【1話読切】「公文式」か「命懸けの雪遊び」か─僕が選んだ道とその代償『ピンボケの幸福論7』一話読切
——雪の底の孤独と、公文式の呪縛について
雪が降ると、私はある種の滑稽な死の幻影を見る。
それはバブルという狂乱の時代、雪国の一角で演じられた喜劇であり、同時に我々子どもたちの命をかけた退屈な遊戯であった。
親戚の経営する民宿は、スキー客という名の欲望の塊で溢れ返っていた。
週末ともなれば、関西からの客が押し寄せ、大人はただひたすらに金を稼ぎ、客をもてなすことに狂奔していた。
母の運転するおんぼろの軽自動車で、我々はそこへ運ばれた。
途中、「もっこり峠」と呼ばれる隆起した路面を通過する際、車体はふわりと宙に浮き、天井に頭をぶつけては妹と笑い転げたものだが、それはほんの束の間の浮遊に過ぎない。
重力はすぐに我々を地上へ、いや、雪の底へと引きずり下ろすのだ。
民宿に到着すれば、そこは戦場である。
本来ならば雪原へ飛び出し、自由を謳歌すべきところだが、私には「公文(くもん)」という名の近代的な拷問が課せられていた。
大量のプリントを処理せねば、自由は手に入らない。
窓の外では従弟たちが雪に塗れている。
私は狭い一室で、引き算と格闘する囚人であった。
そこへ悪魔が囁いた。
従弟のスグオである。
「面白いものがある」 その一言に、私の理性は脆くも崩れ去った。
私はプリントを放棄し、三階の窓辺へ立った。
眼下には二メートルの新雪。
そこには既に数人の子どもたちが埋まり、私を挑発していた。
「飛べ」と彼らは言う。
私は直感的にそれを快楽と判断し、空へ身を投げた。
それは見事な堕落であった。
ズボリ。
新雪は慈悲深いクッションなどではない。
それは粘着質なセメントのように私の身体を飲み込み、胸のあたりで凝固した。
「罠にかかったな」と従弟たちは笑う。
思考力の欠如。
公文をサボった報い。
私は自らの愚かさを雪の中で噛み締めた。
しかし、事態は笑い事では済まなくなっていた。
夕暮れは早い。
雪国の闇は、インクを流したように世界を塗り潰していく。
笑っていた従弟の表情が凍りついた。
「おい、やばいぞ」と誰かが呟く。
身体の芯に侵入してくるのは、冷気ではない。
明確な「死」の気配である。
民宿の窓からは暖かな光が漏れている。
そこでは大人たちが、客のために湯を沸かし、魚を焼き、布団を敷いている。
喧騒と湯気、あたたかな営み。
だが、その光は我々には届かない。
我々は雪の蟻地獄もがく、忘れ去られた存在であった。
大人は忙しすぎて、子どもの不在になど気づかない。
バブルの熱狂は、足元の小さな命を平然と見落とすのだ。
皆、動けなかった。
声も出ない。
このまま凍死するのか。
公文のプリントを未完のまま残し、雪の像となって発見されるのか。
それはあまりに惨めで、滑稽な最期ではないか。
救済は、意外な方角からやってきた。
民宿にはハチという名の雑種犬がいた。
普段は吠えるだけで何の役にも立たない、駄犬である。
そのハチが、奇跡的に首輪を抜け出し、我々の墓場のふちへトトトッと現れたのだ。
従弟のスグオが、最後の力を振り絞り、ハチに雪玉を投げつけた。
「この役立たずめ」という呪詛を込めて。
その雪玉が、あろうことかハチの鼻先、その急所に見事に命中したのである。
「ギャンッ!!!」
その悲鳴は、犬の声ではなかった。
裂帛(れっぱく)の気合か、あるいは地獄の底からの怨嗟か。
静寂な雪山に、その断末魔が響き渡った。
「なにごとだ!」 風呂上がりの祖母が、湯気を立てたまま裸足で飛び出してきた。
そして、雪に首だけ出して並ぶ孫たちの惨状を目撃したのである。
「こりゃ死んじまうわ!」 大人たちがスコップを手に走ってきた。
我々は土塊のように掘り出され、生還した。
風呂に放り込まれ、ガタガタと震えながら私は思った。
「ああ、公文をやっておけばよかった」と。
宿題を片付けてから遊んでいれば、こんな目に遭わずに済んだ。
あのCMの「やっててよかった公文式」というフレーズは、学力の向上などという生温かい意味ではない。
あれは、「やるべきことをやらねば、死ぬぞ」という警告だったのだ。
「やってりゃぁよかった公文式」
だが、今にして思えば、あれこそが私の「幸福」の正体ではなかったか。
完全な幸福などというものは、退屈な絵空事に過ぎない。
死にかけ、凍え、見捨てられ、駄犬の悲鳴によって拾われた命。
あの日の雪の匂い、圧倒的な孤独、そして湯気の温もり。
それら不完全で、ピントの外れた記憶だけが、大人になった私の胸をじりじりと焼き続けている。
公文など、やっていてもいなくても、どちらでもよかったのだ。
ただ、あの雪の中で我々は確かに生きており、そして滑稽に死にかけていた。 それだけで十分ではないか。
私は今日も雪を見ると思い出す。
ピンボケした幸福と、鼻に雪玉をぶつけられた犬の、あの偉大なる悲鳴を。
もうソウ太郎
