野沢温泉村のアイデンティティ〜野沢のビーナスは、今日も村をかき回す〜
野沢温泉村には、どうしても説明のつかないものがある。
雪でもない。
湯けむりでもない。
道祖神祭りの火柱でもない。
もっとこう、ぬるっとした何かだ。
村を歩くと、空気が妙に濃い。
スキー客の笑い声の奥で、地面の下から何かがこちらを見ている気がする。
たぶん、あれだ。
岡本太郎の《野沢の乙女》。
いや、“乙女”なんて可愛い名前じゃ足りない。
あれはもう、野沢のビーナスだ。
しかも、かなり面倒くさいタイプの。
「お前、それ本当に面白いの?」
って、ずっと村全体に問い続けてる。
外湯に浸かっていても、
野沢菜を漬けていても、
鳩車を回していても、
スキーで華麗に滑っていても、
あの目が言う。
「それで?
お前は、生きてるのか?」
怖い。
普通、観光地って“安心”を売る。
ここに来れば癒されますよ、
整いますよ、
インスタ映えしますよ、って。
でも野沢温泉村は違う。
整わない。
むしろ、乱される。
火と雪。
温泉と極寒。
静かな山と、狂った祭り。
バランスがおかしい。
厄年の男たちが、巨大な社殿を燃やしながら押し合うあの祭りなんて、冷静に考えたら意味不明だ。
観光パンフレットに載せるには、だいぶアートだ。
でも、だからこそ本物だ。
※「国の重要無形民族文化財」の指定され日本三大火祭りのひとつと言われる野沢温泉道祖神祭り。
村って、本来そういうものだったんじゃないか。
便利とか、効率とか、ブランド化とかじゃなくて、
「ここにしかない、説明不能な熱」
それが土地の正体だった。
岡本太郎は、それを嗅ぎつけたんだと思う。
彼は、美しいものを作る人じゃない。
美しいフリをしてるものをぶっ壊す人だ。
だから《野沢の乙女》は、たぶん人々が想像するタイプの美人じゃない。
むしろ少し不気味だ。
夜中に見たら、たぶん謝る。
でも、その不気味さこそが村の核心だ。
野沢温泉村は、“ただの田舎”じゃない。
もっと原始的で、
もっと混沌で、
もっと生々しい。
土の匂いがして、
火の粉が飛んで、
雪に埋もれながら、
なぜか笑ってる。
あの乙女は、その全部を知ってる。
だから村人も、観光客も、移住者も、みんな少しずつ巻き込まれていく。
「なんか分からないけど、ここ好きなんだよな」
それ。
それが野沢のアイデンティティだ。
説明できた瞬間に、たぶん消える。
だから今日も、野沢のビーナスは笑ってる。
温泉街のどこかで、
外湯の湯けむりの向こうで、
道祖神の炎の影で。
「もっと、ちゃんと狂え」
と。
たぶん、あの村は
人間の根源を突きつける稀な聖地だ。


もうソウ太郎
