引き寄せドライフラワーみたいな人
先日、一人ランチをした。
カウンター席で、隣との距離が近かった。
横に座った女性二人組の会話が、聞くつもりはなくても自然と耳に入ってくる。
誰々はいつもどこに行って、何をしている。
あんな写真をあげていて、すごいよね。
自分のこと大好きなんだろうね。
職場の誰々さんは、こうで、ああで。
最近これ始めてさ~。
会話としては、特別きつい言葉があるわけじゃない。
声を荒げているわけでもない。
むしろ普通だった。
どこにでもあるランチタイムの会話。
でも、しばらくして違和感に気づいた。
話題は何度も変わっているのに、空気だけがずっと同じなのだ。
笑い声もある。
声のトーンも明るい。
でも、軽くならない。
怒りでもない。
悲しみでもない。
ただ、ずっと低いところで鳴り続けている音がある。
「まるで、不満の音だな」
たぶん本人たちは気づいていない。
普通に会話しているつもりだし、暗い話をしている自覚もないと思う。
私は途中でイヤホンをつけた。
不快だったからじゃない。
気分を害したわけでもない。
むしろ少し可笑しかった。
これが、日常の呼吸なんだろうなと感じたから。
鬼滅の刃で、善逸が言っていた言葉がある。
「獪岳からは、ずっと不満の音がしていた」
善逸が言う、
お手本のような音を見つけた。
これ以上聞いても、たぶん空気は変わらない。
不満の音。
あれは悪口じゃない。
性格診断でもない。
その人が、どんな音で世界と接続しているかという話だと思う。
不満の音が鳴り続けている人ほど、自分を現実的だと思っていることが多い。
冷静に見ている。
普通のことを言っている。
当たり前の感想を話している。
でも実際には、同じ場所で音が鳴り続けている。
そのとき、ふと考えた。
なぜ人は、同じ音を鳴らし続けるのだろう。
不満の音が止まらない人は、実はずっと同じ場所にいる。
納得していない。
腑に落ちていない。
終わったことにしている。
だからループする。
本人は前へ進んでいるつもりでも、
まだ同じ章の中にいる。
ここで多くの人がやるのが、「切り替えよう」とすることだ。
前向きに考えよう。
明るくしよう。
良い言葉を使おう。
引き寄せ的に陽でいよう。
でも私は、これがうまくいかない場面をたくさん見てきた。
問いが終わっていないのに、蓋をしてしまうからだ。
嫌なことがあったら落ち込む。
悲しくなる。
腹も立つ。
「なんであんなことが起きたんだろう」と考える。
これは異常でもネガティブでもない。
むしろ正常な反応だと思う。
問題は暗くなることじゃない。
暗い状態のまま、
「どうせこんなもんよね」
「これが普通」
「どうしようもないよね」
「こんな事考えても仕方ない」
自分の可能性を固定してしまうことだ。
私は落ち込むときは、かなり暗い。
ちびまる子ちゃんの野口さんどころではない。
ゲド戦記も引くレベルで暗黒になる。
何かあったら、
トコトン・ゲド戦記の開幕である。
途中で無理に上げない。
というか上がらない。
問いが終わるまでは、ちゃんと暗くなる。
しつこく。
何度も。
ゲド戦記は影を光で追い払う話じゃなかった。
逃げた影を追いかけて、
最後に名前を呼んで、
それが自分だと認める物語だった。
「ポジティブに考えよう」
とは言わない。
見ないふりもしない。
だから終わる。
だから物語になる。
ずっと考えていると、ある瞬間が来る。
「ああ、こういうことだったのか」
「本当は私はこうしたかったんだ」
「もう新しい情報は出てこないな」
その瞬間、音は自然に変わる。
頑張って元気になろうとしなくても。
回線は勝手に切れる。
ここまで書いていて思う。
もしかすると、多くの人は暗さそのものを怖がっているのではない。
どよんとしている人には近づきたくない。
暗い人にはなりたくない。
そんな人だなんて思われたくない。
だから急いで陽の場所へ戻ろうとする。
でも、その気持ちはすごく自然だと思う。
そしてたぶん、引き寄せが広まった理由もそこにある。
引き寄せがここまで広まったのには、ちゃんと理由がある。
人は、不安になると揺れたくない。
正解が欲しい。
安心できる場所に立ちたい。
「前向きでいよう」
「陽でいよう」
「ポジティブな言葉を使おう」
これらは確かに人を支えてきた。
救われた人もたくさんいると思う。
だから否定する話じゃない。
ただ、安心はそのまま固定にもなる。
問題が起きるのは、
「陽でいよう」
が正解になったときだ。
陽が正しい。
陰はダメ。
元気が正しい。
落ち込むのはダメ。
この二択が生まれた瞬間、人は自分を管理し始める。
声のトーンを上げる。
前向きな言葉を選ぶ。
笑顔を作る。
でも、不思議なことが起きる。
明るいのに重い人がいる。
元気そうなのに疲れる人がいる。
一緒にいると、なぜか消耗する人がいる。
性格が悪いわけじゃない。
エネルギーが低いわけでもない。
止まっているのだ。
私は時々、そういう人を見てドライフラワーを思い出す。
ドライフラワーは綺麗だ。
形も残っている。
花だったことも分かる。
ぱっと見、おしゃれに見える。
でも、生きてはいない。
もう咲かない。
枯れない。
匂いはしない。
循環だけが止まっている。
人も同じなのかもしれない。
昔、咲いていた自分。
元気だった自分。
明るかった自分。
うまくいっていた頃の自分。
その姿を保存し続けようとすると、人は少しずつ固まっていく。
咲いていた形だけを残しながら。
本当は、
咲く。
散る。
休む。
根を張る。
また咲く。
自然界では当たり前のことなのに。
人だけが、
咲いていない時間を失敗だと思う。
元気じゃない自分を不合格にする。
弱音を吐く自分を否定する。
暗さを急いで消そうとする。
でも、暗さは敵じゃない。
暗さを消そうとするほど、暗さは長居する。
見ないふりをした影は残り続ける。
ゲド戦記が最後にやったのは、
影を倒すことではなかった。
追いかけることだった。
名前を呼ぶことだった。
それが自分だと認めることだった。
だから終わった。
だから物語が進んだ。
暗さを消した人と、
暗さを通過した人は違う。
消した人は、また同じ場所へ戻る。
通過した人は、次へ進む。
自由というのは、
明るいことでもない。
暗くならないことでもない。
明るくもなれる。
暗くもなれる。
でも、そのどちらにも閉じ込められないことだ。
今、自分に何が起きているのか。
ただそれを見ている位置。
そこに立つと、自分を操作しなくてよくなる。
無理に元気にならなくていい。
無理に前向きにならなくていい。
咲いていない時間を責めなくていい。
花は散る。
そして休む。
休んだあと、また咲く。
それを自然だと思える人は、
ドライフラワーにはならない。
ランチで聞こえてきた会話を思い出す。
話題は変わっていた。
でも、音は変わらなかった。
発している言葉よりも先に、
どんな音で世界と接続しているのか。
人の中には、
静かな状態も、
陽気な状態も、
落ち込んでゲド戦記になる日も、
ちょっとドヤってる瞬間も、
その全部の音がちゃんとある。
今は表に出ていない音があっても、
消えたわけじゃない。
休んでいるだけかもしれない。
また花は咲く。
今度は、
咲き続けるためじゃなく、
巡るために。
