病気の子に「かわいそう」と言う何様
長く生きられない女の子の記事を見た。
夢であるウエディングドレスを着たという内容だった。
SNSには、
こんな言葉が並んでいた。
「かわいそう」
「夢が叶ってよかった」
「泣いた」
もちろん悪意はないと思う。
でも私は、途中から妙に腹が立ってきた。
かわいそうって、
誰が決めたんだろう。
その子は病気かもしれない。
余命が短いのかもしれない。
それは事実だと思う。
でも、
だから人生そのものがかわいそうになるわけではない。
「かわいそうな子」じゃなくて、
ウェディングドレスを着たかった、
ただの女の子。
それを実現して、
笑っている彼女の方が、
よほど人生を生きているように見えた。
病気だから特別なのではない。
病気だから尊いのでもない。
ただ、
一人の人間が、
やりたいことをやった。
それだけ。
不思議なのは、
人は病気の子がウェディングドレスを着ると感動するのに、
元気な独身女性がウェディングフォトを撮ると笑うことがある。
推しに会いに行く。
旅行に行く。
風俗に行く。
髪をピンクにする。
会社を辞める。
本人の人生なのに、
なぜか外野は採点を始める。
尊い。
くだらない。
立派。
もったいない。
かわいそう。
幸せそう。
本人が選び、
本人が生き、
本人が責任を持つなら、
それはその人の人生だ。
煩悩でもいい。
高尚な夢でもいい。
社会的に褒められる願いでもいい。
褒められない願いでもいい。
なのに、
なぜ他人が採点するんだろう。
私たちは、
病気の人を見ると病気を見る。
障害のある人を見ると障害を見る。
独身の人を見ると独身を見る。
でも、
その人は病気そのものではない。
障害そのものでもない。
独身そのものでもない。
一人の人間だ。
笑うし、
怒るし、
好きなものもある。
嫌いなものもある。
夢もある。
願いもある。
意地もある。
なのに、
ラベルが見えた瞬間に、
その人自身が消えてしまうことがある。
一生懸命生きている命に対して、
私たちはどんな態度で
「かわいそう」
と言っているんだろう。
悲しい気持ちになることはある。
苦しみを想像して胸が痛くなることもある。
でも、
その人の人生全体を
「かわいそう」
の一言で要約する権利が、
私たちにあるんだろうか。
人の人生を採点したがる私たちの方が、
よっぽど不自由なのかもしれない。
そして、ふと思う。
何様なんだろう、と。
私は、
なぜこんなに腹が立つのか考えた。
たぶん、
「かわいそう」
の奥にあるものが見えてしまうからだ。
それは本当に優しさなんだろうか。
それとも、
無意識のうちに
「私はそちら側ではない」
という安心を確認しているのではないか。
私はまだ病気じゃない。
私はまだ元気だ。
私はまだ大丈夫だ。
もちろん本人はそんなつもりじゃないのかもしれない。
悪意もない。
でも、
その子の人生を見ながら、
自分の安全を確認しているように見える瞬間がある。
それが悔しい。
その子は、
誰かを安心させるために生きているわけじゃない。
感動させるために生きているわけでもない。
人生の教材になるために生きているわけでもない。
一人の人間として、
ただ一生懸命生きている。
感動で消費しないでほしい。
安心材料にしないでほしい。
私は、
その子を見てかわいそうだとは思わなかった。
むしろ、
いい生き方してるなぁと思った。
命を嘆くんじゃなくて、
命を使っていた。
病気に人生を奪われるんじゃなくて、
病気を抱えながら人生を生きていた。
だから、
なんだか胸の奥から熱いものが湧いてきた。
うまく言えない。
感動とも少し違う。
尊敬とも少し違う。
ただ、
「生きてる」
と思った。
私たちは、
残された時間はまだあると思っている。
でも、
本当はみんな有限だ。
半年で亡くなる赤ちゃんもいる。
五歳で亡くなる子もいる。
百歳まで生きる人もいる。
でも、
明日を約束されている人はいない。
短いからかわいそうだとは思わない。
長いから立派だとも思わない。
命は、
滞在時間で採点できるわけがない。
どれだけ長く存在したかではなく、
どう存在したか。
どれだけ生き延びたかではなく、
どう生きたか。
私はそちらの方が気になる。
この記事を書くことも、
私は誰かの命を勝手に消費しているのかもしれない。
でも、
それだけでは終わらせたくない。
懸命に生きる姿に何かを感じたのなら。
かわいそうで終わらせないでほしい。
その命を見て、
少しでも胸が動いたのなら。
自分も、生きればいい。
