龍笛(りゅうてき)#3
龍笛(りゅうてき) 第三話
西寺依浬は迷っていた。
ため息のようにも独り言のようにも、天を仰ぎながら、酒を飲みながらやはりため息をついている。
「君は、どう思う? 星江ちゃんや少年のこと」
「どうって、私にはなにも言えないわ。だって、私、貴方と同じ立場ではないもの」
言いながら、依浬の空になった杯に私は黙って酒を注いだ。今は、それしかできない。私が依浬の仕事に口をはさむことはできない。ただそっと寄り添うのが私のつとめ。
秋の終わりの初雪の降る日、二人で雪空を眺めていた。粉雪はもう遠くの山々の頂を冬の気配に染めはじめていた。こうして依浬と冬を迎えるのは何度目かしら。とそのとき、天空からかすかに龍の気配がした。気配が私たちに向かって近づいてきた。だんだん雪がはげしくなってきた。
懐から龍笛を出すとぐっと酒を飲み干して、依浬がゆっくり立ち上がった。薄暗い廊下に依浬の影が長い尾を引いていた。私は黙って依浬の影を眺めていた。できれば、いつも、私のそばにいて欲しい。ことにこんな日は。
朝、眠りから覚めたときから私の気分がすぐれなかった。身体の芯を焦燥が気怠く揺らしていた。危うげな発作が起こりそうだった。そんな私の心の隙間を狙ってアイツは忍び寄ってくる。いつもそうだった。
「どうしても、行かなきゃなりませんか?」 愚問。
依浬は身支度の手を止めたが何も答えなかった。そのかわり、私の睫毛が震えそうなほど顔を寄せて、フッと息を吹きかけた。まるで呪を唱えるみたいに。自分が留守の間、私を邪悪なものから守るために。依浬はいつも私の心が不安定になると、こんなふうにする。そうすると、私の心が本当に穏やかになるから不思議。私の心は愛で満たされる。
底冷えした庭の南天が雪に震えていた。あの初夏の日の、メジロとの思い出が鮮やかによみがえった。南天のなかに巣を見つけて驚いたこと、いつまで経っても孵らない卵を見守ったこと、そんな卵から小さな茶色いヒナが孵りとっても嬉しかったこと、毎日々ヒナの成長に目を細めながらいらないことばかりしてそのたび依浬に𠮟られたこと、そしてあの朝ヒナに悲惨な結末が待ち受けていたこと。依浬は黙って私を抱きしめてから、ヒナをゆっくり天に還してくれた。
依浬と私のゆったりした時間はおしまい。もう少し、このまま暮れかかる庭を依浬と眺めていたかったのに。
「お足もとに気をつけて。いってらっしゃいませ」
私は灯火をもって門まで出て依浬を見送った。
「はい。君は先に寝ていてください。今夜は遅くなりそうだから。あっ、それと、何者かが人間の声で話しかけてきても絶対に答えてはいけませんよ。言わなくてもよく分かっているだろうけれど」
依浬が姿を消すとすぐに天から龍が降りてくる音が聞こえ、それは速度を上げて神社に向かっていった。
私は依浬の空になった杯に酒を満たして、飲み干そうとした。が、唇からほとんどの酒を零してしまった。どきんとした。まさか……。身体の自由が利かなくなり始めている。私は灯りを消して寝間に急いだ。眠ってしまい意識のない私にアイツは手出しができない。風の中に龍笛の音が響いていた。でも、きっと空耳ね。ここまで聞こえるはずがないもの。眠ってしまおう。
そしたら、何も怖いことなんか起きない。明日の朝になれば、依浬が戻ってくる。早く私のところに帰ってきて。怖い。だって、私、ときどき私が私じゃなくなるんだもの。何かが憑依して私の体を乗っ取ってしまうんだもの。こんな私を救ってくれたのが、依浬りだった。
依浬は魂や意識が別の生命体に移行する「転生」を繰り返しているのだけれどいつも前世の記憶をきちんと持っている。つまり、依浬は依りなのだ。
ところが私ときたら、とにかくややこしいの。私も「転生」を繰り返しているのだけど、時々そこに「憑依」が入り込んでくる。憑依は他の存在が自分に憑りついて行動するので、その間、私は私ではなくなる。私が私ではないとき、私は一体何になり何をしているのか。そう思うと、気が触れそうなほど怖ろしい。カミソリで手首を切り命を絶とうとした私を、依浬が介抱し自分のそばに置いた。
依浬が初めてこの世に生を受けたのは、平安時代。依浬は転生を繰り返してきた。どんなに輪廻転生というサイクルから脱出しようと試みても、依浬にはそれが許されなかった。いったいいつまで生き続けるのか。むろん自分の使命についての重大さは十分承知している。だけど、そのことはよく分かっているのだけど依浬は心のどこかで天に還るその時をひたすら待っていた。望んでいた。もう疲れていた。この世に、不老不死ほどの不幸はない。
私が依浬の望みを叶えてあげる。それが、私の依浬への愛。だと、私は信じて疑わなかった。
「もうこれ以上、耐えられない」
それまでの生活が突然断たれた被災地の、重く暗い叫びだ。
私の眺めているのは豪雨ですべてを奪われ悲惨に向き合う魂の世界だ。
私は山間の村を見下ろしていた。いつしか西寺依浬も魂の声を聞こうと耳を澄ませていた。
「ほら、ここ。これ、川に見えるけど、もともとは沢だったんだ。こういうのを、"蛇(じゃ)が抜ける”っていうらしいよ」
"蛇が抜ける”、という言葉が私の心を捉えた。"蛇”は私の中で、"龍”に入れ替わっていた。山の頂へむけて、空を飛ぶ龍の幻影が地上にくねくねとした痕跡を残したのだ。
山は見渡すかぎり杉で覆われていた。戦後、建築材や家具材にするのに、まっすぐにのびる幹と腐りにくく柔らかい杉が重宝がられ、人工的に杉が大量に植えられた。だが、状況が変わり不要になったものの、山は"杉の山"として厖大に広がりつづけた。
杉は根が浅い。
棚田の広がる山村を流木や石が押し流したのは、はたして自然の脅威と言い切れるだろうか。私は、これは、人災ではなかろうか、という気がしてしょうがない。
JRの線路が引きちぎられている。近くのトンネルも水浸しになっていた。
押し殺した呻き声がする。
集中豪雨に見舞われた日のこと。朝から土砂降りだった雨は、夕方には「警戒注意報」が出されるまでになっていた。
頭からすっぽりカッパを着た自治会長のワタナベさんが畳屋の老夫婦の店の戸を激しく叩いていた。
「はよー、はよー、避難ばしてください。佐々木さーん、聞こえとりますかー」
「は、はーい。よー、分かっとりますけん」
老夫婦は顔を見合わせて頷き合った。ふん、避難なんかするもんか、するもんか。こんな老い耄れに、いったいどこに行けというんだ。俺はここで死ぬ。長年連れ添った婆さんと一緒に、二人で死ぬ。
「婆さん、はよせいっ。小屋に移るぞ。少しだけ川から遠いけんな」
それから、すぐだ。
ごおッー、と音を立てて小屋に土砂と流木がなだれ込んだ。小屋の上に押し流された店の一部が乗っかり、すぐ隣のワタナベさんの家もぶつかり、押し潰されまいと抵抗する老夫婦を圧し、烈しい無情の雨は二人を殴打しつづけた。
まさか、敵が背後から襲いかかるとは思わなかった。山はずっとそこにあり、人間に絶対の安心感を与えてくれていたのだから。
瓦礫の下からにゅっと泥まみれの人間の足が出ている。どす黒く腐敗した足に蛆虫が蠢いていた。
とそのうちに、私の注意を惹くものが黙々と動き続けていることに気がついた。肥料や玉ねぎ、じゃが芋を入れた麻袋の下の筵が、地面をうねり、這っているのだ。屈んで息を殺し、私はそろそろ筵を持ち上げてみた。
うわあ-。気色が悪いとか、どうこう言っている場合ではなかった。ケバエの幼虫の大軍が私に迫ってきた。
「ちょっと、待って。私よ、私。どうして私を襲うの?」
とたんに、もう目の先まで押し寄せていたケバエの幼虫の動きが止まった。だが、筵は執拗な行進をつづけていた。
流木や石のため、重機が入れず復旧作業は難航した。主要道路が繋がるまでボランティアの手作業だけが頼みの綱だった。
「あそこの家、やばいぜ。よく気をつけておかんとな」
そう、ボランティア仲間で話し合っていた。半身不随の寝たきりの母親、妻、息子を亡くし男は神経をやられたらしいという噂もあった。
ある日、玄関、窓、雨戸、と、入り口という入り口にはすべて釘がうちつられていた。周囲には仮設住宅に移り住んだ人がほとんどだった。壊れ傾いたり、半分だけ残った家が点々としていた。が、その家は高台を少し下がったところにぽつんとあった。
「いくぞ」
体を小刻みに震わせボランティア数人が板戸を蹴込んで中に入った。
ウッ、腐臭で呼吸ができない。
ふらふらと目眩がして倒れそうになったとき明かりが点いた。全身が凍りついた。近寄ることも声も出せない。まさに地獄絵図。
地獄絵図の中で、何とか人の姿をとどめている男の姿があった。
さっきから足元を何かがもぞもぞと這い上がってくる。見ると、腐った男から営々と送り出された白く肥った蛆虫だった。
「おーい、こっちへ来てくれー」
ボランティアの古松さんが叫んだので、皆、風呂場へ駆け付けた。
ああ、何という、何ということだ。
そこに閉じ込められた犬たち(男は野良犬を保護しては世話をしていた。頭数にして五匹)はほとんどミイラになっていた。戸を開け放つと、やっと死の儀式が始まり風呂の中に閉じ込められていた魂たちがゆっくり天に還ろうとしていた。どこからか、龍笛の音が聞こえてきた。
笛の音は浴室に響き渡り特別の葬送曲を奏でているようだった。ポッテン、ポッテン、浴槽に蛇口から水滴が細く滴り落ちていた。私は掌に水滴を溜めて、それぞれの犬の死骸の口元にかけてやった。古松さんが目頭を拭った。
依浬、あとはお願いね。
龍笛の音が強くなったとき、一陣の風が吹き犬たちがふわりと宙に浮いた。と思うと、もうその姿はどこにもなかった。
豪雨被災地では強烈な悪臭が襲う。それは鼻を圧する臭いだ。うだる暑さの中で何もかもが混濁し、腐敗し続ける物たちから発せられる圧倒的な臭い。本箱の中に閉じ込められた、辞書や小説や哲学書が浸水して膨れ上がっていた。
そういう夥しい数の物たちの魂の声が誦経のように唸った。
「うへー!」 佐藤君が泥をかぶったまま傾いている冷蔵庫の前で立ち止まった。冷蔵庫は形が変形するほど腐敗菌でぱんぱんに膨らんでいて今にも破裂しそうだった。
「お兄ちゃんたち、これ全部、外に運んでくれんね」
顔を曇らせたおばあちゃんがぼんやり突っ立っていた。おばあちゃんは被災地の泥と同じ色をしていた。
「分かりました」 古松さんが先ず、本箱を運び出そうとしたときだ。何とか保たれていた輪郭が陽炎のようにゆらゆらと崩れた、と思ったらあっという間に残骸となった。
「こりゃ、運び出すのは無理だな。なっ、佐藤君」と振り向くと、ぐらりと前に倒れてきた冷蔵庫の前で佐藤君が尻もちをついていた。と同時に、もの凄い悪臭。なんだか怪しげな塊が中からどろどろと溢れ、驚いてあんぐりと口を開けた佐藤君の口を塞ぎはじめ、いまにも窒息死しそうだった。どろどろとした塊は魑魅魍魎のように佐藤君に襲いかかった。
「なんなんですか?これ」 古松さんが苛立たしげにおばちゃんに言いながら、指を突っ込んで佐藤君の口からどろどろを搔き出していた。
「うん。それがね、卵……、なんよ」
「えっ? 卵? でも、どうしてこんなにたくさんあるんですか」
「うん。それがね、豪雨の前の日に、親戚からダンボールいっぱいもろたんよ」 おばあちゃんはとっても申し訳なさそうに小ちゃくなっていた。
「いや、ごめんなさい。ちょっと感情的になってしまって」
古松さんが頭を下げた。
そのとき、「えっ? 蛍? でも、昼間だよ。なのに、蛍?」 遠町さんが素っ頓狂な声を上げたので、皆の気持ちが一気にそっちに向かった。
それらはあっちにポツリ、こっちにポツリと私たちが見てる間にどんどん増えていき、あたりを舞いはじめた。
ああ、これは蛍なんかじゃない。人や物たちのたくさんの彷徨える魂なんだわ。きっと。そうこうしていると、魂の光が速度を上げて渦を巻き日輪のような強さで大きく、大きくなり、何もかもを吞み込もうとしはじめた。
依浬、助けて。どうしたらいいのかわからない。あまりにもたくさんの魂がいっせいに私に話しかけてくるものだから、私、混乱している。
龍の気配。そう、依浬がきた。西寺依浬は唇を嚙みしめた。
「君が混乱してはならない。君が混乱すると、僕の波動が狂うんだよ。だって、君は、僕の……」
「僕の、なんなの?」 だけど、依浬の言葉はいつもそこで終わった。
依浬は龍笛を吹く構えに入った。そこで依浬は何かがおかしいことに気がついた。依浬の龍笛は依浬の手の内に在って歌口から唇は離れている。
ところが、龍笛の音がする。
いや、これは龍笛ではない。突然、あらわれた笛の音は幾分寂しげで、というよりはヘルツが異なっていた。龍笛の音色が彷徨える魂の波動調整をするのは430ヘルツに対し、これは依浬が今まで聞いたことのない不可思議な揺らぎなのだ。
それは、火焔樹の下で竜笛を吹く迦楼羅(かるら)だった。(仏教での想像上の鳥で、口から火を吐き、龍を食べるといわれている)
依浬はしっかり立って、その不可思議な音色に負けないよう、力の限り龍笛を吹いた。吹いて、吹いて、吹いた。
すると、迦楼羅と依浬の音色が激しくぶつかった。どのくらいの不協和音が続いたろう。いつしか音色は不可思議な音色の迦楼羅の吹く竜笛だけになった。最後に寂しげな音色がピーと鳴り、あたりは静けさに包まれた。
迦楼羅の金色の翼が怪しく光り輝き、頭につけた如意珠のなかに濃紫の龍の姿が浮かび上がった。
それっきり、依浬も龍笛の音も消えた。
上昇していく濃紫の龍は幾重にも重なった雲を抜け、此界から他界へと突き抜けていった。天空からかすかに笛の音が降ってきた。依浬の面影が降ってきた。きらきらと輝きながら依浬の龍笛が落ちてきた。
龍笛の、歌(龍笛の歌口から穴の六までの部分)と笛鞘の蒔絵の龍がどこかに消えていた。
もう二度と、私は依浬に会うことは叶わない。でも、でもね、私、依浬を苦しみから解き放ってあげた。輪廻再生という再生のサイクルから脱出することができたのだから。
迦楼羅が私に向かって近づいてきた。それが、約束だった。私は今日から迦楼羅に仕える。ほら、もう、そこに。
金色の翼が怪しく光った。と、私の記憶のすべてがなくなった。頬を伝う涙だけが一粒、依浬の残した龍笛のうえに落ちた。
