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巡り廻りて美しき哉【人】牧野伸顕⋯5

「大体西郷家と大久保家とは今日まで非常に親密な間柄であり、ほとんど親類も同様でまた事実二重の婚姻関係で結ばれている。西南戦争は全くの悲劇だった。」(※)

 兄利和と牧野が米国から帰国したのが1874(明治7)年。二人は父利通の斡旋もあって開成学校に入学し、寄宿舎生活を送ります。授業の大半が英語で行われていたことからこの点に苦労はなかったようですが、日本の学問は基礎からのスタートとなり、漢文の稽古にも勤しんだようです。このとき世話をした一人が濱尾新です。同級には岡倉天心や井上哲次郎、上級には小村寿太郎や杉浦重剛らがいました。まだ何者でもなく、何者になろうかもしれない10代前半からのまさに成長期に牧野が経験した縦と横の巡りあわせは、やがて廻りて再び集うことになります。
 その生涯を通じて見て、「過ぎる」ということから縁遠いように見える牧野ですが、育ち盛り、食べ盛りのこの時期は食べても食べてもまだ足りぬ、借金をしてもまた食べるといったふうで、挙句には胃を壊し、猟銃を背負って湯治に向かった思い出が語られています。年頃のその齢らしい無茶ぶり、牧野にもそんないつか来た道があったのです。

 さて、牧野らが帰国した前年に征韓論をめぐって政府が分裂を起こしたいわゆる「明治六年の政変」が起こり、西郷隆盛、板垣退助ら征韓派と大久保利通や木戸孝允ら内治優先派が対立し、これに敗れた西郷らが一斉に新政府を去って下野しました。事ここに至る伏線は既にありました。変化や変動には必ず正負、光陰、その一方だけではない作用が伴うもので、明治維新という大改革には当然ながらそれが一層強く働いたことは間違いありません。この政変は、海を渡り「外を見た者」と留守を守り「内を見た者」という視点から考えることも出来ますし、「政」と「武」、「現実」と「現状」、または「理想」と「現実」という視点からさまざまに見えてくるものがあります。ともあれ、これを機に国内にくすぶり続けた諍いのマグマはやがて一気に噴出していくこととなります。東京を去り、鹿児島に戻った西郷が自ら興した私学校生徒らの暴発を制することが叶わず挙兵し、国内最大の士族反乱となる西南戦争が起こるのは、1877(明治10)年のことでした。

(※)『回顧録 上巻』牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10 p.58

参考文献 『回顧録』牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10、『牧野伸顕』茶谷誠一著 吉川弘文館 2013.11.5