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浮気しない人を称賛するあほ構造① 浮気しない人は人格者なのか

有名人の「絶対浮気しないらしい」みたいなリールが流れてきた。

コメント欄は、

「奥さん幸せすぎる」
「こんな男性いるんだ」
「誠実で素敵」

みたいな言葉で溢れていた。

もちろん、それ自体は悪いことではない。

でも私は途中から、なんか不思議な感覚になった。

 

私はむしろ、

浮気する人より、
“浮気しない人”の方に、
自己決定の弱さを感じることがある。

 

もちろん、全員ではない。

でも見ていると、
後者の方が多いのではないかと感じる。

  

例えば。

バイキングに行って、
もう苦しいくらい満腹だったとする。

そこにミシュラン級の高級料理が運ばれてきても、

「いらないです」

って普通に言える。

 

本人からしたら、

「いや、別に我慢してない」
「普通に今いらないだけ」

なのかもしれない。


お腹いっぱいで食べない人を、

崇め始めるのは、ちょっとあほすぎる。


本当に好きな人がいて、自然と他へ向かわないなら、

それは「理性で抑え込んだ」というより、

“別にそこへ行く必要がない”

だけかもしれない。

 

私は昔から、

“浮気しない人=人格者”

みたいな空気に、少し違和感があった。

 

もちろん、
人を傷つけないとか、
誠実であろうとするとか、
それ自体は大事。

 

でも、

「浮気しなかった」

という“結果”だけで、人格認定し始めると、
急に人間が見えなくなる。

 

そもそもライオンって、薄情なのだろうか。

 

逆に、ずっとつがいで生きる生き物もいる。

 

そこにいちいち、

「こっちの生き物の方が優秀です」

みたいなラベルは貼らない。

 

単に、生態が違う。

欲求の向き方が違う。

関係性の構造が違う。

 

なのに人間だけ、

「浮気しない」という結果に、
人格や精神性や道徳を全部乗せ始める。


浮気しない人にも、いろんな理由がある。

 

本当に満たされている人。

興味がない人。

失うのが怖い人。

社会的イメージを守っている人。

「誠実な自分」というアイデンティティだけを抱えている人。


浮気する人にも、いろんなパターンがある。

 

承認が欲しい人。

関係を終わらせる勇気がない人。

ずっと“いい人”をやりすぎて、自分の感覚が分からなくなった人。

生きてる感覚を確認したい人。

ただ寂しかった人。


でも中には、

単純に恋愛が好きな人。

色んな人を好きになる人。

その人にとって必要なものだった人。


満足していないなら、

二次会、三次会に行くのなんて、本来そんなに不自然なことではない。

 

なのに人間は、

「最後まで一軒目に残った人」を、美化する。


“浮気する/しない”

を、人格の通知表みたいに扱う感覚が、あまり好きじゃない。


私は時々、

その“誠実さ”の奥にある恐怖の方が、
気になってしまう。

 

浮気しないというのは結果であって、目指すべき姿でもない。


人間って、

「我慢できた人」を称賛する。


本当はもう食べたくない。

本当は別の料理にいきたい。

本当は、ずっと違和感がある。

 

でも、

嫌われたくない。

壊したくない。

“ちゃんとしている自分”を失いたくない。

 

だから、

「浮気しない」

という結果だけが残る。


この人は自己決定できているのだろうか。


“本当に満たされている状態”と、“欲望を抑圧している状態”って、外から見ると分かりづらい。

だから私は最近、

「浮気しない人ってすごい!」

みたいな言葉を見ると、

“その人は今、どんな状態なんだろう”

の方が気になる。

 

食べなかったことより、

「食べたとして、本当に満たされるのか」

そこを身体感覚で分かっている人の方が、私はずっと興味深い。


浮気しない人を称賛するあほ構造② 我慢を愛と呼ぶ人たち


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