コメントという鏡①|「じゃあどっちなの?」と聞かれるたびに、疲れる話
風俗の記事を書いた。
ありがたいことに、
いくつかコメントをもらった。
批判もあった。
共感もあった。
読んでくれたこと自体は、
本当にありがたいと思っている。
でも、
途中から少し疲れてしまった。
反論されたからではない。
批判されたからでもない。
むしろ、
そういう反応は、
私にとっては観測の対象だ。
「そう読むんだ。」
「そこが引っかかるんだ。」
そうやって、
世界の見え方を知るのは、
どちらかというと、
ワクワクする。
でも今回は、
そこじゃなかった。
身体の中で、
何度も同じ反応が起きたからだ。
「そんなこと言ってない。」
その感覚だった。
私は、
「風俗が良い。」
とも、
「風俗が悪い。」
とも書いていない。
書きたかったのは、
「風俗は嫌。」
という一言の中に、
なぜそんな言葉が生まれるのか。
その構造だった。
でも返ってくるのは、
「じゃあ風俗に行く人の方がいいってこと?」
「恋愛より風俗の方が楽ってこと?」
そんな話だった。
その瞬間、
私は内容を読む前に、
身体が反応した。
「あ、また違う。」
それ以上、
読む気力が少しなくなってしまう。
もちろん、
相手に悪気があるわけじゃない。
ちゃんと読んでくれている人もいる。
でも、
600文字以上かけて返しても、
また最初の質問に戻ってしまう。
あの感覚が、
少し疲れる。
私は、
「どうしてそういう前提になるんだろう。」
を話している。
でも返ってくるのは、
「つまりどっちが正しいの?」
という問いだ。
良い。
悪い。
男。
女。
勝ち。
負け。
人は、
二項対立で世界を見ることが多い。
だから、
その前提を書いていても、
結局、
どちらの味方なのかを探し始める。
浮気の記事では、
「浮気してもいいってこと?」
違う。
「浮気しない=人格者」という構造を書いていた。
幸せの記事では、
「じゃあお金はいらないってこと?」
違う。
幸せ認定の構造を書いていた。
AIの記事では、
「AIなんかで、そこまで?笑」
違う。
評価基準を書いていた。
ファッションの記事では、
「痩せるのを否定してる?」
違う。
業界構造を書いていた。
これが、
本当に疲れる。
もちろん、
私も相手の立場を完全に理解できるわけじゃない。
以前、
あるお金持ちの人が、
「ビュッフェが苦手。」
と言っていた。
そのとき私は、
「え、なんで?」
と思った。
その人の前提を持っていなかったからだ。
相手の立場に立つことは、
思っている以上に難しい。
でも、
私は少なくとも、
一度は相手が何を見ているのかを見ようとする。
ところが、
結論を急ぐ会話では、
その工程が飛ばされることがある。
「結局どうなの?」
「正しいのはどっち?」
そうやって、
相手の視点を見る前に、
答えを探し始める。
たぶん、
私が疲れるのはそこなんだと思う。
伝わらないからじゃない。
否定されたからでもない。
話したい階層が、
違う。
私は、
深海で見えた景色の話をしたい。
つまり、
前提の話をしたい。
でも、
多くの人は、
浅瀬から見える景色のまま、
結論を知りたがる。
その距離を埋めようとして、
何度も浅瀬まで戻る。
浅瀬で話して、
また深海へ潜る。
また浅瀬へ戻る。
この行き来は、
一度や二度の話じゃない。
何年も繰り返してきた。
仕事でも、
同じことがある。
日常でも、
同じことがある。
今回疲れたというより、
昔から痛かった場所が、
また少し痛んだ。
そんな感覚だった。
話したくなくなることがある。
言葉が嫌になったわけじゃない。
人が嫌になったわけでもない。
ただ、
そんな日が続くと、
少し黙りたくなる。
ここまで書いて、
ひとつだけ心配していることがある。
たぶん、
「深海の方がいいってことですか?」
というコメントが来る。
そのとき私は、
また静かに潜っておくことにする。
