見出し画像

いまここにある危機の本質 歴史の転換、あるいは破局

 だいぶ前に、トランプ氏とゼレンスキー氏について書いた。あの時私は楽観的な調子で、なかば冗談半分に文章をつづった。
 しかしそれは、じつのところ、現状に対する絶望的なペシミズムを背景にしたものだ。そこを基準にすると、現状起こっている何もかもが、とるにたらないことのように見えてくるのである。

 現在、トランプ大統領の仕掛けた「相互関税」が世界経済を席巻している。各国首脳は前代未聞の措置に右往左往するばかり。世界の市場は大混乱をきたしている。

 とうとうパンドラの箱が開いた。
 私は本欄でもたびたび、現代は危機の時代であると書いてきたつもりだが、ここにきてそれが明確なかたちをとりはじめた。

 そこで今回は、いま世界で起こっていることについて、私なりに、大まかな輪郭を描いてみようと思う。

トランプ関税の意味

 これまで米国は自由主義の理念とナショナリズムを使い分けてきた。ナショナリズムの推進は、「自由平等」という仮面のかげで行われてきたのだ。しかし今回はちがう。「アメリカをふたたび偉大に」というスローガンの下、あっさりと仮面をかなぐり棄てた。

 さらにはグリーンランドやパナマ運河の領有をめざし、ロシアのウクライナ侵略を容認しようとしている。対中国戦略という点では解らなくもないが、それにしても現状、少なくとも国際社会においては、自国の利益だけを優先する偏頗な政策としてあらわれている。それはかつての孤立主義ともちがう、アメリカの歴史的な転換である。

 要するに、「自由平等」という近代をかたちづくる中核的価値を、その盟主であると目されていた米国があっさりと擲ち、剥きだしのナショナリズムを露わにしだしたのである。
 これは何を意味するのか。トランプ在任時だけの一時的なものなのか。一連の動きを見ると、そうはとてもいえない。

 近代は、「自由・平等・博愛」を旗印にして始まった。それが個人の確立という現象としてあらわれてゆく。
 そこから人類は、欧米諸国に先導されながら、たびかさなる惨禍や挫折をのりこえて、かたつむりの歩みにも似たスピードで、少しづつ現在の世界秩序を形成してきた。国際法や自由貿易体制を、漸進的に築いてきたのである。
 いまそれが崩壊の危機に瀕している。これはひとりトランプ氏だけの問題ではない。

 近代をみちびいてきた根本的理念は、少数者ないし弱者にも権利を認めるというところにある。しかもそれを自国内にとどまらず、全世界に拡大するというところに、その眼目があった。人種や国境を問わず、個人の自由と権利を認めるのである。
 国連やWTОのような国際機関の設立や、貧困対策、差別の撤廃、国際協定にもとづく国家間の安全保障、自由貿易のルールを長い年月をかけて少しづつ積み上げてきた。
 現在の、性差別やハラスメント禁止の法制化もそこから帰結したものである。

 その点、パーソナルな次元では、近代の理念はかなり隅々までいきわたってきたといえなくもない。実際に仕合せといえるかどうかはべつとして。

近代的価値の失墜

 資本主義経済の行き詰まりということがさかんにいわれている。

 資本主義は搾取の経済であり、それ次第で利潤は決定される。対象は初め自国の労働者だったが、帝国主義とともに、搾取の相手はアジア・アフリカ諸国や南米に広がった。
 欧米諸国は、むろん日本も、それによって巨大な富を得てきた。しかし同時に、近代的価値を広めてもきた。その結果、各国は主権に目覚め、フロンティアの終焉とともに、海外での搾取は難しくなる。利は薄くなり、これまでの繁栄を支えてゆけなくなった。

 そこで資本は、方向を転換し、眼を国内にむける。新たなターゲットは自国の中間層と低所得者層。サブプライムローンとか、派遣労働者制度などは、その具体的な搾取の事象である。利潤をふやして成長を確保するためのなりふりかまわぬ措置といえる。

 資本主義は成長をつづけなければ崩壊する。得られた利益を再投資してさらに大きな利潤を生む。この回転をつづけなければ、経済体制を維持できないのだ。
 私の子供のころは「絶対安全」といわれていたスイスの銀行が破綻した。いまやリスクのある投資をしなければ、スイスの銀行といえども利益を上げられなくなっているのである。

 巨大資本は弱小の企業を次々と呑みこみ、あるいはなぎ倒し、いよいよ寡占がすすむ。国境を越えて世界に浸透し、国家とも訣別する。

 グローバルな巨大企業は、ネットを利用して国境を越え、世界の市民から満遍なく広く巧妙に富を吸い上げるシステムを構築している。無辜の民はネットを利用することによって、知らず知らずのうちに、なけなしの富を流出している。もしくは個人情報を吸い取られて、いいように操られる。

 その結果、世界的に中間層は日を追って減少しており、ほんの一部の高所得者と大多数の低所得者という経済格差による世界の分断が史上類例のない規模で拡大している。

 このことは、社会的弱者の権利が広く細かく認められるようになった社会制度の進化と、あまりにも非対称である。結果的に見れば、少数弱者の権利を確保する代償として、人びとは貧困にあえぐことになったといえなくもない。

 それが意味するのは何か――

 いうまでもなく、近代的価値の破綻である。内部から崩れ、バランスを失い、機能しなくなってきている。

 そのため、現代批判の書が多く出され、改革が広く叫ばれている。
 私も、テイラーやマルクス・ガブリエル、斉藤幸平、柄谷行人など、いろいろと目を通してみたが、それぞれ立場は違えども、私の読む限り、かれらの言説は、「自由・平等・博愛」という近代の枠組みから一歩も出てはいない。

 近代的価値はその積極的可能性を汲みつくしてしまっている。そこからあらたに、澄んだ美味い水を湧出する泉をさがすことはもはや不可能である。それはちょうど、月でうさぎを見つけ出そうとするのと同じ、あからさまな徒労である。

 いま、われわれは、出口のない袋小路に迷い込んでいるのである。

「非対称」ということ

 私は、現在の世界の現実は「非対称」だといった。いいかえればそれは、近代以来の理念と現実の状況が齟齬をきたし、それどころか、背反して作用しているということである。
 それは経済問題にとどまるものではない。

 われわれが手にしている古地図は、地形が変容し、新たに道のつけ変った現在において、まったく役に立たないばかりか、ミスリードの原因ですらある。
 何をするにしても、われわれは四辻に立たされて、どちらに進むべきか、途方にくれている。

 たとえば、「ハラスメント」を例にあげれば、誰もがその正当性を認めるものであることは、まったく疑いの余地がない。
 しかしながら、自分が当事者となった時、いきすぎた行為はもっての他であるにしても、部下の失策を上司が叱るのは当たり前だし、多少のスキンシップを咎められるのは心外だと考えはしないだろうか。

 軍隊において、訓練とパワハラのどこに一線を引くのか。殺傷能力のある武器を携行し、敵と遭遇した場合に一貫した行動をもとめられる兵士は、厳しい訓練を課される。上官の命令は絶対である。指揮系統の乱れは、隊全体を危険にさらし、ひいては国家の危機につながる。
 一般企業においても、程度の差はあれ、業種によっては安全を確保するために厳しさは必要であるし、そうでなくとも一社員の失策が会社の浮沈にかかわることだってある。

 友人のエンジニアは、このまま「パワハラ」を無限定に追及しつづければ、日本各地でこれまでにはなかった業務上の過失事故が頻発するだろう、と私に予言した。

「今日は特に綺麗だね」といってしまってセクハラだといわれたとしても、これが木村拓哉氏の口からでたのであれば、セーフであるかもしれない。同じことをして、罪状認否に違いがでるとしたら、それは法の前の平等という基本精神に悖るのではないか。
 それをひっくり返せば、ほとんどの人がセーフであることも、私だけはアウトかもしれないのだ。そういうものを、「法」といえるのか。

「ハラスメント」に対する最大の「安全保障」は、「何もいわず、何もしない」ことである。
 わが身を守るためには、なるべく他者との接触を避け、不要なことはいわない、しない、ということが肝要な心掛けだ。うっかり冗談もいえない。
 そうすると人は、内心、これは、と思ったにしても、いうべきことを差し控えるようになる。自分の権利を主張すること以外は、たとえ相手のためだと考えてもいわなくなる。
 万人が仕合せになるための制度が人を孤独に陥れる。人間関係は希薄となり、つねに地雷原の荒野を行くように、前を向くよりも、目を伏せ、おっかなびっくり、足下にばかり神経をつかって、戦々恐々として日々過ごさなければならないのである。

 それがはたして、人びとの望んできた理想の人間関係だといえるであろうか。差別をなくし、少数弱者の権利を保護するという近代的理念のたどりついた先は、個人の希薄化、孤立化、機械化である。
 人びとはポジティブな意志を失い、惰性と行きがかりで生きている。批判の目を自己に向けることをせず、問題を社会や他者に預けて、自身はゲームの世界に逃避する。

 ここにも「非対称」がその巨大な姿の一部を露呈している。

 いずれにしても、「ハラスメント」という単一の切り口から見ただけでも、人は理念と現実、本音と建て前の相克を前にして手をこまねいているしかないという現実に耐えている様子が解る。

 近代の個人主義は、結果として、個人のポテンシャルの弱体化という事態に帰着したのだ。現代人は、個人で解決すべき問題についても、すぐに法や社会制度に頼ろうとする。みずから省みることをせずに、総がかりで他者を非難する。その背後に垣間見えるのは、強者を集団でたたいておこうとする歪んだ権力意志である。
 歴史上、最高度の文明人であるはずのわれわれが、一皮むけば、ニーチェが口をきわめて侮蔑した「蓄群」となっていはしないか。

「非対称」はとどまることを知らない理念の墜落現象の表示である。

世界の野蛮化

 こういう事態は、往々にして、重大な錯誤を生む。
 その最悪なものは、オルテガもいっているように、人を野蛮化に導くことである。

 トランプ氏の当選と、その後の政策は、その端的な例である。

 私は、弱者・少数者の権利を保護するのが近代の理念の中核だとのべた。
 アメリカは二十世紀中ごろから、その先頭に立って旗を振ってきた。「自由平等」を掲げ、さまざまな問題をかかえながらも、世界の紛争に介入し、自由貿易体制を主導してきたのである。

 しかし、かれらはふと考えた。そうして世界に貢献した結果、手にしたものは、国家としては相対的な国際的地位の低下であり、国際収支の莫大な赤字であり、個人としては「貧困」ではないか。そんな馬鹿な話があるものか、と。
 そしてかれらは決意したのである、「非対称」を解消するために「自由平等」の旗を降ろすことを。

 意識の上でそれは、遠き見知らぬ少数弱者に対するものであり、孤立主義への回帰という「外見」をとってはいるが、いまさら「神の前の平等」という建国の精神を放擲することは、持続するものの中断――歴史の否定であり、その実質は、エゴイズムの盲目的な肯定という野蛮化の明瞭な徴候にほかならない。

 なにも米国だけではない。ロシアはいうまでもないが、これはもはや世界の趨勢といえる。各地で極右勢力が伸長し、世界が野蛮化にむかっている。プーチン氏やトランプ氏はその先鞭をつけただけだ。

 野蛮化とはすなわち、みずからのエゴイズムのみを指針として生きることだ。

 しかしそれもある意味、仕方ない。「非対称」というのは、理念が現実に有効に作用していないということであり、邪魔になった理念を棄て去るのも無理からぬ話だ。
 役に立たなくなったものにいつまでも執着していては、人はますます生きにくくなるだけである。

 とはいってもそれは、人間の本性に逆らう行き方でもある。豊かに生きたいという人間の希望には、物質的な豊富さだけではなく、ある場合にはそれを犠牲にしても、「良く生きたい」という衝動があるからだ。

 したがって、ある歴史的理念を棄て去った場合、新たな理念を創作することが切実にもとめられる。人間はエゴイズムの満足だけでは、けっして仕合せになれないのだ。

 だが、ここが問題なのだが、野蛮化からはいかなる理念もあらわれてはこないのである。

新たな時代にむけて

「野蛮化」とは、単純に人間が密林の動物にもどることを意味するのではない。
 そうではなく、「理念」というものがいかなるものであるかということに、いささかの注意も払わなくなることである。いいかえれば、人類の歴史そのものを否定することだ。
 人は歴史的であることによって、人なのである。自己の中の連続し持続するものが、人間をして人間たらしめている。
 とすれば、「野蛮化」とは、とりもなおさず、人間およびその文明の非人間化ということにほかならない。

 さきにものべたように、現在の体制は、先人たちの必死の努力の中で、長い年月をかけて歴史上に仮構されたものなのだ。それは理念によって構築された知的構造物である。この理念的な構造物のかたちづくる地平線の上でわれわれは生活しているのである。
 社会も国家も、そして個人も、じつのところ、そうした仮構された理念の一形態なのだ。それはきわめて脆く壊れやすいものであり、構築し維持しようとする強固な意志によってのみ成立するものである。

 野蛮化とは、そういう人間的事実に無感覚になることである。
 かれらはそれらを自然発生的なものであり、無償であたえられるものとして享受する。あたかも莫大な財産を相続して享楽的に生きるどら息子のように。
 近代的価値にしたって、それを打ちたてようとする人びとの不断の営為によって僅かに保たれてきたものであり、それを安易に放棄するだけでは、いかなる解決にもならないし、新たな未来もけっしてあらわれては来ない。

 そうはいっても、新たに登場すべき理念がどのようなものであるか、私なんぞに予見できるはずもない。

 それでも、はっきりしていることは、いまある「非対称」を厳しく自覚するところにしか、新たな出発はないということである。それには社会や国家の諸問題よりも、それ以前に、まずもって自分自身を仮借のない目で見つめ直すことをもとめられる。
 むろん、目が目を見ることはできない。したがってそれは「非対称」の現実と自己を真正面から噛み合わせることによってのみ達成される。人はぼろぼろになりながらも、生き抜くために、きっと何かをつかみ、ふたたび立ち上がるであろう。

 私個人としては、従来の個人主義を乗り越える「自己本位」の確立から、新たな世界像は現れてくるだろうと考えている。
 その兆候は、政治や経済ではなく、まず科学や芸術の分野に現れてくるであろう。AIやDXという時代を画する技術の背後にあるもの、あるいはそれへの向き合い方が、何らかの方向性を示唆してくれるかもしれない。私はそう期待している。
 
 
 

いいなと思ったら応援しよう!

神原 伊津夫 福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。