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高知の絵描き・永吉 海心のこと

mano a 麻乃、 別アカウント始めました。


そうだ。父のことを遺そう。
本棚にある父の遺した唯一の画集と、
昭和45年に刊行された非売品の冊子。
これらをnoteに遺そうと思った時、
私の「mano a 麻乃」のアカウントではテーマが違いすぎるな、と思い、
別アカウントを取りました。

もうひとつのアカウントはこちら↓


亡父・永吉ながよし海心かいしんは、
雅号に思われがちですが、本名です。
「海のような広い心を」と願われたとかなんとか、そんなことを言ってましたっけ。

父は、昭和6年11月3日、高知市に9人兄弟姉妹の末っ子として生まれました。
父の生まれた時には、もう長女と次女はお嫁に出ていたそうです。

小学校高学年、中学校と、ほぼ立て続けに両親が亡くなり、
父の高校までは、伯父で三男の忠義ただよしさんが学費などの面倒をみてくれたと聞いています。

大学生になる頃には、土方どかたで学費を稼いだと言ってました。
父は、小柄でしたが、筋肉ムキムキだったのは、
昔の肉体労働の名残りだったように思います。

いつだったか、忠義さんに聞いたのは、
「永吉の家系に、絵を描くヤツらぁ、
ひとりもおらざった(いなかった)けんど、
海心は、昔から絵を描きよったがよ」という話。


発病してから 父のアトリエにて撮影
私の持ってた一眼レフの広角レンズでアトリエの上に登って撮ったのだけど
兄たちは、私の撮影だと知らなかったそ〜な…😂

父は、絵描きを志し、
高知大を中退して、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に進学します。
が。肉体労働の無理が重なり、痔瘻を患い、
志し半ばにして、高知に帰郷。
昭和30年、地方公務員として『高知聾学校』で教職に就きます。

教職に就いて間もなく、
学生寮の寮母として勤務していた伊藤二支ふじと交際し、
26歳で結婚。
昭和35年3月に長男・鉄也、
昭和36年7月に次男・民木、
昭和37年1月に長女・麻乃(←コレが私)と、
年子で2男1女に恵まれ、
おりしも戦後高度成長期、
ワチャワチャと育てられた記憶がうっすらとあります。

父と母は、高知市内に40坪ほどの土地を買い、
小さな家を建てました。
私の記憶の中の父は、
家に居る時は、いつもアトリエの中で油絵を描いていました。
もしくは、
彫塑を作っていました。

モデルを前に描くことはせず、
記憶の中だけで、描いていたように思います。

子育てのため、生活のための教職だったはずですが、
教師としての父は、
生徒らに慕われていたと思います。
自宅には、よく父のもと生徒が訪ねてきてくれていました。

聾唖者と話す父は、手話が主でした。
子どもの私にはチンプンカンプンでしたが、
父と生徒さんが、雄弁に語り合う手話の姿は、
妙にカッコよく見え、
幼心にも誇らしい気持ちになっていたように憶えています。

このnoteでは、
まず父が著した『音のない世界』から、順に発表していきたいと考えています。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

2026年8月14日記
旧姓:永吉 麻乃

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