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映画『マネー・ショート』は現実を見なかった世界が支払った代償を映す

これは単なる金融危機についての映画ではない

映画『マネー・ショート』を初めて見た時、私はリーマンショックが起きた経緯について学べる映画だと思っていた。

確かに、映画はサブプライムローン、MBS、CDO、CDSといった複雑な金融商品をユーモアたっぷりに解説してくれる。
しかし、映画を見終わった後に強く印象に残っているのはそれらの金融知識ではない。

この映画が描いていたのは、人間がどのように現実を無視し、信じたい物語にしがみつくのかという構造だった。

そして、その物語が崩壊したときに初めて、人は真実と向き合う。

本作を一言で表すとこう表現できるだろう。

人は信じたい物語にしがみつくが、現実の痛みを経験したとき初めて真実と向き合う。

バーリだけが現実を見ていた

映画の冒頭でマイケル・バーリは、住宅ローンを集めて商品化したMBSについて具に調べる。

他の投資家たちは格付け会社が付けたMBSの評価だけを見る。
AAAだと安心して購入できる。

しかし、バーリだけは住宅ローンそのものを見る。

借り手はどんな人なのか。

いつ金利が上がるのか。

本当に返済能力はあるのか。

映画の後半になると、金融商品はどんどん複雑になっていく。

住宅ローンはMBSとなり、MBSはCDOとなり、CDOにはCDSが付けられ、さらに合成CDOが作られる。

まるでインセプションの夢の階層のように、現実から離れた世界が積み上がっていく。

しかし、バーリやバウムたちだけは逆方向に潜っていく。

複雑な金融商品の階層をたどり、最終的に元の借り手へと戻る。

この映画に登場する主人公たちは未来を予言したわけではない。

ただ、誰も見ようとしなかった現実を見たのである。

市場は真実ではなく物語を信じていた

映画を見て気づくのは、真実が隠されていたわけではないということだ。

住宅ローンの債務デフォルト率は上昇していた。

空き家も増えていた。

誰でも住宅ローンを借りれる状態になっていた。

問題は情報不足ではない。

問題は誰もその現実を信じたくなかったことだ。

市場全体が「住宅価格は上がり続ける」という物語を信じていた。

その物語の前では、都合の悪い事実は無視される。

マイアミでバウムたちが見た光景は象徴的だった。

住宅ローンを返せない人たち。

誰も住んでいない住宅。

現実はすでに崩れ始めている。

それなのに市場はまだ楽観的だった。

格付会社の担当者との会話シーンも忘れられない。

ギャグみたいなサングラスをかけた担当者は、自分たちが銀行に言われるがままに嘘の格付けを与えている理由を平然と説明する。

そこにあるのは陰謀ではない。

顧客を競合に取られて利益を失いたくないという人間的な弱さである。

この映画の恐ろしさは、悪人が世界を壊した話ではないことだ。

誰もが自分に都合のいい物語を信じた結果、システム全体が現実から離れていったのである。

合成CDO─現実から切り離された金融システム

映画の中盤で登場する合成CDOは、金融危機の狂気を象徴している。

住宅ローンから始まった商品は、MBSとなり、CDOとなり、CDSとなり、最後には合成CDOへと変わる。

ここまで来ると、もはや住宅ローンそのものは見えなくなる。

セレーナ・ゴメスによるブラックジャックを例にした合成CDOの解説シーンは見事だった。

最初はゲームの勝敗そのものにお金を賭ける。

しかし、次に起こるのはゲームの勝敗の賭けに賭けをする。

さらに、その賭けに賭ける。

気づけば誰も元のゲームを見ていない。

金融市場も同じだった。

家を買う人の返済能力よりも、その上に積み上がった金融商品の方が重要になってしまう。

CDOマネージャーが合成CDOを得意げに説明するシーンで、バウムは嫌悪感を隠せない。

それは金融商品が複雑だからではない。

現実から切り離されたシステムが、自らを正当化しながら膨張していくことへの嫌悪感だった。

崩壊は静かに始まる

映画の後半で、ついにサブプライムローン市場の崩壊が始まる。

しかし、その崩壊は驚くほど静かだ。

ニュース・数字・チャート・電話。

世界が壊れ始めているのに、爆発音はしない。

その静けさがかえって不気味だった。

村上春樹の『1Q84』から引用された言葉が印象的である。

Everyone, deep in their hearts, is waiting for the end of the world to come.

人は心のどこかで終末を待っている。

しかし、実際に終末が訪れると、それは想像していたものとは違う。

ベネットは歓喜する。

彼の予想は当たった。

莫大な利益が転がり込む。

しかし、バウムは違う。

彼は冷たい表情で市場の崩壊を見つめる。

二人は同じ状況を見ている。

だが見ているものは違う。

ベネットは利益を見ている。

バウムはその向こうで職を失う人々を見ている。

その対比が強く印象に残った。

人は痛みを経験して初めて真実と向き合う

映画を見終わって最も考えさせられたのはこの点だった。

なぜバウムはすぐにCDSを売って利益確定しなかったのか。

なぜ彼は最後まで怒っていたのか。

それは人は警告だけでは変わらないと思っていたからではないだろうか。

実際、この映画では多くの人が真実を知る機会を持っている。

データもあった。

現場の兆候もあった。

しかし、ほとんどの人は変わらなかった。

だから最後に残ったのは痛みだけだった。

住宅ローンの破綻。

差し押さえ。

失業。

金融機関の崩壊。

人々はその代償を支払うことで初めて現実と向き合う。

バウムが求めていたのは利益ではなく、現実を認めさせることだったのかもしれない。

それでも人はまた物語を信じる

バーリやバウムたちは正しかった。

しかし、彼らは勝利者には見えない。

なぜなら彼らが勝ったということは、すなわち社会が負けたということだからだ。

そして映画のラストはさらに苦い。

金融危機は起きた。

人々は痛みを経験した。

しかし、世界は本当に変わったのだろうか。

映画はその答えを楽観的には描かない。

むしろ、人は再び新しい物語を信じるのではないかと示唆して終わる。

『マネー・ショート』は金融危機を予言した天才たちの映画ではない。

人間がどれほど真実よりも信じたい物語を選び、そしてどれほど大きな代償を払って初めて現実と向き合うのかを描いた映画だった。

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