見出し画像

巡り廻りて美しき哉【人】牧野伸顕⋯15

「今日次官時代のことを回顧すると、仕事のことは別として、最も頭に浮かぶのはやはり当時私が接触した卓越した人物である。」(※)

 井上毅はその抜きん出た英才で岩倉具視や伊藤博文らに重用され、大日本帝国憲法、皇室典範をはじめ近代国家建設をめざすわが国の重要政策の立案に貢献した人物です。明治26年(1893)年3月、井上が文部大臣として初入閣すると次官として牧野が任命されます。その後、井上が病気により辞職を余儀なくされると、吉川顕正、そして西園寺公望と歴代の文相に仕えることとなりました。
 前年8月に元勲総出によって成立した第二次伊藤博文内閣は、約4年にわたって政権を維持します。短期の交替を繰り返していたそれまでの内閣とは異なり、1485日に及んだ在任期間には、例えば日清戦争の開戦と終結、三国干渉、戦後経営、議会ではそれまでの藩閥政府対民党という構図から、妥協と提携へと向かっていくなど、国内外各分野に大きな変化が見られた時期に重なりました。議会といえば日清戦争のさなか第7回帝国議会が東京以外の場所で召集されています。場所は広島で、これは帝国議会・国会の歴史を通じて現在に至るまでただ1度の例外です。戦争指揮のため大本営が広島に置かれたことからの処置でしたが、中央の機能が一斉に広島に大移動することとなり、当時はそれこそ宿泊場所の手配なども厳しい状況だったようす。
  牧野は次官の仕事について、議会対応という面では、議員らの勝手な質問に対し真面目に受け答えすることの虚しさを縷々連ねる一方で、当時の教育行政を担う優秀な人材が実に豊富であったことを認め、それによって遂げられた功績に惜しみない賛辞を送っています。これには開成学校、東京大学時代に交わった関係者や同級生が多く含まれており、濱尾新、岡倉覚三(天心)、手島精一らはその一例です。このうち、濱尾新について少し触れてみましょう。濱尾は牧野よりおよそ一回り年上で、豊岡藩士の家に生まれ、慶應義塾に学び文部省に出仕しました。米国留学から帰国後は、加藤弘之を補佐し後に東京帝国大学総長を務めました。東京大学本郷キャンパスには濱尾の銅像が設置されており、その貢献が大きかったことを物語っているといえます。第二次伊藤内閣総辞職後の第二次松方正義内閣で文部大臣を、そして枢密顧問官を経て東宮大夫(皇太子は後の昭和天皇)の職に就きます。第一次世界大戦の講和のために開催されたパリ講和会議に全権として出席した牧野が調印後に帰国すると、皇太子から慰労の下賜品が授けられるなどしましたが、名代としてこれにあたったのが濱尾でした。時を経て立場や立ち位置も異なった二人はどのような会話をしたのでしょうか。濱尾は牧野が文部次官からイタリア大使に転出することを知り、これを惜しみ留任を強く望んで説得にあたったことが『回顧録』に記されています。結局、濱尾の懇請が叶うことはありませんでしたが、新任地へ向かう牧野のため、大勢が盛大に送り出しました。
 牧野は、文部省は行政官庁ではあるけれど、俗務を離れ教育者らと接し、交わったことは自らにとって大きな修養となったと述べています。そして慰労の言葉をかけられると、逆に教えられたのは自分の方であってこの経験は一生忘れられないと応じたといいます。
 どんな仕事を達成するのか、社会に出て働くということはそれも大きなテーマです。それに加えてどういう人といかに働くのか、これはより深いテーマになるのだと思います。

(※)『回顧録』上巻 牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10 p.187

参考文献『回顧録』上巻 牧野伸顕著 中央公論社 1992.7.10、『牧野伸顕』茶谷誠一著 吉川弘文館 2013.11.5