着した。
ところが。
待てど暮せど、来ないのだ。
ファンからの連絡が。
「もう空港向かってる?チェックインの時間、もうすぐで終わるよ?」
返事はない。
「ねえ、まさかまだ寝てる?」
既読にもならない、オンラインにもならない。
嫌な予感がした。
チェックインが終わる直前だったと思う。
汗だくのファンが目の前に現れた。
私はその姿を見て愕然とした。
ビーサン。
リュックサックひとつ。
ただそれだけを持って来たのだ。
1週間も外国に滞在するのに、だ。
「に、荷物は?」
私は動揺を必死に隠した。
「ごめん、寝坊しちゃって。」
嘘だ。
この人は嘘をついてる。
「早くチェックインしないと、終わっちゃうよ。」
私の心は不安でいっぱいになった。
ファンは慌ててチェックインを済ませて、私たちは保安検査場へと向かった。
ファンは全く準備をしていなかった。
タイバーツを現金で一銭も持ち合わせておらず、着替えもなし。
下着だけ何枚か持ってきた、と平気で私に打ち明けた。
私の不安を確信づけたのは、彼の行動だった。
ずっとスマホを手放さず、誰かと連絡をしているのだ。
私の話に耳を傾けず、ずっとスマホを触っていた。
今考えれば、だ。
あの時チェックインの締め切りが終わるまで、彼を止めておけばよかった、なんとしてでも。
でも私は一生懸命自分に言い聞かせた。
「大丈夫、だって大丈夫って言ってくれたから。」
私たちは飛行機に乗ったが、機内でファンは終始落ち着かない様子だった。
バンコクに着いてから、機内モードを解除するなり、ファンはずっとメッセージを誰かに打っていた。
ホテルにどうやって行くか、この問いに彼は答えず私の心は不安から苛立ちに包まれた。
そしてファンは苛立ったように、
「もう面倒だからタクシーで行こう」
そう言ったのだ。
ホテルに着いて、私達は運良く早い時間にチェックインができた。
客室に入って、私は終始不機嫌だった。というより、何も喋らなかったと思う。荷物を置いたその時だった。
「ごめんももこ。」
ファンは口を開いた。
私は顔を見れなかった。
嫌な予感が当たることが怖かったのだ。
「シンガポールに戻らないといけない。」
そう告げたファンのことを私はゆっくりと見つめた。
「なんで?」
理由は知っていた。
でも聞くのが怖かった。
自分の予感が外れていて欲しかった。
「妻が怒ってて。今家で暴れてる。」
「話が違う。離婚成立するって言ってたでしょう。なんでじゃあタイ旅行来たの?」
私は質問攻めした。
ファンは私の納得する答えを持ち合わせていたわけでもなく、気づいたらそのまま部屋を出ようとした。
「私は絶対あなたとシンガポール戻らないから。ひとりで戻ってね。」
驚いたことに、ファンは私が一緒に帰ることを期待していたのだ。
客室の扉が閉まった時、私は座り込んで泣いた。
でも涙はすぐに止まった。
あの時の私は、傷つくことや裏切られることに慣れすぎていた。
信じても、信じてもファンは私を平気で裏切る。
「もしかしたら私が勝手に信じてるだけなんだろうか。お節介なのかな、信じることって。」
そう思ったらなんだか吹っ切れてきて、タイ旅行を楽しもうと決意した。
バンコクのあちこちを電車を使って周り、食事を楽しんで、あっという間にプーケットに移動する日が来た。
2人席を取っていたから、横は空席で寂しいどころか快適極まりなかった。
プーケットは私が思っていた以上に美しい場所だった。
ファンがいいホテルを取ってくれたので、プールと客室は豪華で、近くには有名なパトンビーチ、ナイトマーケットがあった。
プールでゆっくりして読書をすることが好きな私にとって、最高のホテルだった。
そしてファンのことを考えなくなった時だった。
全然知らないアカウントからインスタにDMが来ていた。
"Hey I am Fan's wife."
「どうも、ファンの妻です。」
私の心臓は多分あの時、一回止まったと思う。
