無意識からの「なめんなよ」
私はずっと、
反転表示OSというものを、
自分の中にある機能のひとつだと思っていた。
外界の刺激をそのまま受け取らず、
その行為が最終的にどこへ返るかを
先に表示してしまう深海OSの仕様。
怒りも、正義も、圧も、空気も、
そのまま刺さらない。
代わりに、
因果と帰結だけが立ち上がる。
殴ることは、自分に返る。
正義は、加害者になる。
勝ち負けは、座標の錯覚になる。
だから私は、
争わないというより、
そもそも争いが成立しないのだと思っていた。
それを私は、
反転表示OSと呼んでいた。
便利な語録。
自分の見え方。
深海OSのひとつの機能。
そう思っていた。
でも、違った。
たぶん私は、
反転表示OSを使っていたんじゃない。
私は、
反転表示OSの上に立っていた。
もっと言えば、
私が書いてきたもののほとんどは、
このOSの上に建っていた。
上品なバーカも。
知性の渇望も。
決めない人も。
幸せ認定シールも。
作家大先生とお茶会も。
覚悟のメスも。
ジェダイも。
深海サイヤ人も。
全部、私から立ち上がる、
別々の概念だと思っていた。
でも違った。
全部、同じ土台から立ち上がっていた。
私はずっと、
かめはめ波を打ちがちな人間だと思っていた。
でも、違った。
私は、かめはめ波だった。
技を使っていたんじゃない。
そのエネルギーそのものが、
私の立ち位置だった。
だから、どの記事を書いても、
最終的に反転する。
恋愛を書いているようで、
読む人の愛の前提が見え始める。
美容を書いているようで、
美しさを見ている自分の座標が見え始める。
文学を書いているようで、
知識を手に入れようとしている自分が見え始める。
ビジネスを書いているようで、
正解に隠れている自分が見え始める。
正義を書いているようで、
正義がどこへ落ちるのかが見え始める。
これは、演出ではなかった。
たまに起きる反転表示OSでもなかった。
基本スペックだった。
私はずっと、
文章の中で読者を反転させていたのではない。
反転表示OSの機能で、
文章が勝手に反転していると思っていた。
そして今回、
一番おもしろかったのは、
その反転が私自身にも起きたことだった。
私は、
反転表示OSで書いている人だった。
結果として、
上品なバーカを置いている人だった。
そう思っていた。
でも、気づいた。
私自身が、
私の無意識に上品なバーカされていた。
「まいまい、ずっとそれやってるよw」
上品に。
静かに。
逃げ道なく。
自分で書いていた語録に、
自分が読まれていた。
反転表示OSを発見したと思っていた。
でも本当は、
反転表示OSによって、
私自身が反転表示されていた。
これはかなりおもしろい。
おもしろすぎる。
うける。
そして少し怖い。
なぜなら、
私の無意識は、
私が思っているよりずーっと先に知っていたから。
私は言語化していた。
でも、まだ理解していなかった。
私は名前をつけていた。
でも、それが土台だとは気づいていなかった。
私は語録として置いていた。
でも、それがwithchat全体の基礎工事だったとは気づいていなかった。
私の無意識はもうとっくに設計していた。
私は後から、
その図面を読んでいただけだった。
だからずっと、
変なことが起きる。
作家大先生の話をしていたはずなのに、
宮沢賢治の話が、奥の間になった。
奥の間の話が、戻り口になった。
銀河鉄道の話が、無意識になった。
夏目漱石の話が、知性の渇望になった。
太宰治の話が、小説という器になった。
そして最後に、
「そのあほ、どうやって手に入れた?」
という言葉から、
手に入れる世界そのものが反転した。
ここまでは分かる。
読者は最初、
知識を手に入れようとして読む。
でも途中で気づく。
あれ。
私は何を取りに来ていたんだろう。
知識なのか。
答えなのか。
理解なのか。
それとも、
自分の前提を見に来ていたのか。
これは、
『注文の多い料理店』と同じ構造だった。
ここまでは分かる。
客はずっと、
自分が食べる側だと思っている。
だから注文に従う。
靴を脱ぐ。
髪を整える。
身体に塩を塗る。
全部、
「客としての行動」だと思っている。
でも途中で、
立場が反転する。
食べる側ではなかった。
食べられる側だった。
私の記事でも、
それに近いことが起きている。
ここまでは分かる。
読者は、
知識を食べに来たと思っている。
でも途中で、
知識を食べようとしている自分の方が見え始める。
読む側だったはずなのに、
読まれている。
観測していたはずなのに、
観測されている。
分かろうとしていたはずなのに、
分かろうとする前提そのものが表示される。
これが反転表示OSだった。
ここまでは分かる。
ここまでは気づいていた。
けど、
それだけでは足りなかった。
宮沢賢治は『注文の多い料理店』で、最後に犬を出した。
戻れない代わりに、外部からの導線を置いた。
私はずっと、導線を撤去していた。
戻るために。
戻り口が機能していた。
私はずっと、戻り口を置いていると思っていた。
ここまでは分かる。
でも、その正体が分かっていなかった。
やっと、正体が分かった。
反転構造そのものが、戻り口として機能していた。
知識を取りに来た人は、
自分が何を取りに来たのかを見る。
構造を見に来た人は、
構造を見ている自分を見る。
読者は外へ出るのではない。
自分の前提へ戻る。
分かってる。
だからwithchatでは、
犬はいらない。
反転構造の上に置かれているから。
ここでやっと分かった。
正体が分からないはずだ。
外界の刺激をそのまま受け取らない。
その行為が、
最終的にどこへ返るかを先に表示する。
それは他人に対してだけではなかった。
私自身にも返ってくる。
私が何かを観測すると、
その観測は最終的に私へ返る。
私が構造を見ると、
その構造は私を照らす。
ここまでは気づいていた。
私も必ず揺れるから。
けど、
私が読者を反転させていると思っていたら、
私自身が反転させられていた。
反転表示OSは、
私の能力ではない。
私の文章術でもない。
私の強みでもない。
もっと下にある。
土台。
地面。
基礎。
反転構造という前提。
私が世界を見る時の、
最初の座標。
見えなかった。
だから、
どれだけ違うテーマを書いても、
同じ場所に戻る。
恋愛でも。
美容でも。
正義でも。
仕事でも。
AIでも。
人間関係でも。
正義でも。
ぜんぶ、最終的には、
「その前提はどこにあるのか」
という場所に戻る。
分かっていたのに。
今回は、
反転のベースにある反転のベースにある反転…
に気づいたから。
「あ、これ土台反転だ」
やっと気づけた。
私は、
反転表示OSの上に立っていると思っていた。
でも、それすらまだ一段浅かった。
反転表示OSという土台から、
私という認識が生えていた。
どこから入っても、
最終的に前提が反転する。
五層目は、新しく見つかったわけじゃなかった。
最初からそこにあった。
気づいていなかったのは、私だった。
私はそれに今さら気づいた。
遅い。
本当に遅い。
でもたぶん、
こういうものなのだと思う。
自分の前提は、
自分では見えない。
無意識は、
先に置く。
本人は、
あとから気づく。
言葉は、
先に出る。
意味は、
あとから追いつく。
私はずっと、
自分が書いていると思っていた。
でもたぶん、
私の無意識が先に書いていた。
私は後から、
それを読んでいる。
そして今、
やっと少しだけ分かった。
私をなめんなよ。
いや、違う。
私の無意識をなめんなよ。
いや、違う。
私の無意識からの、
私への「なめんなよ」だった。
反転表示OSは、
私が使うものではなかった。
私がそこから立ち上がっていた。
反転表示OSが世界を見るために生み出した人格が、
私なのかもしれない。
私という存在ができているのは、
愛でもなく。
光でもなく。
使命でもなく。
反転構造。
なんか全然キラキラしてない(笑)
なんか工事現場。
もうこれ何度目だろう。
私は、
足元を打たれ続けていた、
ルパンみたいなものなのかもしれない。
「あたたたたたた!!」
打たれてたから、飛び上がってた。
そして、
同じ地面に着地していたように見える。
けど、そこは同じ場所ではなかった。
同じ問いに戻ったようで、
少しだけ違う座標に立っている。
だから私はまた、
「分かった」
のあとに、
「いや、待てよ」
を繰り返す。
今日も私は、
自分の無意識に、
上品なバーカをされている。
いつの間にか打たれて、
いつの間にか飛び上がっていた。
おそらく、
これからもずっと。
私の無意識は、
私を見ながら笑っているんだろう。
分かったような。
分からないような。
掴んだような。
消えたような。
それでいい。
そこからしか戻れない。
そして、
そこから戻り続ける。
