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親父が血まみれで守ろうとした正月。『ピンボケの幸福論13』

一年の始まりに、ふと思い出す光景があります。

あれは、いつの頃の元旦だったかな。

新年会から帰ってきた親父が、用水路に落ちて、顔面血まみれで帰ってきたことがあったんです。

視力を失いかけていたのに、なぜかあの男は一人で歩きたがり、怪我をして帰ってくることが多かったような。

おめでたいはずの日に、玄関を開けたら泥と血まみれの親父。

居間のテレビではお正月特有の賑やかな笑い声が流れていて、その前で母が黙々と親父の傷を拭いている。

なんだか、おかしくて、ちょっと切ない、わが家の「新年の始まり」でした。

傷だらけの親父(イメージ)

親父は、傷だらけの顔をしながらも、一生懸命に「正月」を作ろうとしていました。

どこからか大きなシャケ(新巻シャケ)を買ってきたり、ストーブの上で餅と一緒にニンニクを焼いて、家じゅうを不思議な匂いにしたり。

新巻シャケ

極めつけは、マイカーのボンネットの先に、ちょこんと松飾を付けたこと。

これって昭和の頃、全国的に流行っていたのかな。

昭和の車に松飾(ダサッ)

今思い返せば、ちょっと不格好で、恥ずかしいくらいなんだけど、親父なりに「一年を何とか頑張るぞ!」という、家族や自分自身に向けた精一杯の表現だったんだと思います。

でもダサいように感じますよね。

家族で善光寺にお参りに行って、不機嫌そうな顔で並んで写真を撮る。

冷めた目で撮影

子供の頃の僕は、「そんなことしなくたって、お正月は来るのに」なんて、どこか冷めた目で見ていたような気がします。

でも、中年と言われる歳になって、ふと気づくんです。

もしあの時、親父が泥臭く「正月らしさ」を演出しなかったら、僕らの家には「お正月」なんて、どこにもなかったんじゃないかって。

今の僕の生活からは、そういった「正月らしさ」はほとんど消えてしまいました。

科学が進んで、生活が便利になって、わざわざ寒い中出かけなくても、特別なことをしなくても、時間は平等に過ぎていく。

でも、そうやって「いつも通り」に過ごしていると、時々、言いようのない不安に襲われることがあるんです。

それは、真っ暗な宇宙空間に、ポツンと放り出されたような感覚。

元旦から宇宙に放り出された作者

「始まり」も「終わり」もない、のっぺりとした時間の海を、どこに向かっているかもわからずに漂っているような、そんな怖さです。

もしかしたら、人間が長く続けてきた「行事」や「しきたり」には、意味なんてないのかもしれない。

科学的に見れば、昨日と今日は地続きの、ただの24時間です。

でも、だからこそ、人は「ここが区切りだよ」「ここからまた始まるんだよ」という「目印」を、あえて作ってきたんじゃないかな。

人間としてこの不確かな宇宙

を生きるための拠り所として。


親父が血まみれになりながら守ろうとした、あの不格好な正月。

それは、真っ暗な海に打ち込まれた、一本の杭のようなものだったのかもしれません。

その杭があるからこそ、僕らは自分が今どこにいるのかを確認して、また一歩、歩き出せる。

「意味があるからやる」んじゃなくて、「やり続けてきたことにこそ、僕らを支える意味が宿る」。

そんなことを、今の僕は親父から教わっているような気がします。

さあ、新しい一年が始まりましたね。

皆さんは、どんな「目印」を立てましたか?


🌱草の根クリエイター
もうソウ太郎


『ピンボケの幸福論』
Eテレ&note企画受賞作品🏆
『ピンボケの幸福論』1〜13話 

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