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巡り廻りて美しき哉【人】⋯牧野伸顕25

「文化施策の一端として文部省が美術展覧を企画した当時の事情を今日より回顧する時、最も念頭に浮ぶことは、その頃文部省内に美術に理解ある者が揃っていて、そのために非常に便宜を得たことである。」(※)

 毎年秋に開催されるのが日展、その広報を見かけると「今年もそんな季節か」と、秋本番を、そしていよいよ迫る年の瀬を感じたりします。今年は10月31日から11月23日まで、東京の国立新美術館で開催されているようです。
 この日展のルーツが明治40(1907)年に開催された文展(文部省美術展覧会)です。文展の構想については、牧野がウィーン公使時代に既に遡上にあがっていたことには先に触れましたが、牧野は文相としてその準備と立ち上げ、そして実現の瞬間にも立ち会ったというのも不思議な巡りあわせを感じます。
 当時は日本美術協会主催の展覧会のように、有力な支援者を得て行われるものもありましたが、この会は日本画の伝統を重んじることを主とし、保守的傾向が否めないものでした。また各種相乱れるが如くに美術展覧会が開催されていたようで、牧野は『回顧録』で、内容たるや質より量、概して低級な出品が多かったと評しています。美術学校という箱ものは用意されていたものの、公正性を担保し評価・裁定に関わる人選を行い、広く芸術家たちの作品に対して「評価」を与える機会がなかったのです。適宜適切に評価を下す場があるということは、作家が自らの作品や技術を顧みるのに非常に有用であり、美術界発展のためにも重要なことであると議論が進められていきました。
 その肝は組織と人選、それに資金となるわけですが、文部省の官をあげた事業としてこれを行うことが決まり、いよいよ実現が具体化します。第1回の文展開催初日は10月25日。場所は上野の竹ノ台にあった博覧会会場跡にあった”バラック式の建物”を利用して行われました。この新たな文化事業の実施には充分な予算が当然に必要でしたが、急な展開に大蔵省も首を縦には触れず、先ずは省内で対応が可能な限りをつくし、まさに手弁当からのスタートだったようです。
 これを可能にしたのが、適材がそれぞれ適所にあったこと、そして牧野という人物がプロフェッショナルを重視し評価、信頼する姿勢を一貫して持っていたことでした。文部行政に通じた濱尾新や沢柳政太郎をはじめ、美術界に指導的立場を築いていた岡倉天心、またこの事業を積極的に支えた松井直吉、高嶺秀夫、大塚保治、藤岡作太郎やそしてフェノロサら、その顔ぶれはまさに盛観というほかありません。そして作品を発表する画家の側でも未来の大家たちが着実に力をつけ、その存在を認められていこうとしているところでした。
 自らも教育行政のプロフェッショナルであると同時に芸術愛好家でもあった牧野は、美術(芸術)というものは簡単な仕事ではないとはっきり述べています。先に出た芸術はその歴史ゆえに伝統を重んじ、新たに生まれた芸術と過渡期において必ず反目を起こすものであること、しかしながらこの反目はやがて収束し形を整えていくものであるという牧野の達観には驚かされるばかりです。
 当時の世相、流れを見ていくと、文展の実現は時代の要請という要素があり、それに加えて美術の可能性を信じて疑わない、文化というものへのリスペクトを持つプロフェッショナルたちが点と点を結んで線を描き、大きな輪に広げていった様子が浮かんできます。これは前の項であげた「ある瞬間」の成立にどこか通じるところがあるようにも感じます。そしてここで大切なことは、時流と人材が揃う時がただ同じであるというだけでは、それぞれはただの点、パーツのままであり、これをつなぐキーパーソンを必ず必要とするということです。
 そのまさに「鍵」となる位置に牧野はいました。

(※)『回顧録』下巻 牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10 p.25
参考文献 『回顧録』下巻 牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10、『牧野伸顕』茶谷誠一著 吉川弘文館 2013.11.5