脳は、“正しさ”でスリープする
ある時、番組で
「脳機能維持」や「認知機能向上」の特集をやっていた。
散歩。
筋トレ。
ランニング。
脳トレ。
太極拳。
“脳にいいこと”。
もちろん、
悪いとは思わない。
実際、
血流や認知機能への効果もあるんだと思う。
でも見ながら、
ずっと違和感があった。
なんで、
「脳にいいこと」
だけ、
こんなに“一律”なんだろう。
ダイエットって、
人によって合う方法が違う。
カロリー管理した方が続く人。
運動した方が整う人。
糖質制限で元気になる人。
逆に制限すると病む人。
なのに脳の話になると急に、
「散歩しましょう」
「筋トレしましょう」
「脳トレしましょう」
って、
全員“同じ脳”
として扱われ始める。
でも、
本当にそうなんだろうか。
たとえば私は、
「健康にいいから」
という理由だけで、
ルーティン散歩したり、
山登りしたり、
決まった筋トレを続けていたら、
たぶん普通に鬱っぽくなる。
もちろん、
山登りが悪いわけじゃない。
散歩が悪いわけでもない。
でも、
“自分の神経特性とズレた健康法”
を、
「正しいから」
で採用し続けると、
人って普通に摩耗すると思う。
しかも現代って、
「脳にいい」
と言われた瞬間、
“自分との相性”
を飛ばして採用しやすい。
脳トレ。
朝活。
ランニング。
瞑想。
ジム。
全部、
本来は悪くない。
でも、
合ってない脳が採用すると、
“管理”
になる。
しかも、
すごく正しそうに見える。
だから厄介なんだと思う。
私は、
ジム通いドヤ、
ランニングドヤ、
山登りドヤ、
みたいな空気を見ると、
時々ちょっと笑ってしまう。
いや、
素晴らしいことなんです。
本人が楽しいなら。
でもその割に、
日常ではエスカレーター使って、
家帰ったらゴロゴロとスマホ見てたりする。
なんというか、
“イベント化された健康”
に見える時がある。
寺で断食をした。
自然の中を歩いた。
山へ登った。
ジムへ行った。
瞑想をした。
脳トレをした。
一見、
すごく健康的に見える。
でもその日の夜、
「今日は頑張ったから」
と、
夜中にポテチを食べながら、
ビールを飲み、
スマホを見続けていたりする。
もちろん、
それ自体が悪いわけじゃない。
私もゴロゴロ大好き。
でも時々、
“健康”
というより、
“健康イベント”
を消費しているように見えることがある。
健康そのものというより、
「健康そうな人格」
を演じるための行動。
あなたは、
筋トレしている時、
本当に楽しいだろうか。
友人と山登りしている時、
本当にワクワクしているだろうか。
それとも、
「脳にいいから」
「健康にいいから」
「人付き合いだから」
「続けた方がいいから」
で、
なんとなく採用しているだろうか。
もちろん、
それが悪いわけじゃない。
でも私は時々、
“健康”
より、
“健康そうな自分”
を維持している人を見ている気がする。
例えば、
月に何回もゴルフへ行っている。
一見、
健康的に見える。
自然。
運動。
コミュニケーション。
でもそれが、
会社の付き合いで、
気を遣って、
空気を読んで、
接待みたいになっていて、
終わったあとグッタリしているなら。
それって本当に、
“脳にいい時間”
なんだろうか。
もちろん、
ゴルフが悪いわけじゃない。
問題は、
「何をしているか」
ではなく、
“その時、神経がどう動いているか”
なんじゃないかと思う。
現代って、
「健康そうな行動」
を見るのは得意だ。
でも、
“内側の神経状態”
を見るのは苦手だ。
だから、全部、
“やっているだけ”
になることがある。
逆に、
カフェでぼーっとしている時間の方が、
脳が呼吸している人もいる。
もしかすると、
脳に必要なのって、
“正しい刺激”
を与えることじゃなく、
“違和感を観測すること”
なのかもしれない。
番組では、
“老害”についての特集もやっていた。
「町中で、つい若者の行動についてぼやいてしまうんです」
家族には、
“老害みたいだからやめなよ”
と注意されるらしい。
相談を受けた、
テルマエ・ロマエの著者ヤマザキ マリさんが、
こんなことを言っていた。
“ぼやき、いいじゃないですか”
“ぼやかなくなったら終わりです”
“どんどんぼやいてください”
ただし。
“ぼやくだけじゃなく、
なぜその若者の行動にムカついたのか。
なぜ自分はそう思ったのか。
そこを見つめてください”
それを聞いた時、
「そうそう!それなんだよ!」
と、思わずうなずいてしまった。
若者の行動に違和感を持つ。
それ自体は、
別に悪いことじゃないと思う。
そこで本人に、
「最近の若者は〜」
と説教し始めたら、
たしかに老害かもしれない。
でも、
“違和感そのもの”
を、
「こんなこと思っちゃダメだ」
と流し続けていたら。
その違和感を流し続けたら、
脳はずっとスリープ状態で、
いつかは起動しなくなるかもしれない。
なぜ自分は反応したのか。
なぜムカついたのか。
なぜ気になったのか。
本来、
脳って、
そういう“引っかかり”から動き始めるものだったはずなのに。
でも現代って、
違和感を感じた瞬間、
正しい意見
炎上回避
空気
効率
最適解
で、
すぐ処理しようとする。
その結果、
“考える”
より、
“正しく処理する”
脳になっていく。
現代って、
“測定できる健康”
をすごく信じやすい。
歩数。
消費カロリー。
学習時間。
脳トレ回数。
でも、
脳って本来もっと、
感情
身体
意味
空気感
環境
関係性
と繋がってるはず。
なのに、
“CPU”
みたいに扱われてる。
刺激を入れれば、
性能が上がる。
鍛えれば、
頭が良くなる。
「頭が良くなる」
って、
すごくキャッチーだ。
考える力。
脳機能向上。
認知機能改善。
でも、
本当に必要なのって、
“頭が良くなること”
なんだろうか。
むしろ、
「疑える力」
の方が大事なんじゃないかと思う。
現代って、
情報を増やすことは得意だ。
スマホを見たら、何でも理解できる。
でもその結果、
“違和感”
を残せなくなっている人もいる。
本来、
違和感って、
すぐ解消しなくていいものだったはずなのに。
「脳にいい」
「正しい」
「効率的」
という言葉が出た瞬間、
人は、
自分とのズレを飛ばして採用し始める。
そして気づいたら、
“脳にいいこと”
を増やすほど、
逆に、
自分が分からなくなっていく。
もちろん、
それで整う人もいると思う。
でも、
人によって、
脳資源の流れ方って全然違う。
終わることに快感を感じる人もいれば、
空気感や違和感、
全体構造をずっと観測してる人もいる。
反復で安心する人もいれば、
変化や探索がないと、
脳が窒息していく人もいる。
私は散歩なんてしない。
けど、
韓国旅行ではかなり歩いた。
でも、
いわゆる“健康のための散歩”
とは感覚が全然違った。
街を観察している時、
時々、
「あ、そういうことか」
と、
急に繋がる瞬間があった。
冷蔵庫の吸気口に詰まっていたホコリを、
ごっそり取った時みたいな感じ。
妙に通りが良くなる。
脳の奥で、
回りきれてなかったものが、
急に循環し始める。
ああ、
脳って、
こうやって起動することもあるんだな、
と思った。
でもたぶん、
放っておくと、
またすぐ詰まる。
だから最近思う。
脳に必要なのって、
“刺激”
だけじゃない。
“循環”
なんじゃないかって。
人は、
「脳にいい」
という言葉を使って、
自分の違和感を、
静かに眠らせているのかもしれない。
そしていつか、
“起動の仕方”そのものを、
忘れてしまう。
