見出し画像

100万円の裏側を知った日

日本中が悲しみと混乱に満ちていたあの年。大学の卒業式もなくなり、どこか自粛ムードが続く中で、私は今の会社に入社した。もう14年も前のことだ。

希望していた出版社にはとうとう入ることはできず、就活浪人目前になんとかご縁をいただけたのが、とある印刷会社のグループ会社。

配属されたのは印刷とは程遠い、当時はまだ最先端だったiPad商材の販促をメインで行う、デジタル系の企画部署。紙に印刷するデータを活用して、さまざまなデジタルメディアに展開していく……という動きがちょうど活発になり始めた頃だった。

そんな新人の頃に10歳上のベテラン指導員と、初めてクライアント先に行った日のことは今でもよく覚えている。


高いビルの中にあるだだっ広い部屋には、いかにもとんでもない権限を持っていそうなえらそうな男性と、指導員と、私の3人だけ。

クライアントに向かって、商材の説明をひととおりするのが私の役割。初めてのクライアントに向けた初めてのプレゼンは、尋常じゃない緊張感で。心臓がバクバクの中、事前に練習した商材の説明を間違えずにすることだけで、私はせいいっぱいだった。

シナリオどおりの、無難な私の説明の後に、指導員の言葉が続く。持ち前のトーク力で見事なフォローをしつつ、受注に向けて核心をついていくその見事さに惚れ惚れしていたら……

「わかった、お願いするよ」

と、クライアントが一言。あれよあれよという間に話はまとまり、その場で100万円の受注が決まった。

あまりのスピード感に私はすっかり唖然とし、一回持ち帰って検討して、後日発注いただくとかじゃないんだ……と、持っていたイメージとの違いにただただ驚いた。

それが普通のことではないと後から知るものの、その時は指導員からの「受注おめでとう!」の声にすっかり安堵し、覚えた台詞を言っていただけなのに大仕事をした気になっていた。


しかし、本当の仕事はその後に待っていた。「僕がサポートするのは受注するまでだから」と指導員から突如バトンを受け、限られた予算の中でデザイナーや開発担当者とやりとりし、得意先に納品するまでを私が担当することになった。

そこで判明するのが、先方から求められている条件がとても100万円で提供できるようなものではない、ということ。10歳以上歳が離れた社内のデザイナーや開発担当者のもとに足繁く通っては怒られ、依頼を突っぱねられ、先輩からは「なんとかするのが自分たちの腕の見せ所だ」と言われて……八方塞がりとはこのことか、という状況だった。

あのとき、クライアントの前で調子良く話し、100万円で提供することを決めてしまった先輩のことは恨んだが……「ものを提供してお金を稼ぐ」ことの難しさが身に沁みた瞬間だった。100万円って、ただの数字じゃないんだ。


その後の会社生活の中では数万円のものから数億円の案件まで、さまざまな仕事を担当したけれど。クライアントと開発・デザインスタッフとの狭間に立たされて感じる厳しさは、初回の100万円の時と何も変わらなかった。

お金を払う人、ものをつくって提供する人、その間に立つ人。みんなそれぞれが納得する前提があって、世の中のものの値段は決まっている。
目の前にあるペットボトルのお茶だって、冷凍庫の中にあるアイスクリームだってそうなんだ。


あれから14年が経ち、あちこちの部署を転々とした末に私は今、あのえらそうなクライアントと同じ「お金を払う」側の立場に立っている。

あの時はお客様というだけでえらそうにできていいな、大変なのは私やものづくりをするスタッフなのに……なんて思っていたけれど。逆の立場になってみて、今度は100万円の提案に対してすぐに決断することがいかにすごいことなのかを、実感している。

私はこの大事な会社のお金を、この人たちに払う覚悟ができているか?このお金を払えば成果が出せると言い切れるか?

お金はただの数字じゃなくて、人の覚悟が詰まったもので。根底には「思い」があるのだなあ、とあらためて思う。


値段が高すぎてうんざりする。もっと安ければいいのに。仕事でも、毎日通うスーパーでも、そう思う瞬間はたくさんある。でも、その値段の裏にはきっと、想像もつかないほどたくさんの人たちの存在や、思いがあるんだ。

初めて受注した「100万円」の裏側には、表面上の金額以上に多くの人とのやりとりや、苦い思いや、仕事に対する覚悟が詰まっていた。それを知る今だからこそ、世の中のものに対して安易に高いとか安いとかを言えない自分がいる。

この金額にも、見知らぬ誰かの思いが込められているのかもしれない……お金をただの数字として捉えそうになったときには、そんな想像力を少しだけ、働かせてみる。そんな風にしてお金をもらうときも、払うときも、謙虚な気持ちでいられたら。会社員としても消費者としても、この社会が今より少しだけ、生きやすくなるかもしれない。



レンタル無職ズボラさんの企画に参加させていただきました……!素敵な企画をありがとうございます!

いいなと思ったら応援しよう!