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巡り廻りて美しき哉【人】牧野伸顕⋯4

「子供でも目に触れる建物その他すべて立派で、念が入っていて、日本などとは全くの別天地であることが残念でたまらないという気分はあった。」(※)

 牧野が受けた教育をたどってみると、故郷鹿児島での郷中教育、そして上京後の外国語教育、岩倉使節団に随行しての米国での教育、そして帰国後の開成学校(のちの東京大学)と続いていきます。郷中教育は薩摩藩独自の教育習慣で400年ほどの歴史を持ち、藩の子弟の教育を目的とした少年団のようなものと牧野が『回顧録』で述べています。郷中とよばれるいわゆる町内において年長者が年少者に剣術や手習いなどを指導したそうです。明治維新以降、雄藩たる薩摩の出身者はさまざまに活躍をしていくわけですが、それは個人として秀でるものがあったから故、と同時に薩摩人としての縦の「つながり」のようなものが継がれていることに、少し視点を変えてみると気づかされます。
 さて、上京後の牧野が次に受けたのが居留地であった築地のフランス人宅での教育でした。兄利和とともに半年ほどフランス語を学んだといいますが、そのきっかけとなり、同居人にもなったのが加治屋町出身で祖父の代から大久保家にもよく出入りをしていた大山巌です。大山は西郷隆盛とも親戚関係にあり、ここにも濃い縦のつながりが見られるように思います。 
 その後が岩倉使節団に随行しての米国留学です。このとき、牧野とも歳の近い山川捨松という少女が5名の女子留学生の内の一人として同行していました。彼女たちの留学期間が10年と決められていたのに対し、牧野らは2年ほどで日本に帰国をしました。その理由は「一番勉強しなければならない頃に外国に居て、日本の学問が何も出来ていなかったから」。牧野自身もそのことには気づいていたといいますが、大きかったのはやはり父利通の教育方針だったのではないでしょうか。このことは後の牧野の人生にも大きく影響をしていきます。
 一方の女子留学生を見ていくと5名のうち2名が早期に帰国し、残る3名は年限、または延長を願い出て学業を修め帰国しました。しかしながら彼女らは帰国後、言葉を含め生活一般、ひいては日本社会への順応、孤独のようなものに相当苦しんだといいます。先に名を挙げた山川捨松は1882(明治15)年に帰国し、その翌年大山巌に嫁いでいます。この結婚には両家のルーツなどから紆余曲折があったといいます。ともあれ、先に述べたように加治屋町時代から長く続いた大山との交わりにはそんな縁もつながっていたのです。
 これは蛇足になりますが、女子留学生たちのバックボーンをみてみると旧幕臣、戊辰戦争の敗者側であることがわかります。維新によって「世が世なら」全く異なっていたであろう生きようを180度変えざるを得なかった彼女らには「とにかくやりぬくしかない」という矜持のようなものがあったのではないでしょうか。「世が世なら」海を渡って外国で教育を受けることはなかったかもしれず、明治維新によって大きな守りのもとに置かれることにはなったものの別の意味では背負うものができた牧野らの置かれた立場とを比較すると、歴史の皮肉な偶然のようなものを感じます。

(※)『回顧録 上巻』牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10 p.32参考文献 『回顧録』牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10、『牧野伸顕』茶谷誠一著 吉川弘文館 2013.11.5