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巡り廻りて美しき哉【人】⋯牧野伸顕20

「いよいよ開戦となって、戦争に対する欧州人の対応は国により異なった形を取った。即ちこれを大別すれば、戦争の善し悪しという批判よりも交戦国と自国との関係、及び戦争が自国に与える影響如何によって生ずる感情が、交戦国のいずれかを贔屓にする各自の動機となっているように見受けた。」(※)

 オーストリア公使着任から暫くの時を重ね、牧野は賜暇帰朝します。家族や旧友、また政客と往来するなど滞在期間は瞬く間に過ぎていったようです。同じ頃、大阪では第5回内国勧業博覧会が開催されており天皇をはじめ元老、政府要人らが続々と関西方面に参集しました。第1回内国勧業博覧会は牧野の父で当時内務卿をつとめた大久保利通が強力に推した肝煎りの計画であり、最後にして最大の士族反乱である西南戦争勃発による混乱の中でも実施方針を貫いて実現したものでした。内国勧業博覧会はこの回をもって最後となりましたが、過去最大規模を誇ったそうです。日本が着実に国力を蓄え、産業を興し発展させてきたことがこういったところからも垣間見えます。この時期、人が集まり会すると必ず話題となったのが日露問題でした。
 両国の危機的事態に改善の兆候はなく、かねてよりヨーロッパの地で王侯貴族や政治家、学者、ジャーナリストらと広く交わり、社交という外交を通じ、よりリアルにロシアと欧州の動向に目を光らせていた牧野にとって、この時期は故国で旧交を温め、慰労につとめながらも、一早く現場に戻って実務にあたりたいという相半ばする感情が交錯していたのではないかと推察出来ます。当時の牧野の職責と彼の性格を考えると、後者の感情が次第に強くなっていったことは想像に難くありません。牧野はいよいよ休暇の終わりが近づいてくると少しでも早く任地に戻るため、シベリア経由でオーストリアを目指すルートを選択しています。この頃、ヨーロッパ渡航の手段は鉄道か船に限られていましたが、シベリア鉄道経由で約2週間、船で約40日間を要しました。結局、乗車を前に外務省からいよいよ不穏となってきたシベリア鉄道の利用を取りやめるよう通知があり、インド洋経由で任地に向かうこととなったようです。
 日露情勢は悪化の一途をたどり、明治37(1904)年2月、日本とロシアはついに開戦のときを迎えます。この戦争は大方の予想に反して大国ロシアを相手に日本が善戦して終結し、米国の仲介で講和条約を締結することになりました。これには国内体制が相当に動揺を見せていたロシアの内憂も大きく関係していました。戦争さなかの明治35(1905)年1月には「血の日曜日事件」が起こるなど、長きにわたってロシアを支配してきた皇帝政治(ツァーリズム)に落日のときが着々と迫っていました。一方の日本でも戦争への熱狂は、やがて多大な犠牲とそれに見合う賠償がなかったことなどから大いなる失望へと転化し「日比谷焼き討ち事件」に代表される騒擾が国内に広がっていくことになりました。加えて日露戦争は単に戦争当事国だけでなく、世界全体にターニングポイントを与えることになったことも注視する必要があります。
 牧野は『回顧録』の中で戦争には宣伝が付き物であること、そしてそれは文化が進歩していくなかで方法も発達していくのであり、これは先の大戦(第二次世界大戦)で米国が実施した大規模な宣伝活動にも明らかであると述べています。さて、この”宣伝”は今や日常のあらゆるところに浸透しており、インターネットというツールを得て益々広範囲に、瞬時に、そして無尽蔵かつ無遠慮に用いられています。今日より明日、そして未来に科学の発達によってさらなる手段を人間は手に入れていくわけですが、人間の側がこれを適切に運用し活用をしていくことの難しさ、発達の光陰を牧野ならどう評したのか、訊ねてみたい気がします。

(※)『回顧録』上巻 牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10 p.265
参考文献 『回顧録』上巻 牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10、『牧野伸顕』茶谷誠一著 吉川弘文館 2013.11.5